第四十一話
はらはらと黒い髪は床に落ちる。
けれど、意識が暗がりに落とされることはない。それどころか意識は普段よりも一層明瞭だ。蒼穹を貫く太陽光線みたいに。
「ありがとう」
錯乱と緊張の渦の中に一瞬間前まで居た人間とは思えないほど、すっきりとした感謝の言葉が口から漏れた。安堵と微かな恥じらいが混じっているような気もする声音だった。
言葉に同調するように、表情も柔らかになったと思う。あくまで思っているだけ。自分を見ているのはミサカさんだし、いまと昔を比較するのはミサカさんしかいないんだから。
ミサカさんは驚嘆の表情で僕を見つめている。翡翠色の瞳には目いっぱいの光が入って、宝石みたいに輝いている。
なんて綺麗な人なんだろう。
「貴女……」
パクパクと口を動かしながらも、それに伴わない語数でミサカさんは僕の何かを指摘する。おおよそ、表情のことだろう。いまと昔の僕の間で変化したものは、そのくらいなんだから。
「誰だって心の底から信頼している人を目の前にすれば、自然な表情くらい浮かべられるよ。嘘偽りのない屈託のない表情をさ」
そう、僕は貴女を信頼しているからこそ脱力した表情を浮かべることができているんだ。貴女が一切の悪意無く、僕に接してくれたからこうしてお母さんやお父さんの前でしか見せたのことのない表情を見せることができているんだ。聖人であるあなたの前だからこそ。
善意を注いでくれた人を前に僕はそっと微笑む。そして、呆然と立ち尽くすミサカさんの手から鋏を取る。
これ以上、この人を試す必要はないんだ。
僕は理屈とは別のところで、この人のことを信頼しているんだから。いいや、理屈と乖離している訳じゃない。理屈を充足させるだけの証拠を見れずにいるって言った方が正しいんだろう。いつ、どこで、どんなふうにして行われた行為の中に、真正な善意が含まれていたのかは分からない。
けれども、僕はそういうことを無意識の中で獲得していたんだ。だからこうして、僕は僕の肉体が拒絶を示していた行為を過ぎても、笑っているんだ。
でも、傲慢で意地汚い僕は確証が欲しい。こんな面倒くさい人間に、どうしてあのミサカさんが善意を注いだのか、このことに関する明瞭な証が欲しい。きっと、そうすることで、初めて僕だけの王国が、いいや、僕らの王国が完成するんだろうから。
「ミサカさん。大丈夫?」
「……大丈夫。気は確かよ」
小さな震える声は、言葉の意味を否定しているように思える。どことなく顔も赤らんでいるし、肩も小さく震えている。大丈夫じゃない気がする。貴女が大丈夫じゃないと、僕は貴女から確信を得ることができない。
だから、そう、気を確かに持ってほしい。
ただ、僕はミサカさんに負荷を掛け過ぎた。これ以上この人に負荷になるようなことを求めるのは、傲慢の一言で許されるものじゃない。だから、ここから確証を得ることは、僕の責任によって行われなきゃいけない。この人に対しては、過去の僕を見せても良いんだから。
とはいえ、何をすればいいのかさっぱりわからない。あと、顔が良くて、その笑顔が魅力的な僕を見て、どうしてミサカさんみたいに凛とした一本の芯を持っている人が取り乱しているのかがわからない。
やっぱり、二年のブランクは重かったか……。
後悔先に立たず。それなら、いまはいまの状況に適した行為を取ろう。と言っても、どうすれば良いんだろうか。混乱を収めるためには、一体どうすれば良いんだろう?
「……貴女は分からないことがあるとすぐに考え込んで、最も良い手段を見つけようと時間を費やす。嫌いじゃないけれど、それを癖にするのは好まれないわよ」
呆れに少しの怒りが含まれた芯のある声で、ミサカさんは僕の癖を指摘してくる。そして、僕の右手首を僕が痛いと思うほど握りしめると、何のためらいも無く、僕の体を自分の方に力強く引っ張った。
弱々しい僕の体がミサカさんの力に耐えられるわけがなく、僕の体はミサカさんに抱き留められる。そして、さっきまでの震えも赤らみも無く、普段の冷たさを含んだ瞳で腕の中に居る僕を見下ろす。
「なにするのさ?」
「どうして不満げなの?」
「誰だって唐突にこんなことをされたら驚くでしょ」
不満を訴えるミサカさんに常識をぶつける。けれども、帰ってくるのは理解に従属する納得じゃなくて、大いに呆れを含んだ溜息だった。
訳が分からない。
いや、訳が分かってないのは僕なのかもしれない。
違う。訳が分かってない訳じゃない。僕は自分の価値観の中で閉じこもってそれを分かろうとしなかっただけだ。だから、冷たいばかりだと思い込んでたミサカさんの瞳の中に、アマネちゃんと同じ妖しい光が灯っていることに疑問符を覚えてしまっているんだろう。
でも、どうしてだ。
僕はミサカさんのこの光に嫌悪感を覚えない。アマネちゃんのそれにはおぞましさを覚えたはずなのに……。
こうしてまた動き出そうとする僕の思考回路に、ミサカさんはストップをかけた。突拍子も無くて、けれどもロマンスに溢れた行為を僕のおでこに施した。
ひんやりとした手で前髪を上げて、露わにされた額にいきなり唇を落とされたら、誰だって思考回路を停止するはずだ。結果として、僕の思考は停止してしまい、額から離れ、クスクスと笑うミサカさんを呆然と見つめることしかできなくなってしまった。
「これが私の伝えたかった意味。貴女が欲しているものに対する答えの一つ」
頬を少し赤らめるミサカさんは僕を自立させると、今度は僕の首に腕を回してきた。脱力しきった体と働かない思考はミサカさんの行為をただただ受け入れる。
「そして、これが貴女の傲慢を受け入れてきた本質的な解。言葉じゃなくて、行為の方が貴女は納得するでしょ」
「……多分」
熱っぽい視線と移り行く体温に晒されて、僕はミサカさんの唇を受け入れる。歯茎をなぞり、僕の舌と絡み合うミサカさんの舌を受け入れる。
妖しい水音が頭に響き渡り、得も言えない甘みが口に広がる。それはアマネちゃんのときに覚えたそれと同じ。
けれど、それは物理的に同じだけであって、感情的には違う。
これは、そう、連関する僕らの関係だ。
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