第四十話
「わかったわ。こっちに来て」
キッチンからリビングに戻り、鞄の中を漁ってミサカさんは筆箱を取り出した。そして、赤い取手の鋏を取り出した。
右手に鋏を持つミサカさんは何も訊ねず、リビングの入り口で突っ立っている僕を手招きしてくる。啖呵を切った割に、心は相変わらず震えている。
きっと、この行為によって、アマネちゃんと同じ結論が弾き出されることが怖いんだ。やる意味のない行為をして、僕の頭に浮かんでいる結論と別の結論が出ることをどうしようもなく恐れているんだ。
思い切ったことを言った後にはいつも後悔がやってくる。そして、後悔は再び体を震わせる。体温も酷く下がってる気がする。きっと、顔色も悪くなってるだろう。
ほんの数歩なのに歩き出せない弱虫を、ミサカさんはただただ見守ってくれている。顔色一つ変えず、僕が一歩踏み出すことをジッと、優しく、お母さんみたいに待ってくれている。
謝っても仕方がない。これはミサカさんが僕に与えてくれた一つの試練だろうから。だから、僕はこれを踏破しなきゃいけない。土壇場で幸か不幸か助けられてきた僕が、誰の手も借りず、自分から望んだものを得ることをミサカさんは望んでいるんだから。
望んでいる?
どうして僕がミサカさんの意思を勝手に決めているんだ?
ミサカさんが僕について抱いている感情として決まっているのは、僕のことを特別だって、ある種の好意を抱いてくれていることだけだ。それ以外は何も知らない。何が好きで、何が嫌いでとか、そういう好き嫌いを僕は知らない。もう、それはほとんど何も知らないって言っても良い。だから、僕がミサカさんの中身がそうであると決めるのは傲慢だ。もう幾回と繰り返してきた自己嫌悪だ。
簡単な理屈さえ僕は理解できない。
傲慢は悪だ。
こんな簡単なことさえ僕の頭は咀嚼してくれない。
「自分から頼んでおいてその様?」
ミサカさんは緩んでいた表情を緊張させて、氷の目で僕を見つめる。
分かってるさ。相手がそれを飲んでくれることを知っていながら、僕だけが得をする条件を突きつけながら、得手勝手にそれを恐れるなんて馬鹿で阿呆だ。人の優しさに付け込んだ傲慢な態度が許されるわけがないって。
けど、これはこれ、それはそれだ。もう、理屈じゃないんだ。こればっかりは心に染み付いた臆病と恐怖なんだ。
やけくそ染みた混乱を抱えると人は逆恨みをしてしまう。と言っても、僕は言葉にすることができない。だから、子猫の威嚇のように睨みつけることしかできない。
「貴女って本当に自分勝手ね」
でも、僕はその一言で恐怖を忘れる。
あまりにも惨めな怒涛が口から溢れ出す。
「分かってるよ。分かってるけど、仕方がないだろ。もうなんにもわからないんだよ。何をやっても怖くなる。『よしやってみよう』って思っても、自己嫌悪に陥る。立ち止まったら両方だ。こんな状況でどうしろっていうんだ。自分じゃそれが自分を変える良いことだと思っても、相手のことを考えると自分勝手な要求としか思えなくなる。それは悪だ。自分勝手な言動なんて相手の気を悪くさせるだけの愚行に過ぎない。けれど、自分を変えるためには愚行をやらなきゃいけない。相手から嫌われるかもしれない、相手を傷つけてしまうかもしれないなんて考えながらさ。もちろん、誰にも嫌われたくない、誰からも傷つけられたくない、こう考えること自体、傲慢で臆病だってことはわかってるよ。けどね、やっぱり怖いんだよ。傷は消えないんだからさ……」
溢れ出す惨めさと虚しさが胸を貫く。そして、自分勝手すぎる悲しみが口と目から漏れだそうとする。凛然と僕を見つめ、慈しみの暖かな光を与えてくれるミサカさんのためにも堪えなければならない。いや、ミサカさんのためじゃない。僕のためだ。
「へえ……。でも、その態度は貴女に関わる人全てを不幸にするわよ。いや、不幸は言い過ぎね。迷惑をかけるっていった方が正しいかしら」
「……わかってるよ」
「分かってないでしょう」
慈愛の表情で僕の駄々を許してくれていたミサカさんはもういない。
ここに居るのは、マッシュ君との一件で見せたミサカさんだ。あれだけ近くで見ていて、僕がなだめたんだから間違ない。大体、経験がなくともいまを見ればわかる。酷く冷たい眼差しと冷淡な声音、そして明らかに不機嫌な雰囲気。そういうものが見て取れるんだから。
でも、そうであったとしても僕は勇気を出せない。目をそらしてしまう。別にミサカさんが言っていることが、現状と合致しているからじゃない。理解はしているんだ。けれど、精神と肉体とが理解に追いついていないんだ。
ぶるぶると震え、無責任に涙を浮かべる人を見つめるのは、どんな気分なんだろう? いいや、こんなのは問わなくても、目を背けていてもわかる。
「これ以上、手間を取らせないでくれる」
ほら、どことなく声音が楽しそうだ。
やっぱり、どれだけ親しくて、どれだけ人を慈しむ人であっても、自分よりも下を見ると安心するんだ。そして、安堵と共に快楽を覚えるんだ。少なくとも自分よりは下が居るって、醜く笑うんだ。
現実は体を強張らせる。
握りこぶしが自然とできる。
そして、蛮勇を僕に抱かせる。
人間、よくわからないことだらけだ。いや、僕だけがこういった現象に見舞われるのかもしれない。無力で意気地なしなのにもかかわらず、相手の迷惑を省みない傲慢さを持っている酷い人間だからこそ生じる現象なのかもしれない。
不明瞭な自分の精神に疑問符を投げかけながら、僕は一歩踏み出す。力強い渾身の一歩だ。といっても、体が軽すぎて、そして疲れすぎていて満足に力なんて入らなかった。ミサカさんから見ればただの一歩に過ぎない。でも、僕にとっては大きな一歩だ。
踏み出しさえすれば、あとは流れに身を任せるだけだ。きっと困惑の表情で僕を見つめているミサカさんに向かって、二歩、三歩と、足を動かすだけだ。実際、体は僕の考えているように動いてくれる。惨めったらしい感情も、体の震えも無く、けれどもぎこちなく僕の体は動いてくれる。
「ほら、手間を取らせないようにしたよ」
「やればできるじゃない」
「別に褒めてほしいわけじゃない。ただ、ミサカさんに髪を切って欲しいんだ」
「もちろん」
楽しそうに、けれども物悲しさを含んだ? 声音の後にミサカさんは手を伸ばす。
どうしてミサカさんの声音は対立しているんだ?
どうして若干の悲しみを含んでいるんだ?
だって、ミサカさんは僕を諦めたはずだろう。だから、僕が目を逸らすその時までマッシュ君に向けていた無関心と侮蔑を含んだ視線を向けていたんだ。それなのに、どうして僕に関心を寄せて、しかも限りなく寄り添うような感情を声音に含んでいるんだ? いいや、こんなのは違う。僕の主観的な認知でしかない。ミサカさんはいまも僕に失望している。無関心が変質しただけで、根底にあるのは失望だ。
でも、そうだとしたら、どうして左耳にかかる髪を摘まむミサカさんの指先は震えているんだ? 静かな嘲笑だけを投げかけているだけなら、こんな振動生まれないだろうに。
「切るわよ」
冷たい金属光沢をもつぱっくりと開いた鋏の刃は、親指と人差し指でつままれた小さな髪の束を挟む。
酷い動悸がする。
冷や汗が背中にじんわりと広がる。
視界が安定しない。きっと、涙のせいだ。
どうやら、蛮勇はここにきて切れてしまったらしい。破れかぶれの態度は無くなって、相変わらず臆病でどうしようもない自分が蘇る。でも、僕は言ってしまったし、来てしまった。いまさら取り返しがつくわけがないんだ。
鋏は既に動き始めた。ゆっくりと、明らかに現実の時間に則していない間隔で、鋏は片刃と片刃は接近していく。焦燥と後悔が胸を苦しめ、慈愛に満ち満ちたミサカさんとの記憶が走馬灯のように流れる。好奇心から始まる僕の接近とミサカさんの拒絶から始まって、今まで続けられてきた僕だけの王国の再建の記憶は随分と色鮮やかで、遥か昔と思えるほど遠くなってしまったあの頃と同じ輝きを持っている。
ただ、やっぱり、その色と輝きは怖くて仕方がない。あの時と同じ感覚だ。
鋏の刃は近づいてくる。
もうそろそろだ。
僕は瞼を閉じて、色鮮やかな再建記を見返す。美しくて懐かしいけれど、結局は後悔に終わるだろう黒い青春の記憶は、胸を締め付ける。けれど、この苦しみを、いままで抱いてきた苦しみもここで終わりだと思うと安堵する。
安堵?
それはおかしい。どうして僕はこの終わりが、最期の最期で美しい記憶を僕につくってくれたその人を失望させた愚かな人間の初秋の記憶の終わりが、幸福なものだと思っているんだ? 僕に訪れるのは激しい痛みのはずだ。過去と現在のすべてを自分の都合で壊したんだから、それが当然の報いのはずだ。
なのに、どうして、僕は自分だけが幸せになって終われると思い込んでいるんだ?
いいや、この疑問を抱いていること自体おかしいんだろう。きっと、この記憶の最期が幸せになるっていう確証をどこかで得ていたんだ。でも、僕はそれが異なるものだって断定して、自分は昔のまま、王国の残骸の中で暮らすこととなるって思い込んでいたんだ。それが一番楽で、一切の痛みを伴わないから。だから、そう、断定の全ては僕の停滞を望む精神が生み出した虚像だったんだ。恐れから来る虚像は、ミサカさんが与えてくれた信頼の証さえぼかしてしまっていたんだ。
けれど、そんなことはどうだって良い。
例え、いつかミサカさんが与えてくれた信頼が見えなくなっていたとしても、いまその証は再び与えられるんだ。それは僕だけの王国が再建された証ともなる。
だから、いまの行為に瞼を閉じて恐れる必要なんてない。決まりきった結末を受け入れればいいだけなんだから。
瞼を開く。
瞬間。
チョキン。
髪は切られた。
***********
『面白い』、『先が気になる』と思ってくれた読者様、♡、☆を押していただけると作者としては幸いです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます