第三十九話

 どうしてそんな寂しそうな顔をするんだ。

 どうして貴女は僕の心をこんなにもかき乱してくるんだ。

 聞かなきゃわからない。

 でも、僕はそれを聞くだけの勇気を持つことができない。いや、持っちゃいけないんだ。大切な旧い友人を傷つけて、新しい関係下にある人さえ傷つけてしまう過去への固執を持っている僕なんかが、人を傷つける可能性を伴っているかもしれない行動を取っちゃいけない。贖罪の術すら知らないんだから。

 でも、贖わなければいけない。寂しそうな面持ちで、手をハンカチで拭くミサカさんに僕は謝らなければいけない。薄暗い中、独りぼっちで僕を待ってくれていた優しすぎる人に許しを請わなければならない。


「でも、気にしなくて良いわ。さっきも言ったけど、私の意思が介在してない貴女だけの選択なんですもの」


 ただ、ミサカさんはそれすら許してくれない。

 いつもと同じ申し訳なさと気まずさだけが込められた言葉を紡ごうとした瞬間に、微笑みかけ、僕の言葉を消してしまった。虚しくもそれ以外の言葉が浮かばない僕は体を震わせて、きっと青白い顔で、ミサカさんを見つめることしかできない。息をすることさえ苦しい。


「まあ、貴女がそういう表情を浮かべるのはよくわかるわ」


「そういう表情って?」


「分かってるでしょ。目を見開いて、口をわなわなと震わせて、絶体絶命の状況に怯えるような表情」


 呆れの溜息を吐きながらも、ミサカさんは寂し気な微笑を浮かべながら淡々と僕の外聞を伝える。ミサカさんの言葉の一音一音が心を痛める。


「だから、追求しないわよ。したところで私の機嫌が損なわれるだけだろうし、貴女がこれ以上傷つく姿は見たくないし」


 ただ、ミサカさんの無感情を貫いたぶっきら棒な音声は、慈愛に満ちた声音に代わった。けど、僕はその意味が分からない。合理的に考えれば、いや、この状態で合理的なことなんてないんだろうけど、でも、ある一定の打算的な思考に則れば、ミサカさんが僕に優しくする道理なんて無いんだ。


「……どうしてそんなに優しいのさ? 僕はミサカさんに何もしてない。むしろ、ミサカさんを傷つけてばかりいる。なのに、傲慢な言い方になるけど、どうして僕を気にかけてくれるの?」


 頭から全身に流れていく鈍痛から解放されるためにはこうする他ない。さっき、勇気を持っちゃいけないと言ったのに、僕は蛮勇を持ってしまった。いや、蛮勇じゃない。これはただの逃避だ。痛みから逃れるためだけの独善的な逃避に過ぎない。

 これを自分勝手な言動だとミサカさんは理解しているはずだ。そして、ミサカさんは自分のことしか考えていない言動を取る人を毛嫌いしてる。なのに、どうして、ミサカさんは僕に憐れみの微笑をむけてくるんだ?


「そうね。まあ、簡単な理由よ」


 簡単な理由なら早く言って欲しい。それを教えてもらえば僕はその理由に沿った行動を取れるんだから。


「けど、これを話したら貴女はつまらない人間になってしまうわ」


「どうして?」


 焦りと苛立ちが僕の声音を刺々しくさせる。けれど、ミサカさんは微笑みかけてくれる。


「だって、貴女は私の望んだような人間になるでしょう。私から嫌われたくないという一心で、貴女は自分を偽る。そして、自我を消して、無味無臭な人間になる。そんな貴女は見たくないわ。平々凡々で、私に言い寄ってくる人たちと変わらない人の顔色を窺う人間になって欲しくない。だから、言わないわ。少なくとも貴女が私のことを完全に信じてくれるまでね」


 憐憫とも言える微笑は僕の感情を煽り立てる。いつか完全に捨てたはずのプライドが蘇って、一丁前に反骨精神を芽生えさせる。焦燥感がじくじくと胸を焼いて、ミサカさんの態度に苛立たしさを覚えてしまう。俯瞰的に物事を捉えられているはずなのに、体は今すぐにでも理由を求めている。感情が行動を支配しようとしてくるんだ。

 昔の栄光を試して、それすら信用することができないことを僕は知った。

 だのに、いま最も信頼している人にそれを試そうとしている。そんな必要があるんだろうか? どうせ信頼できないのに。

 けれど、胸を焼く焦燥感と無駄に芽生えたプライドをへし折るためには、こうするしかない。

 それに、きっと、過去と現在とのミサカさんの連関が証明されれば、つまり、ある種の、いや、こねくり回すのは止めよう。アマネちゃんにしたことと同じことをして、僕が何も覚えなければ、僕はミサカさんを家族と同じように信頼しているということになる。

 もはや、理屈による証明はできない。僕ができるのはただ行動するだけだ。

 焦燥感と無意味なプライドが体を包み込む。そのせいで全く落ち着かない。けれど、頭だけは妙に冴えている。だから、いまなら何でもできる気がする。悪魔の証明さえできるような気がする。


「ミサカさん」


 声音が変わったことにミサカさんは面持ちを崩して驚いた。けれど、その均衡はすぐさま正され、また憐憫の表情へと戻る。


「何かしら?」


「ひとつだけ頼み事があるんだ。凄く簡単なことだし、それでミサカさんが困ることもない。だから、どうか頼み聞いてほしいんだ。あと、本当に自分勝手だけれど、このことについて深く訊ねないで欲しいんだ……」


 恥知らずの僕は頭を下げて自分のつま先を見つめる。

 ここまで来て臆病風に吹かれている自分が馬鹿らしくて仕方がない。


「良いわよ。聞いてあげる」


 ただ、愚か者の頼みごとをミサカさんは了承してくれた。一切を受け入れてくれるような声音で、きっと慈愛の微笑を浮かべながら。

 でも、ポジティブに状況を考えても僕はミサカさんを信頼できない。ミサカさんが向けてくれる興味が好意と分かっていても……。


「ミサカさん、鋏ってある?」


「ええ、筆箱に入ってるわ」


「ならよかった」


「それで何をしてほしいの?」


 ああ、これで人を試すことは最期なんだ。だから、最期くらい顔を上げて、誠意をもって、後腐れのないように頼もう。

 吹っ切れた思考回路が弾き出した判断にしたがって顔を上げる。

 やっぱり、本当に、多分、試す必要なんてないんだろう。汚れを一切感じない微笑を浮かべているんだから。僕だけを真摯に見つめてくれているんだから。

 それゆえに、僕は一切苦心なく、言葉を紡ぐことができるんだ。


「髪を切って欲しいんだ」


 きっと、安らかな微笑を浮かべながら、僕は胸の内に浮かんだ言葉を紡いだ。


  






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