第三十八話

 服従せざる得なかった僕はミサカさんの家に連れ込まれた。

 歩いている間、ミサカさんは口を開いてくれなかった。もっとも、喋る気力が僕に残っていないことを知っていたからなのかもしれない。それとも僕に失望していて何も話したくないと思ってただけか。

 なんというか、あちらは一方的にこちらを知れるのに、こちらはあちらを知れないのは不平等だ。けれども、それは僕の感性が鈍いせいだ。誰かのせいには出来ない。とはいえその不平等を呪う権利はあると思う。呪ったところで何もできないんだけれど。


「それで、どうして貴女はさっきから落ち着きがないのかしら?」


 現実を見ないように考えに耽って、玄関の広さと綺麗さに目を奪われている僕にミサカさんは苛立った言葉を紡ぐ。

 フロントもそうだけれど、普通の住宅街にこんな高級マンションを建てようと思ったんだろう? もっとも、そこそこ栄えた町に一軒家を持ってる家庭も一般的に見れば同じなのかもしれないけど。

 頭は現実から離れようと関係ないことばかり考えてしまう。広々とした白いタイルの上に突っ立って、ぼうっとフローリングの床を見つめてしまう。ミサカさんを見ないように視線はふらふらとうろついて、体も同じようにふらふらと動き続けてしまう。集中力の無さというか、臆病すぎる精神というか、そういう自分が嫌いになる。


「とりあえず上がりなさい」


 履いていたローファーを揃えたミサカさんは、僕に配慮してなのかこちらを向かず、淡々と暗がりを歩き出す。そして、廊下の灯りを点ける。


「冷えるわよ」


「別に寒くないよ」


「社交辞令を知らないのかしら?」


「……分かったよ」


「立場を理解しなさい」


「……分かったよ」


 うじうじと玄関に突っ立っている僕を見かねたミサカさんは、心の底が冷え切るような声音を漏らした。そして、僕がスニーカーを脱ぎ出すとほとんど機械的に引き戸を開けて、リビング? に入って灯りを点けた。ミサカさんは一体何を考えているんだろう?

 いや、こんなことを考えたところでまたいじけるだけだ。それに僕は自由な権利を持ち合わせていない。僕のスケープゴートとなることを覚悟した恩人から逃げ出してしまったんだから、それは認めなければいけない。決してこれを非難することはできない。だから、僕はミサカさんの無感情な要求にしたがって足をフローリングにつける。もちろん、スニーカーは揃えた。流石に脱ぎ散らかすなんて出来ない。

 リビングは広々としているし、ダイニングキッチンまでついていて、とても学生が一人暮らしている部屋には見えない。

 ただ、白いキルトのカーペットだとか、灰色の綿のソファだとか、ガラス天板のローテーブルだとか、木製の黒い本棚とか、人一人くらいの大きさの冷蔵庫だとか、食器棚だとか、必要最低限の家財道具しかない辺り、一人暮らしっていう雰囲気もあまりない。ダイニングキッチンも一回も使ったことがないみたいに綺麗だし、シンクも水気が感じられない。本当に人が住んでいるのかと疑ってしまう。


「生活空間をじろじろと観察するのはあまりいただけないことよ」


「ごめん。でも、あんまりにも綺麗だからさ」


「家政婦さんが掃除してくれてるからね。毎週木曜日の日中に来てね。それで一人暮らしでしょう。だから、家政婦さんが入ってくれた日に帰ってくるとモデルハウスみたいに綺麗な状態なのよ。もっとも、家政婦さんが入ってなくとも綺麗よ。基本的に散らかった空間は好きじゃないし」


 素っ気なく言葉を紡ぎながらミサカさんは、学生鞄をソファに置く。それから、キッチンに向かうと、蛇口のレバーを上げて、乾いたシンクに水を落とした。そして、水を出しっぱなしにしたまま、食器棚から白いマグカップを取り出して、水を注いだ。そのまま流れるように口をゆすぐ。乾いていた桜色の唇は潤って、艶めかしさを取り戻した。口から出る生温そうな水はアマネちゃんとの記憶を呼び起こす。

 ぼうっと日常的な動作を取っている人を凝視しているのは、されている側からすれば不気味なことこの上ないと思う。ミサカさんも例外なくそうで、翡翠色の鋭い視線を向けてくる。


「気持ち悪いわよ」


「ごめん」


「さっきから謝ってばかりね」


 ただ、いつものように僕が謝ると呆れて溜息をもらす。


「とりあえず手を洗って。話はそれからよ」


「洗面所じゃなくて良いの?」


「別に水を使える場所だったらどこでも良いでしょ」


 手を見ずに、手を濡らしたミサカさんは、キッチンに置かれたハンドソープの容器をプッシュして手に泡を乗せる。甘い人工的なモモの香りがリビングに香ってくる。シンクに阻まれて物理的に見えないけれど、濡れているミサカさんの手は綺麗だろう。見とれるほど綺麗なはずだ。

 いや、こんな変なフェチにうっとりとしていないで手を洗ってしまおう。でも、滑らかに動くミサカさんの手を見て熱い記憶は蘇ってこないだろうか。不安だ。もしも蘇って、それが表情に現れてしまったら、僕は死にたくなる。秘密にしなければならない醜態を高潔な人に見られるのは恥ずかしくて仕方がない。

 とりあえず、ミサカさんが手を洗い終えた後に手を洗いに行こう。万が一を恐れるのは僕の習性にも適ってる。だから、いまはスマホでも弄って待ってよう。


「スマホなんて弄ってないで。時間を無駄にするつもり?」


「いや、二人じゃ狭いでしょ」


「貴女の目は節穴なのかしら?」


 確かにミサカの言う通り、スペースなんて有り余ってる。僕が行ったところでキッチンにはまだ余裕がある。その環境がある上で、僕はスマホを弄ってる。確かに不自然だし、無駄を嫌う傾向にあるミサカさんを苛立たせることは間違いない。

 でも、正論がそうであったとしても僕はミサカさんの隣に立つことはできない。それは気まずい状況を避けるために必要なことだから。いや、それよりもただ僕の身可愛さってだけだ。だから、僕は貴女の隣には立てないんだ。

 答えられない質問には目を背ければいい。そうすれば人は意図を汲み取って、追求してこなくなる。おおよそ失望に近いんだろうけど、でも、醜態を晒すくらいならそっちの方がよっぽどいい。


「目、また逸らすのね」


 でも、例外もいる。

 その例外と僕はいま一緒の空間にいる。

 つまるところ逃げ場がないってことだ。

 何も言い返す言葉はないし、気まずい空気はより一層重くなる。きっと、今日の放課後よりもいまの空気の方が重いはずだ。

 ただ、だからと言って弁明の言葉を口にすることはできない。それは言い訳にしかならないんだから。そうして僕らの崩れ切った仲を灰燼にするくらいだったら、追求があったとしても黙っていた方が良い。ミサカさんが諦めるまで、呆れかえるまでずっと黙っていた方がよっぽどいい。


「まあ、いいわ」


 ミサカさんが諦めた結果として、沈黙が僕らの間に満ちる。手を洗う音と水がシンクに落ちる音だけが、広々とした寂しいリビングに響く。残響が心を苦しめる。


「別に気にしてないわよ。貴女の選択だもの。だから、貴女もそれを恥じる必要はない」


「何を言ってるの?」


 ステンレスのシンクに落ちる水の音が鳴りやむと、ミサカさんは呆れて冷めた声音で訳の分からない言葉を紡いだ。

 嫌な予感に顔を上げて、ミサカさんを見た。そこには暗く、憂いに富んだ表情を浮かべるミサカさんがいた。気まずさここに極まれりだ。僕だって馬鹿じゃない。ミサカさんが何を言おうとしているのか分かってる。だから、それを指摘されようとしているからこそ、忌まわしくて重苦しい羞恥が僕の心を満たしているんだ。


「何って、貴女が一番よく知ってることよ」


「……なんで?」


「特別な人の香りに変化があれば人って意外と気付くものよ」


 そうしてミサカさんは寂しげな微笑を浮かべる。

 僕はそれにただただ肩を震わせる。









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