第三十七話

 事情を悟ってくれたアマネちゃんは僕に服を着るように促してくれた。そして、僕が学校から出た時と同じ服装になると、もう帰るようにと言ってくれた。約束を履行しなかった人間に対する処置としてはあんまりにも優しすぎる。僕のことばかり心配して、自分の利益のことは何も心配していない。慈善活動だ。教会の牧師さんみたいだ。神様の寵愛の名のもとにすべての愚行を許してくれる清純な人みたいだ。

 ただ、清純とは言うけれど実際のアマネちゃんの双眸には妖しい光が灯っていた。玄関を出る前、居た堪れなさから顔を直視することができなかった僕でさえ認めることが出来た、藍色の瞳を僕は忘れない。そして、そんな怪しげな人が別れ際に紡いだ言葉も。


「また、寂しくなったら来てよ」


 僕はその言葉に体が熱くなった。ただ、酷い悪ふざけだとも思った。初夜について抱いている感情を知っているはずなのに、過去への堕落を促すような言葉を紡ぐなんてあんまりにも残酷だとも思った。

 けど、憤りに似た感情はすぐに無くなった。それは僕がアマネちゃんに取ってきた態度を鑑みれば当然のことで、むしろどうして僕がアマネちゃんの要請を断れるだけの権利があるんだろう。こう考えていること自体がおかしいんだ。それ自体がアマネちゃんに対する酷い悪ふざけで、一度縋ってしまった過去に支払わなければならない代償だ。

 認知を改めた僕は小さく頷いた。アマネちゃんの熱を帯びていただろう顔を見ず、お母さんに怒られている子供のように小さく頷いた。アマネちゃんは僕の姿を見て何を思ったんだろう。頼みを叶えて上げたのに、別れ際に酷い扱いを受けたことへの苛立ちを覚えていたんだろうか? 僕の輝かしい過去の面影は、すっかり僕を不当な人間としたんだろうか?

 いや、そんなことはない。

 だって、アマネちゃんは僕の右頬にキスしてくれたから。

 そして、繁華街を逆走している僕にメッセージを送ってくれたから。

 でも、こういう優しさに甘えていちゃいけない。僕は僕の神様を試して、その結果、神様すら信用できないことを認めてしまったんだから。もう、僕の神様は神様じゃなくて僕の願望が偶像化されたものに過ぎないと認識してしまった。神様は普遍的な価値をすっかり失ったボロ人形でしかないんだ。だから、僕は僕の手でまた神様を作らなきゃいけない。それも昔の名残が一切残っていない全く新しい神様を。同時に王国の再建にも着手しなければいけない。僕だけの王国、熱中できる何か、貴い人間関係、それを僕は僕だけの手で作らなきゃいけない。ミサカさんから逃げた手前、もうミサカさんに縋ることも出来ない。それに、きっと、ミサカさんは過去に執着する僕に失望しているはずだ。だから、もう、頼っちゃ駄目だ。そして、もしも、ミサカさんが本当に優しい人で、もう一度僕を拾ってくれるようなことがあったとしてもそれは拒絶しないと。そうしないと、ミサカさんをまた傷つけてしまうだろうから。

 駅に面した繁華街を抜けて、高校を過ぎ去って、帰路につく。前方に広がる住宅街には、夜八時の静けさと灯りがぼんやりと満たされている。ここら辺の家庭は、それなりの所得が無ければ住めない場所で構築された。だから、きっと、並の幸せを享受しているんだろう。

 初秋の夜はアスファルトのせいで暑い。けれど、吹き込む風は妙に冷たくて、外の環境は何ともいえない矛盾に満ち満ちている。きっと星でも見えれば、この矛盾も幾らか解消できるんだろう。自然は秋だけれど、人が夏に居るってことを証明するためには星座を見ればわかることだから。けれども、それなりに発展してしまった都会の光は星をかき消す。だから外に覚える矛盾は矛盾のままだ。多分、ここに住んでいる限り解決されないだろうと思う。

 取り留めのないことぽつぽつを考えながら、見慣れた道を歩く。現実逃避をするためには、自分に不都合な事実を認識しないためにはこうする他ない。最良の選択は知らない道を歩きながら考え事に耽るっていうことだけれど、そんなことはできやしない。僕は帰らないとだ。お母さんとお父さんを心配させないためにも。

 順調な歩みがこのまま続けば、僕は日常を摂取することができる。普段と変わらない晩御飯を食べて、普段と変わらない態度を保って、僕は僕の日常を全うするだろう。そして、昨日みたいに今日を懐かしんで明日を恨む様に眠る。

 ああ、明日もまたあの子を拒絶しないと考えると胸が痛くなる。


「帰ってくるのが遅いわね。私を置いてきぼりにして何をしていたの?」


 ただ、それ以上に煩わしいことが目の前に現れる。

 いや、この場合、煩わしいというよりも、僕が発端で後回しにしていたことがたまたま先に現れたって言った方が良い。つまり、拒絶の前の拒絶、優しさの拒絶をしなければならない状況に出くわしたってことだ。

 コンビニと公園が左右にある僕が帰るに途中で必ず通らなければならない、逃げようと思っても物理的に逃げられない唯一の一本道で、僕は面倒ごとを処理しなければならない。


「何って……、というかミサカさんはどうしてここに?」


「二日前、私の家と貴女の家が近所にあるって言ってたじゃない。それを忘れたの?」


「いや、忘れてないよ。でもさ、ほら、そうだったとしても僕が帰ってくる途中でばったり会うなんてありえない。ロマンスならいざ知らず、僕らの間にそういうのは無いし」


「考え方を変えて見なさい。どうして私が貴女の帰ってくるタイミングでここに居たのかっていうことを」


 ミサカさんは汗をかいていない。息も上がってない。いつも通りの涼しい顔をして、腕を組んで、切れ長の目で僕をジッと見つめている。服装も制服のままだ。黒い学生鞄、ローファー。別れた時と同じままだ。

 ということは、ミサカさんは学校から一度家に帰った訳でもないし、学校から僕の家までのすべての道をミサカさんがしらみつぶしに歩いていたということでも無い。まあ、そんなことをするような人じゃないし。というか、ミサカさんは僕の家の前で突っ立っていればよかったんじゃないか? 表札だってあるし、近所に僕の家があるっていう情報さえあれば待ち伏せは成立する。だから、ミサカさんと僕とがここで鉢合わせるなんてことは労力を考えればありえない話だ。けれど、そのありえないがあり得ているからそれはありえない。

 じゃあ、どうしてミサカさんは僕の家の前で待つことなく、まだ少し距離があるここで僕と出会っているんだ? 

 いや、今更問いかけることじゃない。

 結論なんて一つしかない。

 けど、その結論がミサカさんの口によって証明されたとき、僕はまたそれに縋ってしまう。また無暗に傷つけてしまう関係を続けてしまう。それじゃあ罪が増えるだけだ。贖罪の理屈を知らないのに多くの罪を積み重ねて、精神を圧迫する。そしたら僕はどうすることも出来ずに参ってしまう。

 けれど、そうであったとしても、ミサカさんがしてくれたことは事実だ。


「あれからここでずっと待ってたんだ」


「ご名答」


「何時間待ったの?」


「さあ? 気付いたらこの時間だったわ」


 待ちくたびれた様子も無くミサカさんはけろりと笑って見せる。それは嬉しさと同時に痛みを僕に与える。恐れて逃げ出してしまったことについても、未だにこの人を信用できていないことについても。それなのに僕はこの人の微笑に縋ろうと手を伸ばしてしまう。頼っちゃ駄目だと理解しているのに。

 羞恥と感激とが痛みと喜びとを兼ね合わせて胸に溢れる。そして、僕の口は信じられないと言ったようにぽかんと開く。


「なんでそんなに驚くのかしら?」


 ミサカさんは不服気に目を細める。無粋な質問ばかりしている僕の鈍い態度が気に食わないんだろう。


「だって、そんなことをする義理、ミサカさんには無いじゃん」


 でも、僕はそうしたことを理解していたとしても、残念な言葉しか紡げない。自分を守るためだけの言葉しか紡げない。


「……そう。なら、いまはただの興味だと思ってもらって構わないわ」


「ごめん」


 溜息を吐いて呆れるミサカさんを見ないために、僕はまた俯いてしまう。結局、僕がここ最近決めてきた覚悟は何も達成できていない。そのすべてが脆く崩れて、足元に腐り落ちてしまう。


「謝らないで。それと謝るくらいなら言葉にしない方が賢明よ」


「……」


「その言葉しか思いつかなかったら、いまの沈黙は正解ね」


 黙ってばかりいる人間、顔を上げずに表情を隠している人の反応をどうしてこの人は読み取れるんだろうか? もしかして僕は感情が豊かな人間なんだろうか? 無意識的に僕は過去に戻っていたんだろうか?


「私にここまで時間を使わせたんだから少しくらい私の用事に付き合ってくれるわね」


 一人でまた考えに耽っていた僕の右手をミサカさんは力強く握る。

 アマネちゃんとは違う柔らかさは、恥知らずの臆病者に罪悪感を覚えさせる。けれど、だからと言ってミサカさんの手を跳ねのけることはあまりに無礼だ。それに僕はミサカさんの要求を拒む様な権利を持ち合わせていない。僕はミサカさんに僕の我が儘のために時間を使わせてしまったのだから。


「断れないじゃん」


 だから僕は感情を偽って返答する。ミサカさんの機嫌を損ねないためにも。


「それが私の狙いだったのよ。だから、貴女の服従は必然なの」


「なら、それなら……」


「それなら?」


 駄目だ。

 人の顔を見ないで人の中身を掴むことができるほど聡い人に三文芝居を打ったところで意味なんて無い。不自然な言動はミサカさんを不機嫌にさせてしまうだけだ。それにこんなやつれた精神じゃ、口を容易に滑らせてミサカさんの不機嫌を煽ってしまう。

 どうすればミサカさんの機嫌を損なわせずにコミュニケーションを取れるんだろう? 


「まあ、これ以上は聞かないようにするわ。とりあえず貴女は私についてきなさい。拒否権なんて考えないでね。それは貴女が私から逃げ出した時点でないのよ」


 柔らかい角を持つ口調でミサカさんは言葉を紡ぐ。そして、言葉の色が持つように僕の体を力強く、けれども少し僕に配慮した形で引っ張ると、そのままと歩きだした。

 いまさっきミサカさんは僕に拒否権がないと言った。それはその通りだ。ゆえに僕はミサカさんの引っ張る力と淡白な歩みに身を任せている。

 もう、このまま、僕の人生もそうなって欲しい。僕だけの王国の再建も、新しい神様の創造も、全ての関係も、何もかもをミサカさんに、いや誰だって良い。僕を構築する全てを投げ出したい。投げ出して楽になりたい。

 本当に、どうしてこんなにも苦しいんだろう。あれは過去でしかないのに、それなのにどうして僕は未だに苦しんでいるんだろう。

 もう、止めにしたい……。

  


  







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