第三十六話

 さらさらとしていて柔らかい。

 瞼を開きたくない。できればずっと閉じておきたい。

 何も認識しなくていいっていうのは気がとても楽だ。嫌な人を、嫌な環境を見なくて良いんだから。禍々しい世界はこうやってなくなってしまえばいいのに……。

 けれど、残念ながら僕には肉体がある。令和の日本に生きているある女子高生っていうラベルの張られた体が命を繋いでいる。だから僕は目覚めなければならない。いや、正確に言えば目覚めなくても良い。けれど、僕は僕が信じた人を悲しませないためにそうしなければならないんだ。

 人を悲しませないため?

 どの口がそんなことを言うんだろう。あの子の好意も、アマネちゃんの恋慕も、ミサカさんの信頼も全て台無しにした僕がどうしてそんなことを言えるんだ? それに、もしも僕が人を悲しませないってことを実践していたとしてもそれは今の僕じゃないはずだ。なのに僕は過去の自分をいまの腐った自分に投影してる。いまもそうであると、アマネちゃんが覚えている僕であると思い込んでいる。過去に縋っていまの僕を肯定しようとしているんだ。

 時間は返ってこない。ミサカさんもそう言ってたはずだ。過ぎ去った時間をいつまでもぼうっと見つめて、それに傷つき続けるなんてばからしい。それに記憶から逃れようと人を傷つけるなんて愚かだ。十字架に磔にされても許されないと思う。

 ああ、でも、前に進もうとすると鋭い棘をもった茨が足に突き刺さる。それが痛くて仕方がない。堪えられない痛みが心に走る。

 けれど、少しも前に進まず停滞していたら僕は人をまた傷つけてしまう。贖う術すら知らないのに、無意識に傷つけてしまう。僕はいったいどうすれば良いんだ? 

 分からない。

 考えても考えてもどう頑張ったって分からない。

 誰か答えを教えて。

 誰も傷つかずに今を進める方法を教えて……。


「泣いてる」


「……なんで見てるのさ」


「気になったから。あっ、でも寝込みは襲ってないから安心して」


 ひんやりとしたアマネちゃんの手は、僕の頬を伝う涙を摩る。それからもう一方の手で僕の額を撫でてくれる。あんなに酷いことをしたのにどうしてこの子は僕に優しくしているんだろう。もう、いっそのこと嫌ってくれれば、こっちだって楽になれるのに。そうすれば、全てを拒絶することができるんだ。

 真綿で首を絞められるように僕の心は辛くなっていく。全てがどうでもよく思えて、けれどもそれらを捨てきることができなくて、現実と人への執着だけが堆積していく。それによって心は腐っていく。

 

「ねえ、こっち見てよ」


「ごめん。いまはそっとしておいて」


「じゃあ、もう一回するよ」


 僕に覆い被さるようにアマネちゃんは全身を僕に預ける。その熱を帯びた体は、快楽を与える甘い吐息を僕の耳元で吐く。そして、優秀な僕の脳は記憶に新しいあの赤裸々な経験を呼び起こし、体を熱くさせる。

 このまま快楽に溺れれば、今も昔も気にしなくて済むんだろうか?

 アマネちゃん以外との接触を全て拒絶すれば、僕は輝かしい過去だけを見つめることができるんだろうか? 

 でも、そうしたとき、僕の王国は完成するんだろうか? 理想とする僕だけの王国は、それよる輝かしい未来は得られるんだろうか? いや、そんなものは得られない。僕が得られるのは懐かしくて輝かしい過去に関する異常な執着と、退廃的で堕落した生活だけだ。僕はきっとこの選択をしたら駄目になってしまう。


「それじゃ、起きるよ。だからちょっと退いて」


「ちぇえ、分かったよ」


 僕が力を入れると、アマネちゃんは観念して退いてくれた。

 瞼を開けると眩い吊り電灯の光が目に差し込んでくる。洋室はふらふらと揺らいで、再び視界は黒ずんでいく。これはいけない。もう少しだけゆっくりと起き上がればよかった。


「体、本当に弱くなっちゃったんだね」


「うん、まあ、中学校からすっかり運動もしなくなったからね。そのせいで食べる量も減ったし」

 血が回らなくてぼうっとする頭をアマネちゃんの肩に預ける。するとアマネちゃんは僕の背中に手を回して、そっと抱き留めてくれる。冷たい手に反した心地よい体温が体に伝わってくる。

 どうして、僕はこんなに優しい子を信用できないんだろう?

 どうして、僕はあのとき気絶してしまったんだろう。

 どうして、僕は目を醒ましてしまったんだ?


「ねえ、ミサヲ。話してくれる?」


「……ごめん。それはまだできない。時期が来たら、いつかその時が来たら、僕が僕に勇気を持てるようになったら話すからさ」


 そして、またどうして僕は臆病な心にしたがってしまうんだ?


「そっか。それじゃ仕方ないね」


 怒ってもいいはずなのに、打ってもいいはずなのに、アマネちゃんは優しい言葉を紡いで、背中をさすってくれる。度が過ぎた許容は心を腐らせていくんだろう。


「ごめん。本当にごめん。アマネちゃん、君の想いを知ってなお、こんな煮え切れない態度を取って、本当に……」


「いや、良いよ。誰にだって話したくないことの一つや二つくらいあるんだし。私だってミサヲじゃなかったら父親のことなんて話さなかったよ。私を助けてくれたミサヲだから喋っただけ」


 きっと、僕を慰めようと声をかけてくれているんだろう。けれど、アマネちゃんの言葉はアマネちゃんの想像している作用とは違う作用を僕にもたらす。それは僕の理解が腐っているから、精神が爛れているから。だから、善良な言葉さえ皮肉に聴こえるんだ。

 愛しい言葉は刃となって心に突き刺さる。


「そっか、でも、それなら僕はなおさら……」


「誤解してるよ。ゆっくりでいいの。いまと昔は違うんだから。いつかまた私のことを昔みたいに信用できるようになったら話して。それまでは吟味して。だから、いまはさ、ほら、ゆっくりしようよ」


 アマネちゃんはミサカさんと同じような目を持っているらしい。どうして僕が関わる人は皆が皆、慧眼を持っているんだ。いや、単に僕がわかりやすすぎるだけなのかもしれない。

 もしかしたら、僕の知らないところに本当の僕は居るのかもしれない。







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