第三十五話
「どうしたの?」
皮膚を摘ままれ、ねじられると鋭い痛みが全身を駆け巡る。
ただ、この痛みがアマネちゃんに対する不信感をかき消すことはない。むしろ痛みのせいで不信感は増してくる。あの時と似たような痛みが僕の頭に澱みを生む。
どうすれば僕はこの不信感を払拭できるんだろうか。どうすれば確証を得られるんだろうか。地続きの確信じゃなくて、いまこの地点における確証はどうすれば……。
「ごめん。ちょっと待って」
「待てない」
時間を稼ごうにもアマネちゃんは強情だ。さっきまで見せてくれていた可愛らしい過去はもういなくなってる。いまのアマネちゃんは、現在のアマネちゃんの印象に引っ張られて少し暴力的だ。
暴力……。
アマネちゃんの触ってる傷はこの二字熟語そのものだ。そして、僕に与えられているこの痛みもまた暴力だ。じゃあ、ここに確固たる信頼を得るためには? それによって人を信頼するということに恐怖を覚えた僕はどうすれば?
トラウマが過去によって生じ、今もそれに苦しめられている。象徴的な現象が頭に刻み込まれているせいだ。原因は暴力。
なら、僕がその暴力を肯定出来たら信頼できるんじゃないか? あるいはトラウマを誘発させる何らかの行為をアマネちゃんに行わせて、それによって発作的な症状が誘発されなければ確固たる信頼を獲得したということになるんじゃないか?
善意を試すような行為になる。それは悪徳だ。まるでかつての自分に対する信頼を汚す、いや否定するような行為だ。醜悪で、見っともなくて、恥ずかしい。けれど、こうでもしなければ僕は話そうと思えない。多分、ミサカさんにさえそうだと思う。
確か、聖書には神を試してはならないなんて書いてあった。僕が唯一縋れるかつての栄光を神とするのならば、僕は善行から悪行に走ることとなる。居もしない神様に気を遣うなんて馬鹿らしい。
でも、過去を疑うには覚悟が必要だ。栄光を汚さなきゃならないんだから。
言い淀んでいても、頭の中で理屈をこねくり回していても仕方がない。確信を得るための犠牲を払おう。僕だけの王国を取り戻すための対価を払おう。
「アマネちゃん。少しだけ離れて。大丈夫、逃げたりなんかしないから。本当にこれは嘘じゃないよ」
「……分かった」
「物分かりが良い人は好きだよ」
「……」
僕の体から手を離したアマネちゃんは頬を赤らめている。艶めかしい体と火照る顔は情欲の象徴のように思える。とはいえ、見惚れている訳にはいかない。約束を果たさなきゃならないんだ。
早く和室に行こう。
いや、その前にせめて上だけでも何か着よう。アマネちゃんのお母さんが帰ってきたら、確実に面倒くさいことになるだろうから。もっとも、上だけ服を着ていたところで何の改善にもならないと思う。まあ、ともかく服を着よう。
布団の脇に脱ぎ捨てられた衣服のどれが自分のものなのか分からない。
悩ましい……。
まっ、このブラウスで良いか。
しわくちゃのブラウスから嗅ぎなれない柔軟剤の香りがする。ということは、きっとアマネちゃんのだろう。
突如立ち上り、ブラウスを羽織った僕をアマネちゃんはどう見ているんだろうか。僕の後ろ姿を一体どんな目で見ているんだろう。
「どこ行くの?」
儚いアマネちゃんの言葉は、場違いな知的好奇心を破壊する。
自分のことばかり気にして、すっかり失念していた。この子だって傷ついてきたんだ。それも僕よりもずっと長い時間、安心できるはずの空間と関係で……。
「安心して。逃げないよ」
アマネちゃんはブラウスの端を縋るように引っ張る。その表情はとてつもなく不安定だ。涙が今にも零れそうだし、表情も震えている。僕はそんなアマネちゃんの頭を優しく撫でる。お母さんがかつてしてくれたように。何度も何度も艶やかな髪を撫でる。アマネちゃんはそれに満足してくれたのか、甘えるような微笑を浮かべる。猫の表情って言ったら良いのかもしれない。
この手を離したら、アマネちゃんはまた不安を覚えるのかと思うと胸が酷く痛む。けれど、心を鬼にして僕はアマネちゃんの頭から手を離す。アマネちゃんは不安そうに見上げてくる。僕はそれに微笑み返す。これによって不安が少しでも軽くなることを祈って、アマネちゃんの抱く過去が少しでも和らげばと思って。
襖を開けると眩い光に視界が覆われる。
暗闇に慣れた体にとって、そして疲れ切った体にとって、光の刺激は立ち眩みを起こすには十分すぎた。目の前は徐々に徐々にブラックアウトして、平衡感覚も同時に失われていく。でも、こんなことで気絶していてはアマネちゃんをまた不安にさせてしまう。
体に無理を利かせ、ペン立てから赤い取手の鋏を取る。
ああ、どうして包丁は簡単に握れるのに、こんな日常的なものを握れないんだろう。どうしても手が震えてしまう。人を傷つけるものじゃないのに。
震える手で僕は鋏の閉じた刃を持つ。そして、布団の上にちょこんと座っているアマネちゃんを見つめて微笑む。不安げにこちらを見つめてくる視線が愛おしい。僕が何を考えているか分かってないんだろう。誰だっていきなり鋏をもって微笑んでくる人間の心理なんて分かるはずがない。
黒く狭まる視界の中で、僕は再び暗がりの方へと足を伸ばす。
「アマネちゃん。少しだけ良いかな?」
そして、アマネちゃんの前で跪き、鋏の赤い取手をアマネちゃんに差し出す。アマネちゃんは不思議そうに僕を見つめる。
「これで少しだけ僕の髪を切ってくれないかな? 切ってくれたら話すよ」
「……どうしてそんなことする必要があるのさ?」
訳の分からないことを唐突に頼んでくるんだから訝しんでくるのは仕方がない。僕としても事情を語りたいのは山々だ。
でも、意図を言ってしまったらこの行動の意味はなくなる。
「ごめん。答えられない」
「答えられないことをするほどの優しさなんて無いよ」
「それじゃあ、僕は過去を語れない」
「一方的だね」
不機嫌になったアマネちゃんは、震える僕の手から鋏を勢いよく取る。合金の冷たさが掌を摩る感覚が酷く気持ち悪い。吐き気を催してしまう。体も凍えるみたいに震えてしまう。
「ミサヲ、大丈夫?」
様子が一変した僕をアマネちゃんは心配してくれる。さっきまでの不機嫌をかなぐり捨てて、僕のことだけを想ってくれている。なんて優しいんだろう。いや、恋慕の力がそうさせているだけなのかもしれない。熱狂的な情が本性を偽っているのかも……。
いいや、アマネちゃんは本心から僕の肩に手を置いて僕の顔を覗きこんでくれているんだ。でも、確証がないのにどうしてこんなことが言えるんだ? 偏見でしかないだろう。
「うん、大丈夫。だから、やって」
明らかに大丈夫じゃないのに、そして善い人を試しているのに、僕の口は慄かない。
なんて傲慢なんだ。この子が負ってきた痛みを微かに知っているのに、痛みの対価を台無しにする猜疑を躊躇いなくかけられるなんて酷く浅ましい。
ああ、でも、こうする他ないんだ……。
「本当に?」
困惑と不安によってアマネちゃんの表情は陰る。
どうして僕はここまでしてくれる人を信用できないんだ?
分からない。
何も分からない。
けど、自分から始めたことなんだ。責任を持とう。
「うん、大丈夫だから。早く」
「……分かった」
覚悟というか、僕からの要請を叶えるためにか、アマネちゃんは小さく頷いた。そして僕の右耳にかかる髪を一つまみする。手は微かに震えてる。ただ、そんなアマネちゃんの震えが分からなくなるくらい僕の体は震えている。
怖い。怖い。怖い。冷たくて、臭くて、おぞましくて、汚らわしくて……。
チョキン。
震えに躊躇うことなくアマネちゃんは僕の髪を切った。
「……ああ」
途端、記憶が蘇る。冷や汗と脂汗が同時に噴き出す。震えは絶頂に至って、思考はぐちゃぐちゃになる。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
一体、僕が、何を、どうして、あんなことに、本当に、なんで、僕ばっかり……。
「ミサヲ!?」
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
体から力が抜ける。
ヒューヒューと自分の過呼吸音が聞こえる。
目の前が暗くなる。
無理をしすぎたんだ。
気張りすぎたんだ。
よく頑張ったと思うよ、僕は……。
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