第三十三話
分からない。
アマネちゃんはそう言うけれど僕は変わった。過去と現在が地続きになっていようとも僕は変質したんだ。時間の性質が変わらなくとも、体に宿る精神は変わるんだ。
いや、でも、変わらないものがあるとしたら? 絶対に変化することのない不変の性質があるとしたら? 何年、何十年たっても色褪せることのない特別なものがあるとしたら?
「人は変わるけれど、人が感じるものは変わらないんだよ。ミサヲだってそう。人が辛いときにミサヲは何時だって支えてくれた」
「辛いとき?」
分からない。
過去を引き出しの中に全てを放り込んで長い間放置してきたんだ。過去と今にまたがる感性なんて分かるはずがない。
違う。
分かるはずがないなんてことはない。分かろうとしていないだけなんだ。読んできた本や、お母さんやお父さんの後ろ姿、街行く人の情緒、テレビで流れるコマーシャル、映画やアニメ、そういった僕を取り囲むあらゆるものに不変の感性は含まれているはずだ。
けれど、僕はそれに共感することを止めた。文字を文字として、光景を光景として、映像を映像として捉えた。裏側にあるありとあらゆる感性の受容を拒絶して、ただあるものとしたんだ。結果、僕は無感動な人間になってしまった。あらゆる事柄をただの事実として、家族愛だとか友愛だとかを全て共通した一つの性質を持つ関係としてきたんだ。だから分からないんだ。分かろうとしなかったから……。
「そう、覚えてない? いつも人の顔色を窺って、目つきが悪くて、服で見えないところは青あざだらけだった暗い女の子のこと。目元のクマが濃い痩せっぽちの女の子のこと」
「……ああ」
アマネちゃんの物悲し気な言葉は混乱する僕の頭にすうっと溶け込んだ。そして、錆びついて開かなかった記憶の引き出しをスムーズに開けてくれた。
途端、輝かしかった小学生の記憶が蘇った。
騒がしい教室、リノリウム張りの床、汗臭い体育館、土の煙るグラウンド、ひっそりとした図書室、使い古された図鑑、用途不明の教室、給食の時間、下級生の下校に対する嫉妬、差別のない年齢、無垢の笑み、出所不明の噂……。
純粋だったころの記憶と仲の良かった人たちの笑顔がありありと浮かんでくる。その中にあの子は居た。何時も図書室で本を読んでいて、陰鬱な雰囲気を纏った小三から同じクラスになった独りぼっちの女の子。
あの頃の僕は勇敢だった。だから、僕は虐められていたあの子を助けた。いや、正確に言えば、虐められていたことと家庭事情を一緒くたに考えていた僕の勘違いが、助けたという結果を導いたんだ。僕はいつでも寄り添って、虐めてくる奴とか嫉妬してくる奴を拒絶して、彼女が親友だということにして誰からも虐められないようにしたんだ。
ただ、それでアマネちゃんの状況が好転する訳じゃなかった。学校における状況は随分と良くなったけれど、家庭状況を改善することは出来なかった。子供の手じゃどうすることも出来なかった。その代わり、気休めになってあげればと思って放課後は外でよく遊んでいた。雨の日は一緒に図書室に行って勉強をしたりした。
結果、あの頃のアマネちゃんは僕にだけ心を開くようになったんだ。僕以外の人には人見知りをするようになってしまったんだ。
ああ、なんて輝かしい記憶だ。
ああ、なんて美しい記憶だ。
善意が善意として、裏表のない善意として現れてる。きっと、アマネちゃんは僕のあげた善意を不変のものとして持っているんだろう。友愛を保証する証拠としてずっと温めてきたんだろう。
けれど、その純粋な精神に反し、僕はこの過去の悪しき部分を担保にして、アマネちゃんに信頼を寄せている。この子が過去に傷ついたことがあるから、傷ついた自分を傷つけるわけが無いっていう理由で……。
「思い出してくれた?」
真実をただ知りたいがためにアマネちゃんは疑うように恐る恐る問いかける。恥知らずの僕は判明した理由と醜さを偽りながら口を開く。
「うん。思い出したよ。小学校の三年生のとき、一緒のクラスになった女の子。トウドウアマネちゃん。一緒に外で遊んだり、図書室で勉強したりした子」
「……それ以外は?」
「虐められてた。それを僕は助けた? いや、違う。友達になったんだ。友達になって孤立を防いで、不用意な悪意を被らないようにしたんだ。全て善意で。打算抜きの善意でさ」
震えの止まったアマネちゃんに僕は微笑を向ける。
多分、自然な表情になっていると思う。友愛に満ちた一人の友人が向ける表情になっていると思う。もっとも、アマネちゃんが顔を上げてくれないからその確証は得られないんだけど。
「あの時、私がミサヲにどういう感情を抱いていてたか知ってる? ミサヲが私の友達になってくれた時、私がミサヲに抱いていた感情が何だかわかる?」
震える声でアマネちゃんは不安げに問いかけてくる。
怯えることなんてないんだよ。だって、この質問に関する答えを僕は持っている。他の問題と違って僕はここに全ての解を持ってる。だからそれをそっくりそのまま伝えれば良いんだ。
「友愛でしょ」
僕は屈託のない笑みと共にそう伝えた。
邪な情が漏れないようにと願いながら。
「違う」
瞬間、アマネちゃんは僕を押し倒す。
「友愛じゃない。私はね、ミサヲに恋したんだよ。焦がれたんだ。貴女の隣にずっと居たいって切望したんだ」
「……違う。アマネちゃんが抱いたのは友愛だ」
唐突な言動に驚きはした。
けれど、頭は冴えわたっている。常に考え事をしていたからだろうか、思考に躊躇いは無い。
でも、アマネちゃんは違うみたいだ。アマネちゃんは僕の手首を力強く床に押さえつけて、足と足を絡ませて上手いこと無力化している。そこに加減は無い。だからそれなりの痛みと圧迫感がある。もっとも、僕は変なことにこの痛みに不快感を覚えていない。
「違わないよ。いまだって私の胸は高鳴ってる。中三の終わりにこっちに帰ってくることが決まった時と同じように、お母さんからミサヲの進学先を聞いた時と同じように、ミサヲと同じ高校に合格したときと同じように、変わり果てたミサヲを学校で見つけた時と同じように、ずっと新鮮な高鳴りがここにあるんだよ。それは決して友愛なんて生易しい感情じゃない。もっと強烈で、もっと刺激的で、もっと痛々しい爛れた恋愛だよ」
アマネちゃんは縋るように、僕の手首を押さえつける力を強める。力強くて今にも自死してしまいそうな声に比べれば、僕の感じる痛みは少ない。
「クソ親父に打たれ、罵られることが日常だったあの頃の私にとって、ミサヲの存在はなによりも救いになったんだ。確かに初めは友愛があったかもしれない。でも、小六のときにクソ野郎の転勤が理由でここを離れた時、救いがなくなった世界に放り込まれた時、それは友愛から恋愛に代わったんだよ」
果たして僕はどうやったら昔みたいにこの子を救えるんだろうか。いや、僕が助ける必要なんてないはずだ。
違う。
ミサカさんは言っていた。人の好意を袖にするときは相応の態度が必要だと。ミサカさんがそういうくらいなんだから恋慕の重みというのは凄いんだろう。だから、アマネちゃんにも相応の態度を向けなければいけない。
ただ、僕にはその相応の態度が分からない。犠牲の痛みは知っているし、昔の記憶が蘇ったから友愛による救済も知っている。けれど、それ以外については無知だ。理屈によって裏付けられた態度を僕は持ち合わせていない。
なら、僕は僕がアマネちゃんにいまのいままで抱いてきた邪な信頼の罪滅ぼしとして、極めて受動的な態度を取ろう。そうすることによってアマネちゃんが救えるのなら、そうすることによって醜いと思ってた人間性が許されるのなら、僕は受け入れよう。
「そっか」
「うん。そうだよ。だから、これからすることも爛れた感情に基づいたもの。許してくれるよね?」
藍色の目には光が灯っていない。僕と同じような昏い目だ。
ああ、アマネちゃんはどれだけ傷つけられてきたんだろうか。個人的な痛みに等価は無いし、比較も出来ない。けれど、きっとその傷の種類は僕の王国を滅ぼしたものと同じだろう。信頼できるはずの人に裏切られる傷と痛みは同じはずだ。
なら、情欲の光が灯るアマネちゃんの行為に身を任せれば、傷を舐め合えるんじゃないか? 僕だけの王国が再建できるんじゃないか?
分からない。
確信が持てない。
けど、拒む理由もない。
だって、この子には迷惑をかけたから。
だって、この子は痛みを知っているから。
だって、この子はかつての僕だから。
ゆえに僕は脱力してそっと微笑む。
「許されるよ。神様なんて居ないんだから」
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