第三十二話
「まあ、初めてだったら誰だって恥ずかしいか。雰囲気も、覚悟も、何もない状態で深くされたら誰だって恥ずかしがるよね」
余裕綽々と語ってる節、もしかしたら本当に火遊びが過ぎる子になってしまったのかもしれない。そうだとしたらとても残念だ。でも、これも大別すれば偏見なんだろう。そういう遊びを穢れた行為として見ていることすらも。
ただ、この偏見は悪い偏見じゃないと思う。僕の頭の中に薄っすらと残っているか弱いアマネちゃんの印象に引きずられていたとしても、行為は好意によって肯定されるべきだ。
「あっ。ちなみに処女だから安心して。キスもあれが初めて」
「さらっと言うことかな? もうちょっと品があった方が良いと思うよ」
ぶっきらぼうな口調になってしまったけど、本当は安心してる。あの頃の清らかさを保っていたということは、輝かしい過去がそのまま残っているような気がするから。もっとも、その理屈は醜いけれど。
「とりあえず、顔を上げてよ。今度はあんなことしないからさ。私だって痴女じゃないんだぜ?」
溜息を吐いて顔を上げると、アマネちゃんは目の前で満面の笑みを浮かべていた。
「そうそう、そういうちょっと冷めてるところがミサヲの良いところなんだよ。情熱的だけど淡白で、けど、一度築いた関係には執着するところが可愛くて良いんだよ」
「可愛い? それって面倒くさいだけだよ」
「そう?」
キョトンと首を傾げて、アマネちゃんは当然のことに疑問を呈する。
はあ、物好きな人も世の中には居るんだなあ。
感心する。
そんな一方的で酷く面倒くさい人間を好きになるほどお人好しなんだから。人の傲慢と独善を許容できるなんて本当に素晴らしい人間性だ。普通だったら縁を切るはずだ。どれだけ見た目が良くても、ある関係には執着して、しかもその関係にのみ情熱を注ぐなんて、気が狂ってる。人の干渉を許容できずに切り捨てる人間なんて壊れてる。
はて、僕は昔からそんなに狂っていたんだろうか?
いや、狂ってなかったはずだ。僕のこの質はあいつらから植え付けられた忌々しい記憶のせいだ。だから、昔の僕は、僕の想像通り、輝いていたはずだ。
でも、アマネちゃんは昔の僕しか知らないはずだ。じゃあ、僕は昔からそういう質の人間だったのか? この性分が表立ったのはそもそも持ち合わせていたものが悪化しただけのか? そして、僕は自分の過去を美化していたのか?
「私の好みがそんなに気になるの?」
また考えて込んでしまった僕に、アマネちゃんは心配そうに問いかけてくる。
「いや、アマネちゃんの好みじゃなくて、僕の今と過去が酷く気になるんだよ。だって君は昔の僕を好んでくれていた。友愛に富んだ関係下にあるね。でも、そのころの僕は今の僕とは違っていたんだ。だのに、君は、昔のことをよく覚えている君は、今の僕と昔の僕の性質を同じように見ている。それって変じゃない? 少なくとも昔の僕は面倒くさくなかった。随分と外向的で社交性に富んだ人間だったはずだ。誰からも好かれて、皆のリーダーとまではいかないけれど、多くの信用を集めていた人間だったはずだ。けれど、今の僕はそこから外れている。自分で言うのもあれだけど、極めて偏屈な人間になってる。それは君だって認めていることだ。なのに君は今と昔の僕を同一視してる。辻褄が合わない。矛盾してるんだよ」
理屈なく信用してしまう人の思い悩んでいる表情を解きほぐしたいからか、柄にもなく僕の口はつらつらと動いた。僕の言葉が続くにつれて、アマネちゃんの表情は徐々に徐々に真っ平なものに成り代わっていた。そして、言葉が終わった今、アマネちゃんは先ほどの僕みたいに俯いている。俯いて、綺麗に整えられた足の爪を見つめている。
暫時、沈黙が満ちる。
二人っきりの空間で気まずい時間が流れることは耐え難い苦痛を伴う。ことさら出会ったばかりの人となれば、その痛みはなおさら酷い。こんな痛みに晒されることがわかっていたのなら、この家には来なかったのに……。
ああ、帰ろうかな。
駄目だ。
もしも、ここで逃げ帰ったら、家でこれ以上の苦痛を味わうはずだ。曇った関係があるのならば、そしてそれを晴らす機会があるのならば、僕はここに居るべきだ。そうすれば万事上手く行くことはないかもしれないけれど、少なからずマシな状況は作れると思う。
それに、あの子から逃げて、ミサカさんから逃げて、アマネちゃんからも逃げたら僕は発狂してしまうかもしれない。
ただ、でも、もしかしたら、全ての好意を信用して、一切の不純が無いと信用して、人間の感情が一般化できない不定のものと仮定すれば、いや、定義すれば……。
「昔と今をどうして切り離せるのさ」
時間の苦痛と関係の当惑を味わっていると、アマネちゃんは震える声で沈黙を破った。
「昔と今は違うからさ。昔の僕が生きている時間と、今の僕が生きている時間は性質が違うんだよ……」
「感情的に考えれば確かにそうだね。けど、唯物的に見れば時間は流れ続けているし、そこに性質の変化が生じることはないはずだよ。強大な重力場の中に入らない限りはね。それが物理現象だし、私たちはその世界に生きてる。だからさ、昔と今が違うなんてことは無いんだよ」
「知的だね」
「これでも勉強はしてたからね。ミサヲと同じ学校に入れるように精一杯勉強したんだよ。あんなクソが居た環境でもさ」
声の震えはより強くなって、言葉の輪郭はぼやける。そしてその震えは消え失せる声にだけじゃなくて体にも波及して、アマネちゃんの体を震わせる。触れていないのに振動は伝わってくるような酷い震えに不安を覚えない人はいないと思う。もしも不安を覚えなかったらそれは人でなしの部類だと思う。
不安ゆえに僕はアマネちゃんに寄り添って右手で背中を、左手で頭を撫でる。アマネちゃんからすればあやされているかのようで気持ち悪いのかもしれない。けれど、僕の不安を少しでも軽くするためには、こういった直接的な行動が必要なんだ。
「やっぱり変わってないよ。ミサヲは変わってない……」
ほとんど声になってないような声でアマネちゃんはぼそりと呟く。
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