第三十一話

 家とは逆の駅方面に僕らは向かった。

 夕暮れ時、学生の帰宅時間ということもあって駅前の繁華街は学生で溢れていた。学生たちはまだ入れない居酒屋とか、ハンバーガーチェーン店とか、こぢんまりとした呉服店とか、独特な雰囲気が漂う古本屋とか、そういった繁華街を繁華街たらしめるものを背景にして、青春の光景を造り出していた。排気口から垂れ流されるごちゃ混ぜになった臭いだとか、マンホールから漂ってくる硫黄の臭いとか、樋からぽたぽたと落ちる生温そうな不潔な水とか、道端に落ちるプラゴミやティッシュや煙草とか、そういった街を汚す物さえきっと青春の光景を演出しているんだろう。

 ただ、喧騒に満ちる繁華街の光景は鬱陶しい他なかった。人混みは苦手だし、悪臭の中に身を置きたくない。だから一秒でも早く、繁華街から抜け出したかった。静かな場所でひっそりと体を休めたかった。

 憩いの場所を求めている僕の欲求は案外さっくりと叶った。アマネちゃんは駅から真っすぐと伸びる大通りから逸れて路地に入った。背の高いビルの間の路地は薄暗くて、人数も少なかった。店という店もほとんど居酒屋で、夜にならなければ混み合わない場所だった。もっとも、両側をビルに挟まれているからか、空気は酷く籠っていてなんだかべたべたしていた。

 灯らないネオンの看板といくつかの事務所が入ったビル群の間をしばらく歩いて、僕らは駅前の住宅街に出た。ただ、住宅街と言っても、この地区を構成しているのは古いビル型のアパートだ。だから、住宅街だというのにもかかわらず、日当たりが悪くて、どんよりとした雰囲気が漂っている。

 外壁に蔦が伸びている不気味なアパートが連なる通りをてくてくと歩いて、僕らはコンビニの隣にある赤さびたトタンの外壁が特徴的な二階建てのアパートの前で止まった。そして、良く言えば年季の入っているアパートをアマネちゃんは指さした。


「ここが私の家。ボロくて驚いた?」


 アマネちゃんは気遣いを含んだ小難しい微笑を浮かべながら、答えに戸惑う問いを投げかけてきた。

 だから、僕は言葉を発さず頷いた。

 かくして僕は身を落ち着けられるアマネちゃんの家に到着した。ちなみにアマネちゃんの家は二階の角部屋だ。

 正直、外装は令和の建造物とは思えないほどおんぼろだ。けれど、内装は綺麗で靴が三足横に並べられるくらいの小さな玄関の目の前には、洗濯機と冷蔵庫が置かれた六帖程度の自由が利くフローリング敷の台所があって、その北側には洗面台とトイレとお風呂がある。なんと、お風呂とトイレは分かれてる。そして、台所の東側にはすりガラスの引き戸で遮られた六帖の和室がある。あと、和室の左隣にも襖で遮られた部屋がある。襖に手を掛けた時、アマネちゃんに止められたからそこはアマネちゃんの自室なんだろう。

 ほんのりと黄ばんだ冷房から吐き出される冷気と古い畳の匂いが籠る和室で、僕は座布団の上に腰を下ろす。それから、ぐでっと足を伸ばす。木のローテブールの上にはハサミやホチキス、ボールペンが入った白いペン立てやメモ帳、輪ゴムの入った箱、色とりどりの飴が入った紙の箱、そういった生活感あふれた物が置かれている。

 ここでアマネちゃんは生活しているんだと思うと、なんだか面白い。あんなにクールな見た目の子が、ありきたりの生活を送っているなんて……。

 いや、これは偏見だ。誰だって蓋を開けてみれば普通の人間なんだから、見た目で判断しちゃ駄目だ。浮世離れした人も、素を見れば人間でしかないんだ。

 良くない方向に昂っていた感情は理屈によって収まる。


「あれ、もう少し楽しんでるものかと思ってた」


「人の家に上がったくらいでテンションなんて上がらないよ」


 ぼうっと吊り電灯を見つめている僕をアマネちゃんは澄ました表情で見下ろす。アマネちゃんのピアスがちらりと光を反射する。結構眩しい。

 暗くなったはずなのに目を細めた僕にアマネちゃんは首を傾げる。けど、そこまで興味を持てなかったらしく、両手に持つ薄茶色の液体が入ったガラスコップをテーブルに置いた。そして、流れるように僕の隣に座る。両膝を立てて座るのは辛くないんだろうか。

 いや、痩せてる僕だけか。


「お粗末なものしかないけど、どうぞ」


「謙遜しなくても。ありがたくいただくよ」


 昇降口で迎えた極度の緊張と不安、そして慣れない運動をしたせいでカラカラに乾いた喉は、八割程度注がれた麦茶を一瞬にして飲み干す。冷たい液体が麦の香りと共にじんわりと体中に広がっていく感覚が心地良い。この美味しくも不味くもない味が心地良い。


「随分と喉が渇いてたんだね」


「慣れないことばっかりしたからね」


「たまには運動もしたらどう? 昔は外で遊ぶ方だったじゃん。まあ、小学生の頃の話なんだけどさ」


 昔の記憶。

 そうだ、この機会に思い出してみよう。二度と開けないと踏んでいた記憶の引き出しを開けて、かつての輝かしい記憶を探ろう。

 ただ、覚悟して記憶の引き出しに向かい合ったところで、引き出しはびくともしない。長い間蔑ろにしていたツケが回ってきたんだ。証拠に、引き出しの取手は酷くさび付いている。おおよそ、金属のレールも錆びているんだろう。力一杯引っ張れば開くのかもしれない。けど、あの忌々しい記憶さえ思い出してしまいそうだから止そう。


「また、自分の世界に入ってる。せめて私と話してる間は私のことを見てよ」


「ごめん」


 深い思考の海に飛び込んでしまった僕の頬を、アマネちゃんは指で軽く突っつく。そんなに膨れなくても良いと思うんだけど。


「謝らなくても良い」


「八方塞がりじゃん」


「そう? 以外と解決方法は簡単かもよ」


 膝の上で組んだ腕に頬を乗せて、アマネちゃんは優しく微笑む。

 ただ、そこまで譲歩されたとしても僕には何が正解なのか分からない。謝ることでしか人に与えてしまった不快感は取れないはずなんだから。残念ながらその理念に囚われている僕はそれ以外のことをできやしない。

 無知は罪。だから僕は独特な光が灯るアマネちゃんの双眸を見つめることしかできない。

 沈黙が続くと恥じらいが生じる。もっとも、僕の場合、それはお昼休みの記憶と付随する感覚に基づいたもう一つの恥も含んでいる。だからか、体は余計な熱を帯びるし、記憶の輪郭が明確になってくると、顔を畳に逸らしてしまう。


「まだ恥ずかしがってるんだ」


 でも、アマネちゃんは声音一つ変えずに淡々と僕をからかってくる。

 もしかして、僕の知らないところでそういう遊びを……?




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