第三十話

 不安、不安、不安、不安、不安。

 これが僕の中で渦巻いて絶え間ない恐怖を生み出す。僕の心を圧迫して、肉体にも干渉してくる。暑いはずなのに寒い。体の震えが止まらない。汗も止まらないし、動悸も激しい。内臓が全て口から出てきそうな吐き気もある。

 人の目が鬱陶しい。

 喋り声が鬱陶しい。

 自動車の音が鬱陶しい。

 飲食チェーンの臭いが鬱陶しい。

 ビルの窓ガラス反射する夕陽も、信号の点滅も、横断歩道の白色でさえ鬱陶しい。

 どうか僕を一人にしてくれ。誰も僕に関わらないでくれ。そうすれば僕はこの世界を嫌悪しなくて済むんだ。今までと同じように僕を独房の中に閉じ込めておいてくれ。

 違う。

 独房じゃないだろう。独房は望んで入る場所じゃない。それは罪を犯したために孤独を強制させられる空間だ。

 僕は自分の意志で、自由意志で孤独を選んでいたはずだ。だのにどうして僕は今まで好き好んでいた空間を強制させられた空間として認知しているんだ? どうして孤独に対する印象それ以外、持っていないんだ? 矛盾も甚だしい。これが正しければ、ほんの三日前の僕はずっと拘束されていたことになる。それは違うはずだ……。

 いや、もしかしたらあの決断は初めから……。


「おっと、ちょっと走りすぎたか」


 歩道のど真ん中で足がもつれて倒れそうになる僕の体をアマネちゃんは支えてくれる。手を腰に回して、どこかのVIPをエスコートするみたいに。

 汗と柔軟剤、そして体臭の混ざった匂いが鼻腔をくすぐる。端正は顔に嵌められ宝石のような藍色の目が僕をジッと見つめてくる。ただ、その瞳の中に灯る光は決して美しいものじゃない。ミサカさんのようなあの子とは別の意味で純粋な光じゃなくて、もっと打算的な。それこそ何か好意を抱いているような……。


「ごめん」


 不用意な気付きは胃酸を逆流させ、発作的な吐き気を肉体にもたらした。助けてくれた人の顔を見て吐き気を催すことは無礼なことだ。そして、それに拍車をかけるように突き放すことはもっと失礼なことだ。

 でも、アマネちゃんは微笑を、打算的な光の灯っった瞳と共に向けてくる。


「まあ、少し走りすぎちゃったから休憩しようか」


「許してくれるの?」


「気にしてないから大丈夫だよ。ともかく、今は休むのが先決。私の家、こっから近いから寄ってきなよ」


 アマネちゃんは半歩後ろに下がった僕に手を差し伸べる。言葉通りの善意からの発言なのか、瞳の宿る何らかの欲望のための発言なのかは分からない。分からないということは信用できないことだ。

 けれど、僕はアマネちゃんの抱擁を弾いてしまった。これ以上の失礼は許されない。ゆえに僕はアマネちゃんの手を取る。汗ばんだしなやかな手を優しく握る。

 途端、昼休みの記憶が蘇る。艶めかしくて、戯れの範疇を超えた感触が口内に蘇る。そして、体は赤熱する。本当に滅茶苦茶恥ずかしい。

 ただ、その様を見てアマネちゃんは口角を上げてにんまりとする。それから何を思ったのか衆人環視の中で僕の手を力強く引っ張って体を急接近させると、顔を耳元に寄せてくる。


「思い出したんだ」


「うるさい」


「ふーん。でも、認めるんだ」


「当たり前でしょ。あんなことをされて思い出せないはずがないよ」


 恥ずかしがっている人間をからかうのがそんなに面白いことなんだろうか。やったことはほとんど犯罪なのに恥ずかしくないんだろうか。僕には到底理解できない。

 けれど僕がそうだとしても、アマネちゃんは僕が無理解を示している問題を理解している。アマネちゃんの理性の範疇にこの問題はあるんだ。それだから耳元でクスクスと笑っているんだ。


「ふー」


「ッ。何するのさ」


「何って、また難しい顔をしてたから息を吹きかけてあげただけだよ。少しは張り詰めた気も抜けるかなって思ってさ」


 生暖かいアマネちゃんの息の余韻は、体中を這いずりまわる。ただでさえ熱い体をさらに熱くさせる。本当にアマネちゃんは恥ずかしくないのか。いや、半歩下がって僕のことを笑ってる時点で恥ずかしくは無いんだろう。


「ほかに方法があったはずだよ。こんなことしなくてもさ」


「確かにあっただろうね。けど、大胆な手段が一番手っ取り早いのさ。強烈な印象は前後の思考を吹き飛ばすだろうからね」


「まあ、うん、一理あるね」


 妙な論理に僕は納得してしまった。昨日の朝、ミサカさんに急接近されたとき、僕はあの子とギャルちゃんに向けていた関心をことごとくミサカさんに奪われたんだから。やっぱり経験に勝るものは無いんだろう。

 果たしてこれまでの経験が僕を変えることはあるんだろうか……。


「暇さえあれば考え込むんだね」


「……駄目かな?」


 俯きがちの僕の顔をアマネちゃんは下から覗き込んでくる。その顔は神妙だ。


「駄目じゃない。それは自由だからね。ただ、なんだか昔の私に似ちゃったなって思ってさ」


 神妙な面持ちのまま、アマネちゃんは僕の顎先に右の人差し指を添える。そして、力を優しく加えて僕の顔を上げさせる。


「昔、ミサヲは『出来るだけ良いことを考えようよ。悪いことばかり考えていても良くなることなんて無いんだからさ』って言ってたんだよ。覚えてる?」


 残念なことにそんなことを言ったことを僕は覚えていない。

 ピンと来ていない僕の表情を見て、アマネちゃんは柔らかな表情のまま口角を下げる。哀愁が籠った表情に僕は微かな罪悪感を覚える。


「覚えてないんだ。でもね、私はミサヲのその言葉で結構救われたんだよ」

  


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