第二十八話
ミサカさんは一度も振り返らず、淡々と昇降口へ向かっていった。迷いなく、周囲を気にすることなく。いや、周囲を気にしていないのは普段から視線を集めているからだと思う。耳目を無意識的に集めてしまうことに慣れてしまっているんだ。だから、人の目なんて気にならないんだ。
ああ、こんな被害者面をするのは恥ずべきことだ。
果たして、僕はどうしてミサカさんが僕の気を知ってくれないんだろうって思ってしまうんだ? どん詰まりの未来しかなかったあの状況に風穴を開けてくれた恩人に対してここまで失礼なことを想えてしまうんだろう。
独立独歩の自我があるのにもかかわらず、僕はミサカさんに完璧な共感を望んで、僕自身の望むことをしてくれるように願っている。自分の意志を全てミサカさんに委ねてしまう。三日前のこの時間に居た僕だったら容易に決められたことも、いまじゃすっかり決められなくなってしまっている。決断を下すための槌は錆びついて、風化して、使い物にならなくなってしまっているんだ。僕だけの王国を再建するために、僕が持ち合わせていた道具は全て使い物にならなくなってしまったんだ。
情けない。
恥ずかしい。
僕だけの王国のために利用してやろうと利己的な判断をもってして関わろうと決めたのに、いつの間にか立場は逆転してしまっている。精神的な自由は、あのころから続く脆い心が懐柔されてしまったことで取り上げられてしまった。
いや、それじゃまるで僕が被害者みたいだ。僕は加害者でしかない。ミサカさんの人生の道程の中で、関わらなくても良い人間となし崩し的に関わらなきゃいけない状況を作り上げた立派な加害者なんだ。だから、選択権を委ねている状況もまた僕が作り上げたものでなんだ。そのことを僕はいつの間にか忘れてしまっていたんだ。
憎い。
醜い。
自分の罪を忘れてのうのうと過ごしていただなんて……。
夕陽に満ちるがやがやと騒がしい昇降口に自罰感は溶け込んで、景色を痛々しくさせる。呼吸をするのさえ辛くさせる。ぶつかってくる体は鈍重な物質化のように思えてしまう。制服、汗の臭い、ふざけ合う言葉、靴音、有機的な光景のはずなのに、僕の目にはどうしても無機的で毒々しいものとなって映る。
「本当に考え事ばかりしてるのね」
混み合いの中でも僕の手を掴んでいるミサカさんは、ロッカーに内履きを入れて、ローファーを取り出す。そして、ゆっくりと握る力を緩めてくれる。
「考え事じゃないよ」
「じゃあなに?」
不機嫌そうにミサカさんは眉間に皴を寄せ、手を僕から離す。
「……後悔かな? うん、後悔だよ。自分のやるせなさへの後悔」
「後悔なんてするだけ無駄よ。時間が返ってくることはないし、それで貴女が報われることはないのだから。だから、どれだけやるせない過去があったとしても、いまを見つめれば良いのよ。解決すべきはいまの問題。それだけよ」
「でも、人間は過去から出来てるんだよ」
ポッと出た僕の言葉に落胆したのか、ミサカさんは身を翻して背中を向ける。
「恨んでいる過去を見て何になるの?」
人混みの中でギリギリ聞こえる問いかけに僕は言葉を失う。
ただ、ミサカさんの小さな声音と同時に、僕らの間には知らないボブカットのふんわりとした雰囲気の女子が割り込んできた。
僕らの間を阻むこの子は、僕らの存在を気にせず友達と話している。制汗剤特有の匂いを振り撒きながら。
ああ、この子みたいに生きれたらよかったのに。傷つくことなく、恐れることなく、何も感じることなく淡々と生きれたら……。
いいや、こんなのは偏見だ。他人を下げて自分を棚に上げるなんて浅ましい。この子だって何らかの悩みを抱えていて、それによって生活の一部を犠牲に捧げているかもしれない。そもそも人の悩みの重さを比較しちゃいけないんだ。
僕の存在に気付いた彼女は、気まずそうな顔をして頭をぺこりと下げる。無視するわけにもいかないから僕も会釈する。他人行儀かつ素っ気ない行為は、気まずさをより増長させたらしく、彼女はそそくさとスニーカーを履いた。そして、一目散に僕の目の前から消える。
ただ、名前も知らない彼女が居なくなったということは、ミサカさんと目を合わせなきゃならないことの反証だ。
狭くて少し土臭い人混みの中で、ローファーを履いたミサカさんはジッとこちらを見つめている。もう逃げられない。さっきみたいに話を先延ばしにすることは出来ない。確固たる答えを自分の口から言わなきゃならない。
混然とした思考と渦巻く不安のせいで喉が酷く乾く。体の動きはぎこちない。筋肉は満足に動いてくれない。
ただ、それは言い訳にはならない。そうしなければならない状況に置かれているのに、責任を投げ出すことは誠実な精神にかけて許されない。だから僕は薄汚れたスニーカーを履いて、一足先に外に出たミサカさんの背中を追う。
躊躇っちゃいけない。
真実を語らなければならない。
臆病風に吹かれて、口を閉ざして、全ての責任をミサカさんに背負わせているようじゃ駄目なんだ。信用を大義名分にした醜くて爛れた関係を求めていちゃ駄目なんだ。僕が欲しているのは、ミサカさんと僕の間に形成しなければならないものは、さっきの彼女とその友達との間にある軽々しい関係なんだから。重くてドロドロとしているような関係性じゃない。
でも、真実を話した場合、忌まわしい過去に憑りつかれている原因を話した場合、そのような関係性は紡げるんだろうか。ミサカさんの冷たい家庭環境を知っておきながら、あの子たちみたいな軽い関係を形成できるんだろうか。そんなのは出来るはずがない。出来たとしても、歪で、とても不自然な形になるはずだ。
善い関係を求めた結果、余所余所しい関係が生まれるようじゃ駄目だ。今まで過ごしてきた時間を全て無駄にしてしまう。
じゃあ、どうすれば良いんだ?
「それで貴女はどうしてそこまで過去に固執するのかしら」
初秋の生ぬるい風は僕らの髪をたなびかせる。そして、僕らの間にある気まずい空気をより不快にさせる。
「……」
ミサカさんは腕を組みながら僕を見つめる。嘘偽りのない真実を欲するミサカさんの翡翠色の視線は鋭く、僕の胸を突き刺して痛みを生じさせる。怯えているからじゃない。満足に自分の解答が用意できていない自分が恥ずかしいからだ。
内面より生じる恥ずかしさと息が詰まるような気まずさは、覚悟を決めたはずの精神を騙して物理的に問題から視線を逸らさせる。群れからはぐれた数匹の蟻が薄汚れたタイルの上をせかせか動いている光景を見せてくる。
「ねえ、フルタさん。どうやったら貴女は私に心を開いてくれるのかしら? いえ、どうやったら貴女は他人を信頼できるのかしら?」
ミサカさんの刺々しい低い声は色を変えて、縋るような切ない声になる。およそ秋の夕暮れに一番似合う物悲しい声だ。
ただ、その声音は痛みに悶える僕の心に塩を塗る。ただでさえ見えない答えは遠のいていく。
いや、理解しているんだ。
包み隠さず全てを明かせば、ミサカさんはきっと僕が過去に固執していることを理解してくれる。同情することなく淡々と事実を受け止めてくれるはずだ。
でも、一度話してしまったらそれで終わりなんだ。完全に信頼しきらなきゃいけなくなる。家族と同じように接さなきゃいけなくなる。同時に裏切られるかもしれない不安の中で怯え続けなきゃいけなくもなる。
怖い。
恐怖の中で安寧を享受するなんて気がおかしくなりそうだ。一日が終わるごとに安堵して、明日への恐怖を抱く日々なんて人を狂わせてしまう。
だから、伝えられない。本能がミサカさんを信頼に値する人物として認めていても、理屈が無ければ駄目だ。無条件に人を信頼するなんて不可能だ。
「どうやっても人を信頼できないの?」
「違うんだ。違うよ」
切ない声でもう一度問われれば、胸は押しつぶされそうになる。そしてひしゃげる心はその痛みから少しでも逃れるために意図のない言葉を突発的に漏らす。言葉だけをただ……。
「でも、貴女は黙ってばかり。それはどうやっても人のことを信じられないと言っていると同じじゃないの? もしも私の意見に食い違いが無いのならそう言って。この程度で私は貴女を見捨てたりなんてしないから」
慈愛に満ちた柔らかい言葉の甘美な響きは、わなわなと震える唇を微かに動かす。
「何時か壊れるかもしれないものを信頼することなんて出来ないよ。例えそれがミサカさんだとしても」
ただ、僕の口から紡がれた言葉は軽薄だ。
期待を裏切り続ける人間の残念な言葉はミサカさんの顔をどんな風に歪めたんだろうか。想像したくないな。本当は信頼しているの人が失望している顔なんて。でも、ここまで最低なことを言ったから心はほんのりと軽くなった気がする。不用意に築き上げた関係、いくらかの愛着があったはずの人間関係でも拒絶してしまえば今まで切り捨ててきた関係と同じになるんだから。虚しいけれど、この空洞が、あるいは慣れ親しんだ経験が僕を楽させてくれる。もっとも、こんなのは僕にしか適応されない。ミサカさんはおおよそ最悪の気分を味わってるはずだ。
顔、見たくないなあ。
顔、見せたくないなあ。
得手勝手に吹っ切れた自分を僕は嘲笑する。相手のことなんて気にせず、ただ自分だけの利益のために。
醜くて汚らわしいものとして否定してきたはずの存在に成り下がってしまったことは酷く虚しい。せっかく形作られた僕だけの王国も、再び瓦解してしまった。あれだけ再建できるだろうと踏んでいた王国はもう一度滅ぼされたんだ。しかも、それを再び積み上げるだけの大工道具を僕は持ち合わせていない。だから、これで三日前に抱いた羨望も潰えたんだ。それはつまりミサカさんとの関係を肯定するための前提が失われてしまったことと同義だ。
羨望は人を傲慢にして、盲目的な信頼は目を濁らせて、欺瞞は関係を破綻させる。そして最終的に生きるに値しない精神が現れる。
ああ、どうか薄汚れたこの魂を救ってくれ。
無情な世界といるわけがない神様にそんなことを望んだって叶うはずがない。世界は何時だって地球の自転と公転によって決定するし、神様がいたとしても苦難を与えるだけなんだから。
生温い風は他の人の体温によってより生ぬるくなる。自動車の音や喋り声は合わさってさらにうるさくなる。そして、それらを感じている僕の肉体は僕の精神を拒絶して、吐き気に似た気持ち悪さを覚える。
「あれ、帰ってなかったんだ」
「誰?」
「うーん、旧友?」
ただ、自分勝手な不安に押しつぶされ両手で口を押える醜悪な人間にも、もっけの幸いは巡ってくるらしい。
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