第二十六話
教室の前に着いた時、体は疲弊を訴えていた。呼吸は荒かったし、随分と汗をかいたし、体は酷く重かった。普段から体育の時間を適当にこなしていたツケが回ってきたことを十二分に知らされた。
膝に手をついて肩で息をしていた僕をミサカさんは見下ろしていた。口角をほんのり歪めている姿は悪魔にさえ見えた。何かをされるんだろうという予測はあったけれど、これから授業を受けるという疲れ切った体はその予測に従った運動をしてくれなかった。言うことの利かない体が成し得たことはただ呼吸のリズムを取り戻すことと汗腺から分泌される健康的な汗を調整することだけだった。
なすすべなく見下ろされる僕の髪は、ミサカさんに梳かれた。そして、一束の髪を手に取って親指でゆったりと撫でると、そっと唇を落とした。桜色の艶やかな唇はほんの数分前と同じ感触を僕にもたらし、それと同様の身体的反応を見せた。
さて、意地悪なミサカさんは僕が呆けている間に、クスクスと笑って隣の教室に入った。顔が赤くて、汗もかいていて、阿保面で、公衆の面前に立っていいような風采じゃない僕を教室前に放置した。
授業開始から五分経っていたから室内は、おばちゃん先生の少ししゃがれた声が聞こえてくるだけだった。つまり遅れてきた人が入ってきたら視線を集める環境が揃っていたということだ。
状況は悪い方向に整えられていた。確実に何かがあったとしか思えない風采を、クラス中に見られるという何かしらの罰としか思えないように。おおよそ、僕が願っていた雰囲気を保つためには教室に入らず、保健室にでも行けば良かったのだと思う。そうすれば事後法的に授業の欠席が認められるはずだから。
ただ、残念なことに事後法を求めるような、たったそれだけの胆力すら僕には無かった。大人と話すことは別に嫌いじゃない。けれど、怒られる可能性があるという恐れが行動を硬直化させた。もっとも、素直に教室に入ったところでおばちゃん先生から何か言われることは決まっていた。
時間をいたずらに浪費するほど状況を悪化させる態度は無い。だから、僕は早急な対応を求められた。どちらに振りきるかを決めなければならなかった。そう言っても、僕にあったのはただ一つの選択だけだった。振り絞ることすらできない脆すぎる心は、最も安逸な選択に逃れた。
がらりと扉を開けると予想通り視線は集中した。もちろんあの子も僕を見ていた。ギャルちゃんも。恥と恐怖の中で僕は出来る限り二人を無視して、板書を中断した僕よりも頭一つ小さいおばちゃん先生を見た。そして事情を淡々と説明して、お小言を言われて、席に着いた。僕の雰囲気は明らかにおかしかったことはあの子も、ギャルちゃんも気付いていた。けれど、何事も無かったかのように僕は落ち着き払って教科書とノート、筆記用具を取り出して授業に取り組んだ。いや、取り組んだふりをした。疑われないように。
普段の態度を取り繕って、一切の興味を勉強に傾けるようにして、延々と続くかと思われた残りの授業時間を僕は過ごしきった。誰の顔も見ないように、休憩時間は突っ伏して寝たふりをして、誰にも干渉されないように。
六限終了のチャイムと終礼の後、僕は誰よりも早く教室の外に出たかった。おおよそ、勘の良いあの子は僕を追いかけてくるだろうから。
そういうことで席を立った。
「ミサヲちゃん、さっきはどうしたの? 普段は授業遅れないのに」
ただ、残念なことに僕の行動よりもあの子の方が早かった。
僕を見上げる彼女は、瞳を不安に揺らしている。
「まあ、色々あってね……」
清廉潔白な正直者の眼差しは、心を貫く。そして僕の口は偽りの言葉を紡ぐことを禁じられた。
「色々って?」
言えるわけがない。
言ってしまったら僕は僕自身の外聞を守れなくなってしまうんだ。二時間ちょっと前、平穏が崩れることを予期しておきながら、この期に及んでそれを恐れているのは愚かだ。
でも、愚かで脆い心は半ば決まった未来を恐れて、言動を濁らせる。
何を問いかけられているのか分からず、視線を逸らして適当に生返事を返していると、優しい子は手を掴んでくる。ミサカさんと同じように柔らかくて、暖かくて、少し湿っている感触が伝わってくる。
ただ、ミサカさんと違ってこの子と直接触れたことに特別な情動は生じない。手を握られているという事実だけを僕は認知する。
手を握られてしまったら、当たり前だけれど物理的な拘束が生じる。視線を否応なく合わせなければならず、もう無視することは出来ない。相手が不誠実であったのならば、その必要性も無かったのに……。
既定されていることを恨んだって仕方がない。観念して目線を合わせよう。純粋無垢な女の子の輝かしい視線に晒されて、彼女の問いになるべく誠実に答えよう。
「大丈夫?」
「体調は問題ないよ。精神面もこれと言って問題がある訳じゃない。ぴんぴんしてるよ」
「本当に?」
あまりにもわざとらしい演技は、無垢な目にもばれてしまうらしい。
疑るように、そしてどこか怒ったようにこの子は見つめてくる。
まずい。背中の冷や汗が止まらない。
「まあ、正直なことを言うと精神的に参ってるところがあってね……」
「何かあったの?」
君の好意のせい。
なんて口が裂けても言えない。
健やかなこの子を壊してしまう気がするから。でも、言わなくてもこの子は傷ついてしまう。意味のない延命措置を施したところで、反って傷を重くするだけだろうから。
ただ、いまこの子が話しかけてきてくれたのは本音を伝える絶好のチャンスのはずだ。だからギャルちゃんも僕らに介入せず、一介の喧騒に身を隠しているんだろう。
ああ、けれど、そういうチャンスを与えられたところで臆病が払拭できるわけじゃない。これはチャンスをふいにするためにあるようなモノなのだから。
再び曖昧模糊な態度を取ってしまう僕は、意味も無く襟足を触る。少しでも現実から目を逸らすために、あざとく首を傾げるこの子に真実を伝えないようにするために。
「私だったら、多分、相談に乗れると思うよ」
この子は何て善人なんだろう。そして、どうしてこんなにも無遠慮なんだろう。
「ごめん。でも、大丈夫だよ。うん、きっと大丈夫……」
「嘘。本当は大丈夫なんかじゃないでしょ。さっきから目が泳いでるし、いつもよりも他所他所しいし」
「……そこまで分かってるなら」
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ。でも、本当に大丈夫なんだ。これはただ僕が気にしすぎているだけなんだよ。それ以上もそれ以下でもなくて、僕が弱虫なだけなんだよ。昔のことを気に過ぎて今を見れていないだけなんだ」
本音が漏れてしまわないように、この子が介入してこないように、なるべく早口でまくし立てる。
もう、この問題を先延ばしに出来るんだったらなんだって良い。
誰か、どうか、この息苦しい環境から僕を開放して……。
自暴自棄な願いが届くはずも無く、彼女は僕の手をさらに強く握る。そして揺れていた瞳は、いつの間にか決意に満ちたものになっていた。
一体、どうしてこの子はそんなにも人のことで感情的になれるんだろう? この子が僕に生じただろう何らかの事態に対して義憤を抱くことができるんだろう?
なぜ、人はこうも人に対して感情的になれるだろう?
その先にあるのは苦痛でしかないのに……。
「大丈夫じゃないよ」
見上げる彼女は慈愛の笑みを浮かべる。
ただ、残念なことに僕は感傷的になれない。僕は僕に向けられているそれが完全な善意であることを分かっていながら、この子が僕を取り巻く問題から僕を救うために微笑を浮かべていることを理解していながら、一切の感動を覚えない。
ついに僕は人間として壊れてしまったんだろうか?
畜生道に落ちてしまったんだろうか?
神様は傷ついた人間をさらなる地獄へ落としてしまったんだろうか?
ああ、どうか許して。
僕がこうなったのは僕のせいじゃない。僕がこの子に鬱陶しさを覚えてしまっているのは、全て無暗に僕を傷つけたあいつらのせいなんだ。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「ごめんなさい。本当にごめん。いまは駄目なんだ……」
不誠実な自分の顔を見られてしまったら僕の印象は最悪になってしまう。相手の好意を無下にしながら、被害者面している奴の顔を見たら誰だってそいつを嫌いになる。自分勝手な人間の身勝手な情動は呆れられて然るべきものなんだから。
埃、消しカス、髪の毛、何かの汚れが散らばっているリノリウム張りの床を現実逃避のために見つめる。こんなことをしたって芽生えた醜い感情を否定できるわけじゃない。時間稼ぎにもならない。
喧騒が意識から遠のいて、自罰的な暗闇に意識が飲み込まれていく。視野は狭まって、いたずらに時間を費やしてしまう。
「ミサヲちゃん……」
「ッ……」
謙虚に阿諛するかのような彼女の声音と共に僕に右頬に手があてがわれる。それは僕に不快感を与える。邪な感情が含まれているはずのない接触なのにもかかわらず。
いや、そもそもどうして僕はこの子を純粋無垢な女性として認知しているんだろうか? それもまた偏見のはずだ。いまさっきこの子は僕を誘惑するかのような、自分に頼らせるかのような態度を取ってきた。それがこの子の本性なんじゃないのか? 人の気持ちを知っていながらも、執拗に弱点を突いて相手を弱らせて、手籠めにしようしているんじゃないか? そういった可能性だって考えられるはずなのに、どうして僕はこの子の外聞に囚われているんだ。
「フルタミサヲさん、いるかしら?」
ただ、邪念に思考を支配され、疑ってはならない人を疑ってしまいそうになった時、救いの手は差し伸べられるらしい。
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