第二十五話

 協力の打診と観念的な熱病を受け入れた時、間の悪い休み時間終了のチャイムが鳴った。それは僕とミサカさんを内包していた二人っきりの世界を壊して、僕らを現実界に引き戻した。

 でも、ミサカさんが二人っきりの世界で残してくれていた衝撃と感触は未だに残っている。


「時間ね。急がなきゃ」


「うん……」


 ミサカさんはわざとらしく唇に人差し指をあてがうと、動けないだろうと踏んだのか、僕の左手を力強く掴んだ。少し汗ばんでいて、しっとりとしている柔らかいミサカさんの手は暖かい。ただ、その伝わってくる体温に立ち眩みを覚える。それはきっと体が火照りすぎてのぼせてしまっているからだろう。

 果たして熱にうなされている中で満足に呂律が回るんだろうか。そんなのはありえない。呂律が回らないどころの話じゃない。言葉すら思い浮かばないし、自立する力を保つので精いっぱいだ。


「クラスは?」


「C」


「私と一緒の階だったのね。それなら好都合。教室までいっしょに行ける」


 これから自分がしようとしていることが余程面白いのか、ミサカさんは屈託のない笑みを浮かべる。混じりっ気のない純粋な感情の発露ほど恐ろしい感情表現はない。

 どうやら僕が望む平穏は今日で終わりを告げるらしい。

 約半年間、僕はよく自分だけの環境を保つことができたなあ。あの子や、ギャルちゃんや、アマネちゃんや、同級生や先輩や後輩に干渉されることなく、僕だけの平穏を保てていた。そう考えると僕は随分と立派なことをやったんじゃないかと思う。

 いや、自画自賛による自己満足は心を虚しくさせて、拭いきれない恥を生むだけなんだから。


「また、考え事してるのね。少しは気を楽にしたらどう?」


「無理だよ。昔っから……、いや、まあ、こういう性分なんだよ」


「……そう」


 危うく口を滑らせるところだった。

 いや、半ば信頼を寄せているんだから忌々しい過去を話してしまっても良いんじゃないか? そうすれば少なからず僕だけの王国の再建は進むだろうし……。

 言い淀んだ僕に素っ気なく返答したミサカさんだったけれど、相変わらず僕の手を握る力は強い。その痛みすら覚える力のおかげか、熱は微かに引いて、頭は少しだけ冷静になる。


「とりあえず、授業に間に合わなくて先生に怒られたら目も当てられないから行こう」


 上手く作れているか分からない微笑を、ジッとこちらを見つめてくるミサカさんに投げた。もっとも、僕の浅はかな試みは瞬間的に頓挫してしまった。睨みつけてくるミサカさんを見れば、言葉なんて要らない。


「私を信じて」


 人の好意を無下にすることは出来ない。

 ただ、その一方で強要を迫る言葉は僕を委縮させる。

 ミサカさんは決して悪くない。微かな怒気を孕んでいるその言葉が完全な善意によって紡がれたことは分かってる。本当に自分のことを信用して欲しいと、惨めな僕に手を差し伸べてくれていることくらい知っている。

 でも、理解していたとしても、信頼を寄せているとしても、僕はそれを疑ってしまう。

 自分勝手な自罰感は視線を床へと向けさせる。


「ごめん。まだ、駄目なんだ」


「……無理強いはしないわ。ただ、いつか、近いうちに私のことを信用してくれればそれで良いわ」


「うん」


「まっ、それはそれとして。いまは教室に急ぎましょ」


「ちょっ!?」


 再び解決方法のない悲しみの入口に立ってしまった僕を救うためか、それともただただ先生に怒られたくないがためか、ミサカさんは僕の手を握ったまま駆けだす。

 足がもつれそう……。

 というか、ミサカさんって足早かったんだ。陸上部のエースをねらえるんじゃないか?

 薄暗い廊下をあっという間に抜け、初秋の日差しに満ち満ちた渡り廊下に出ると、途端に目の前が真っ白になる。脆弱な体は急激な環境変化についていけないんだから仕方がない。

 うえ、吐きそう。

 大して走ってないのに……。

 いや、これはきっとミサカさんが早すぎるのがいけないんだ。涼しい顔をしてタッタッと走っちゃてるのが全部……。

 余計なことを考えるのは止そう。

 今はただ必死にミサカさんの足についていくことだけを……。

  


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