第二十四話


「自分の口で言うのは恥ずべきことだけれど、私の家って裕福なの。父親は貴女でも知ってるような大企業の役員で、母親は外資系の企業で役職についてる。母も父もそれなりに由緒ある名家の出」


 ミサカさんは息苦しそうに、恨めしそうに両親の肩書を語る。おおよそ、その表情は自分の肉親を語る時に用いるべき表情じゃない。それはもっと憎たらしい人間に向けるべき負の表情だ。


「そんな家庭に私は生まれた。ただ、残念なことに愛情が注がれることは無かったわ。両親は幼い私の面倒を自分の両親に任せて自分たちは仕事に集中したし、面倒を見ることになった祖父母も私をベビーシッターに預けて仕事や趣味にいそしんでた。それもそのはずで、どちらの祖父母も乳母に育てられてきたし、乳母に両親を育てさせたんですもの。その上、私の両親は許嫁で、どちらも時代遅れの家を守るなんて考えに迫られて結婚したまでで、愛したこと、愛そうと思ったことすらないの。だから、仕方がないと言えば仕方がないのよ」


「……冷たいね」


「ええ、冷たいわ。でも、幼子が両親の事情を理解するのは不可能よ。だから愚かにも暖かい家庭を、家族団欒を望んだのよ。幼稚舎の同級生たちの普通を望んだのよ。けど、そんなものが成就することは無かった。結局、今の今まで両親と、祖父母とさえ、揃って食卓に着いたことは無いわ。肉親の手料理も食べたことが無いの」


 自らを蔑むようにミサカさんは笑う。

 止めて。

 貴女にその笑い方は似合わない。

 貴女には堂々と笑っている姿しか似合わない。

 貴女はいつでも気高い女性であってほしいんだ。


「だから、そう、叶うはずがないことを望んだって良いのよ。そしてそれに向かって行動しても良いの」


 重い空気になりすぎたことを申し訳なく思ったのか、あるいは自分の表情を見られたくなかったのか、ミサカさんは僕から離れて窓の前に立った。

 日差しがタイミングよく強まったおかげでミサカさんの表情は陰に隠れる。


「想像しうる限り最も良い未来が実現できる選択を取る努力を怠っちゃいけない。それだけは言えるわ。人の好意を袖にするにしても手段は色々とある。それを考えてみることね」


 どんな顔でミサカさんはそんな言葉を紡いでいるんだろうか。分からないし、想像も出来ない。けれど、ミサカさんの言っていることが正しいということは分かる。

 ああ、なるほど。僕は考えなければならないんだ。現状の不安を打開するために、知らない人が人生に干渉してくるという恐怖を取り払うための術を獲得しなければならないんだ。

 でも、考えたところで導き出せるんだろうか。どの道、あの子を傷つけてしまうだけなんじゃないのか。

 向けている好意が破れた時に生じる痛みは想像もできない。ただ、痛みが呼び起こす恨みのおぞましさは知っている。それゆえに僕は思い切った行動を取ることができないんだ。恐れをなして立ちすくんでいる。

 勇気を出さなきゃいけないんだろうか?

 いや、自分の手を汚さなければいいんだ。

 つまり生贄を用意して、醜い恨みの矛先を僕じゃなくてその人に設定すれば……。

 駄目だ。そんなことは絶対に駄目だ。それじゃあ、僕はあいつらよりも醜い人間になってしまう。下等で矛盾した人の形をした何かになってしまう。けれど、だからと言って直接あの子に干渉したくはない。清らかなあの子を傷つけたくないんだ……。

 自分本位の堂々巡りの中に身を置くと何も見えなくなってしまう。最も良い手段を探すはずの思考は暗幕の中に閉じ込められて機能不全に陥る。形作られるはずの王国も方向性を失って得手勝手にうごめくだけの存在になってしまう。

 ああ、誰か助けてほしい。

 愚かで浅ましくて傲慢な僕をどうか助けて。


「貴女は優しい人なのね」


 僕は何も優しくない。

 ただ、自分が傷つきたくないだけなんだ。


「首を横に振らないで。目を伏せないで。私がそう言っているんだから間違ないわ」


 自分の浅ましさを見られたくないがために下げた顔を、ミサカさんの暖かい両手は包み込んでくれる。両頬から伝わる慈愛の温もりが醜いばかりの僕の心をどうしようもなく切なくさせる。


「時には人を頼っても良いのよ」


「違う。僕の考えてることは頼るなんてことじゃない。道具として人を扱うことなんだ。だから……」


「意識の問題じゃないかしら。双方の合意があった場合、それは善良な関係になるはずよ」


 落ち着かせるようにミサカさんはゆっくりと耳元でささやいてくれる。

 ただ、その発言は声音に反して僕を活性化させる。


「……まさか」


 顔を慌ててあげると、ミサカさんは含みのある微笑を浮かべていた。

 駄目だ。

 そんな表情をされてしまったら、僕は頼ってしまう。


「貴女のスケープゴートになってあげる」


 考え得る限り最悪の手段は、ミサカさんによって肯定されてしまった。

 その事実は僕の体から力を奪い去った。


「ふふ、そんなに驚くことかしら」


 猫のように目を細めて笑ったミサカさんは、両頬から手を離すことなく顔を近づけてくる。僕はそれから逃れられない。

 ああ、止してほしい。

 それは優しさだけれど、駄目な優しさだ。

 きっと一度受容してしまったら逃れられない。

 かつて僕が手にしていたものと同じだろう。

 でも、変質している。だから手にしてはいけない。こんな過程で手にしちゃいけないはずのものだ。

 けれど、僕は受け入れてしまう。

 左目の目元にさっきとは異なる優しい唇が落とされる。それはくすぐったくて、けれども心地よい。胸はその切ない温もりのおかげで温まる。


「大丈夫。貴女が心配してるようなことにはしないわ」


 そして、宝石のように輝く翡翠の双眸とただ一言で、僕の利己的な精神は平服してしまう。

  


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