第二十三話

 人工的じゃない良い匂いが、汗の臭いをほのかに含んだ匂いが鼻をくすぐる。さらさらとした長い髪がくすぐったい。アマネちゃんとはまた違う心地良い色々な感覚が、呼吸と体温を通して伝わってくる。そして、アマネちゃんに覚えた信頼感と同じものも湧き上がってくる。

 ただ、どうしてミサカさんが僕に頭を預けているのかは分からない。もっとも、これを言葉にして尋ねるのは無粋だ。意味を求めちゃいけないことだってあるんだ。これがその一つだ。

 いや、言い訳に過ぎない。

 本来の意味を求めるべきだ。

 アマネちゃんとの行為について意味を求めたんだから、この行為についても、ある種の好意が含まれているだろうミサカさんの言動に理屈を求めなきゃいけない。一人を特別扱いするなんて醜い。


「無粋なことを尋ねようとしてるわね」


「僕の考えていること、なんでも分かるんだね」


「私にとっての特別なんだから当たり前よ」


 翡翠色の双眸は細まって、いたずらっぽい笑い声が耳の中で弾む。恥ずかしいことを恥ずかしがらずに言えるのはすごい。そしてあからさまに顔を赤くして恥じらっている自分が恥ずかしい。


「顔、赤いわよ」


「それは無粋なことだよ。多分」


「私にとって有益だから良いのよ」


「それじゃ、僕はまるでミサカさんの玩具じゃないか。昨日もそうだったけど、ミサカさんは僕のことを弄って楽しいの?」


 本当にどうしてこの人は僕の平常心をかき乱すんだ。掌で転がされるのは不愉快だ。もっとも、ミサカさんに不快感を覚えたことは無い。むしろ、これが心地良いとすら?

 僕はマゾヒストじゃない。


「それなりに楽しいわよ。貴女みたいにコロコロと表情を変える人って少ないし」


 見上げるミサカさんの目つきは言葉通り楽しそうだ。


「酷いね」


「でも、貴女は嫌がってない。それが真実よ」


「……ぐうの音も出ないね」


「物分かりの良い人は好きよ」


 随分と機嫌のいいミサカさんはそのまま僕の肩に頭を預け続ける。

 本当に、どうしてこの人のことを僕は不快に思えないんだろう。普通の人だったら話すことすら嫌悪してしまうはずなのに、ミサカさんには体に触れることを許している。昨日の下校のときもそうだったけど、僕はどうしてミサカさんを好ましい人と、僕を裏切らない人だと考えているんだ? 明確な証拠なんて何もないはずのに。

 いや、きっと二日間で、たったの二日で僕はこの人を信頼しても良いって証拠を見つけ出したんだろう。けれど、無意識的に発見したから分からないんだ。つまり僕のすべきことはここから無意識が見つけ出してくれた信頼に値する証拠を、記憶の中に眠っているアマネちゃんを信頼して良いと思える証拠と同じように掘り起こさなきゃならない。

 でも、そんな時間は無い。

 なら、僕のすべきことはミサカさんに僕の不安を告げることだ。


「ミサカさん」


「何?」


 柔らかな表情を浮かべながらミサカさんは呼びかけに答えてくれる。その表情はミサカさんにとって僕が特別な人なんだと実感させる。

 照れるなあ。


「好きになって欲しくない人が自分のことを好きになったらどうする?」


「簡単な話じゃない。直接伝えれば良いだけよ」


 毅然とした態度でミサカさんは言い切る。確かにミサカさんほどの胆力がある人なら直接的な行動にも出れるだろう。

 けれど、僕はそんなに強い人間じゃない。自分で言うのも恥ずかしいけれど、僕は弱くて脆い人間でしかない。


「簡単じゃないことは分かるけれど、人の好意を意図的に拒絶するんだったらそれくらいの覚悟が必要よ」


「贖罪状は無いかな? いや、外聞を汚さずに乗り切る方法っていった方がわかりやすかな?」


 愚かな質問だとは思う。

 でも、そうだとしても僕は逃げ道が欲しい。今までと変わらない日常を過ごすためにも、自分が許した人間以外に干渉されない環境を再び得るための方法が欲しい。人間関係を一掃できる手段が欲しいんだ。


「無いわよ」


 実直に現実と向き合っているだろうミサカさんは、僕の愚問をきっぱりと切り捨てる。いつの間にか良かった機嫌も斜めになっている。弱腰な人間を好む人なんていないだろうから当たり前だ。


「そっか、当たり前だよね。解決するにためには自分から動かなきゃ意味ないよね。本当にくだらない質問しちゃった。ごめんね、ミサカさん」


 いまさら機嫌を窺っても仕方がないし、逆効果だっていうことは知ってる。

 でも、僕はこの人に嫌われたくない。この人が僕の傍から離れていくことが怖い。信頼しているはずなのに、僕の近くに居ないとき僕のことを誰彼に話すかもしれないって思ってしまう。

 果たして本当に僕は僕だけの王国を再建できるんだろうか? こんな人間不信を抱えたまま、信頼しているはずの人間すら疑ってしまうこんな姿勢を持ってたらできるはずがない。そもそも初対面の人を道具として扱おうとしていた時点で、人を妬んでそれを欲した時点で無理だったんだ……。


「謝らなくて良い。誰だってあり得ないことを望むことはあるわ。私にもあったくらいだし」


 声色を低くして独り言のようにミサカさんは呟く。視線は真っすぐと窓の外の住宅街に注がれている。面白みのない背の低い住宅と、点在する高層マンション、申し訳程度の街路樹と公園からできているつまらない風景を同等の感覚で見つめている。


「ミサカさんにも?」


「ええ、両親に会いたいとかそういう叶いもしないことを望んだわ」


「……ごめん」


「謝るのはこっちよ。いきなり重い話をしちゃったんだもの。でも、少しだけ聞いてくる? 貴女なら分かってくれるかもと思ってね」


 冷たい表情の中で無理やり作った微笑はミサカさんに似合っていない。

 けれど、それが僕を安心させるために浮かべた笑みだと思うと嬉しい。醜い、でも本当に僕はそう思ってる。そう思ってるからこそ、少しでもミサカさんの抱えてる内なる苦しみを軽減させてあげたい。

 傲慢な願いだ。僕如きが人助けなんてできるわけがないのに。

 でも、ミサカさんはそれを望んでいる。だから僕は頷くんだ。



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