第二十二話
体はまだ熱い。
もうアマネちゃんは傍にいないというのに、彼女の体温が僕の体温に加算されているみたいだ。口の中にもあの艶めかしい感覚が残ってる。醜くて汚らわしいはずの快楽を覚えさせるだけの行為の記憶を僕の歯茎や舌は覚えている。
右内頬を舌で撫でる。記憶を出来るだけ上書きできるように、これから先、思い出せなくなるように。もっとも、LINEを交換したから子供だましみたいなことをしても消せるわけがない。過去の自分を肯定するためにアマネちゃんを受け入れたことは事実なんだ。
不干渉に依らない関係を証明する一つの連絡先、海の写真のアイコンが寂しいLINEのホーム画面にある。両親以外の存在なんて煩わしくて厭わしいだけのはずだ。けれど、この連絡先には愛おしさを覚える。それはやっぱり過去の自分を愛おしく思っているからなんだろう。アマネちゃんを通して僕は過去の僕を見ているんだ。
それじゃ、人を道具として扱っているみたいだ。
気持ちが悪い。
傲慢だ。
でも、肯定したいんだ。過去の自分を、今の自分とはまったく違う輝かしい過去を。
「はあ……」
独善的な関係による高揚感と、いつ晴れるのか分からないあの子との関係に関する不安は、混じり合って理性の中に入り込んでくる。そして、融解した王国の残骸と混じり合って紫だとか緑だとか決して鮮やかではない色が混じり合った謎めいた粘土質となってうごめき始める。気持ちの悪い形而上の物質は、僕の望む様な王国を作ってくれるんだろうか?
はあ、薄暗い場所に籠っていても気持ちが薄暗くなるだけだ。
「痛てて」
硬い床にしばらく座っていたからお尻が痛む。
やっぱりもうちょっと食べた方が良いな。相変わらず立ち眩みもするし……。
黒ずんだ視界は徐々に晴れる。良かった、背中を預けられる壁があって。ここで倒れて、気絶なんかしたら面倒くさい事態に発展したかもしれない。それこそあの子と顔を突き合わせて話す羽目になったかもしれないんだから。
スカートに着いた埃を払うと、ここが汚い場所だっていうことがわかる。掃除当番、与えられた仕事くらいしなよ。うわ、べったり埃が着いてる。
ついさっきの艶めかしい記憶がほんの少しだけ、本当に微かに薄くなってきた。喜ばしいことだ。こうやって記憶なんてドンドンと忘れられれば楽なんだけど。もっとも、それが苦となる人だっている。いや、そっちの方が多い。誰だってひと時の記憶を、大切な人との記憶を忘れることは嫌だ。僕だってお母さんとお父さんとの記憶を忘れたくない。
願いと背反してるな。
自己矛盾だ。
自分勝手だ。
忘れたい記憶を忘れて、忘れたくない記憶はずっと取っておきたいなんて。それに行為を独善的に肯定したのに、それを本能的に忘れたい記憶に分類しているなんて無責任だ。自分で選んだことくらい責任を持たなきゃ駄目だ。肯定することは他人を傷つけることでもあるんだから。だから忘れてはならないんだ。どれだけ忘れたいと願っても、醜い好意を自分が求めたという汚らわしい記憶は記憶に残しておかなければならないんだ。
決意だとか使命だとかそんな大層な名前じゃない。ただ自分をあいつらとは違う人間だって分類したいだけなんだ。どこまで言っても自分本位だな……。
夏の日差しよりも滑らかな日が、唯一の光源となって孤独な階段を照らしている。そんなところで考えに耽っていると憂鬱な気分になってくる。自己批判が鬱勃としてくる。一人になるのは良いけれど、こんな場所は駄目だ。やっぱり中庭のベンチが一番落ち着く。人がいたとしてもあそこが一番しっくりくる。
一階下って、三階についても人気は無い。昼休みが終わらない限り、この階も上階と同じく人気が無いんだろう。構造的に窓が階段の踊り場についてるだけで少ないし、英語と理科の教員室があるから人なんて来るわけない。厳しい先生、というより、ヒス気味の英語教師が鎮座してる教室のある階ではしゃぎたがる物好きな人なんているわけがない。
「あと十分か……」
スマホを取り出すと、休憩時間が思ったよりも少ないことがわかる。これじゃあ、ミサカさんに会えないな。残念だな。
多分、きっと、会えば粘土質でうごめいているこれもその形を決定してくれるだろう。そしたらあの子に関する不安も微かに和らいでくれるはずだ。
「まあ、居ないよね」
ミサカさんが居たらと思ってぼうっと廊下を見たところで何もない。薄暗くて人気のない少し不気味な学校の風景が伸びているだけだ。
昼休みももうほとんど残ってない。このままゆっくりと教室に帰ったら、きっと丁度良く終わるだろう。そしたら頭に入りっこない授業を聞き流して、あの子に見つからないようにそそくさと帰ろう。
いや、帰る前に少しだけミサカさんに会おう。
多分、あの子はギャルちゃんが何とかしてくれるだろうし。願望に過ぎないけれど、きっとそうしてくれるに違いない。
不安定な事象に賭けることは愚かだ。それをせざる得ない状況に追い込まれている自分もまた愚かだ。
溜息を吐いて、瞼を閉じて、防火扉に体を寄せる。
ずっと考え事をしていたらなんだか疲れた。さっきの行為もそうだし、先の見えないこれからも僕を酷く疲れさせる。早く楽になりたい。三日前みたいに孤独の中で気楽に生きていたい。
過去は懐かしくて暖かい。未来は不安定で冷たい。そんな気がする。
「眉をしかめてどうしたのかしら?」
でも、そんな冷たい未来の第一歩目は微かに暖かいらしい。
「……なんで居るのさ?」
「課題を提出してきたのよ。私、化学の担当だから」
「そっか。お疲れ様」
「貴女もお疲れの様ね」
ミサカさんはクスっと笑うと、僕の隣に、僕と同じように防火扉に背中を預けた。そして、さっきのアマネちゃんのように頭を僕の肩に置いた。
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