第二十一話

「随分と変わっちゃったね。ピアスとか開けちゃってさ」


「似合わない、これ?」


 冷たい壁に隣り合って背を預けて薄汚い床に腰を下ろす。そんな中でアマネちゃんは自分の右耳たぶを摘まみながら純粋な疑問符を浮かべる。白い耳たぶにきらりと光を反射させる小さな金属のアクセサリーは、よく似あってる。いまのアマネちゃんに限って言えば違和感なんて全くない。

 けど、昔のアマネちゃんを、謙虚で真面目で規則を遵守するアマネちゃんを知っている身からすれば違和感の塊だ。


「いや。似合ってるよ。かなりイケてる」


 もっとも、昔と今を比べられるのは嫌だろうから無粋なことは言わない。

 ただ今の印象だけを伝える。

 アマネちゃんは打算塗れの僕の言葉に満足してくれたのか、満面の笑みを浮かべる。その表情は昔の面影を残している。懐かしいと同時に悔しい気分になる。


「そっか、なら開けた甲斐があったよ。意外と怖いんだよ、穴開けるのって」


「ふーん」


「興味なさそうだね」


「まあね。開けるつもりなんて無いし、興味もないしさ」


「そういうドライなところは変わってないんだね。本当に」


 いつの間にか体育座りに座り直したアマネちゃんは嬉しそうに微笑む。


「変わってないのか……」


「うん、変わってるようで変わってないよ。少なくともミサヲちゃんとかかわりがあった人はそう感じると思うよ。小学校同級生とかからそういうこと言われなかった?」


「言われてないね。というか向こうもこっちも覚えてないし。そもそも付き合ってた人たちとの関係なんて完全に断ち切ったからね」


「へえー」


 視線を誰も上がってこない孤独な階段に向けたアマネちゃんは、何か含みがあるようにぽつりと間延びした声を漏らす。過去について何らかの興味があるのならば、遠回しに訊ねる必要なんてないのに。

 信頼している人間として僕は認めているんだから。

 生来の性分が変わってない純粋な人として認めているんだから。

 ただ、僕はどうして久しぶりに会った人を信頼してしまっているんだろうか。昔の友人なんて信頼できないはずだ。かつて培ってきた友情なんて、あっという間に風化してしまって役に立たなくなってしまう。もっとも、時間云々が友情を揺るがない信頼として確立する訳じゃない。友情なんていつだって不安定で揺らいでいるもの。こうやって友情を定義すると一層アマネちゃんを信頼している理由が分からなくなる。

 理由はなんだ?

 理屈はなんだ?

 探ろう。

 どこを?

 記憶だ。探るべきは記憶だ。

 多分、いまこの瞬間にアマネちゃんに抱いている信頼は関わり合った僅かな時間の中で覚えたものじゃない。これは切り捨てた過去に由来するもののはずだ。思い出すことすら止めていた幾年も前の記憶の中に、本能的に矜持を否定してアマネちゃんに対して、躊躇いなく信頼する理由があるはずだ。

 とはいえ思い出すには時間がかかりすぎる。記憶が詰まった箱は埃かぶって、蝶番はすっかり錆びついてしまっているんだから。


「何をそんなに思い悩んでるの?」


 アマネちゃんは膝に顎を乗せながら微笑みかけてくる。

 見た目の雰囲気からは想像できない純粋無垢な微笑は、不安渦巻く心に一条の光を与えてくれる。カンダタが見た極楽浄土の光もきっとこんな感じだったんだろう。一切の邪推なく安寧の信頼を覚えられる。

 本能に従うことは良いことなんだろうか?

 いや、それは絶対に悪いことだ。本能にしたがって自らの欲求を具体化することはあいつらと同じだ。それは醜くて汚らわしくて屈辱的だ。だから理屈が分からない限り、自分を納得させることの出来る決定的な証拠がない限りこれを肯定してはいけない。


「別に」


 ゆえに僕は淡白な態度を取る。


「ふーん」


「ふーん」


「オウム返しなんて意味ないよ。なんか考えてたんでしょ?」


 記憶を探る作業を忘れて、ただただ今を解決させるために強情を張る。せめてこの話題から相手の興味を失わせるように。


「言いたくない」


「そっか。まあ、四年ぶりに会ったんだから言いたくないこともあるか」


「あっさりしてるね」


 意外な返答に余計な言葉が漏れる。


「『人が嫌がることはしない方が良い』ミサヲはずっとそう言ってたじゃん」


「そんなこと言ってたんだ」


「覚えてないの?」


 覚えていないというより思い出したくないっていった方が正しい。かつての明るい過去を思い起こしてしまえば今の自分が酷く惨めになるから。過去の栄光なんて見えない方が良い。そして、このことを誰かに言うことも出来ない。それもまた惨めだから。

 薄汚れた天井はまるで僕の心の様だ。


「目、なんで逸らすのさ」


「ここまでしてくれてるアマネちゃんにこういうことを言うのは傲慢だけれど、察してくれるとありがたいよ」


 明らかに隠し事があるとわかる仕草を見せる旧友に、親切なその人は不承不承と小さく唸って、溜息を吐く。

 諦めてくれたんだろうか?

 そうであったのならばこれほど喜ばしいことはない。もちろん、心が安らいでいる理由を見つけた時、そしてそれが妥当な理屈だった時、僕は傲慢に対する対価を払うつもりだ。不遜かつ不公平な交渉だということは分かるけれどどうか許してほしい。

 何も伝えてないのに、相手がそれを知っているという気になるのは良くない。一方的な認知は相手を傷つけてしまう可能性だってある。でも、きっと、アマネちゃんなら大丈夫だろう。かつての僕が信頼していた可愛らしくてなよなよとした人なんだから。


「そっか」


 言い訳をぶつくさと頭の中で回していると、アマネちゃんは前触れなくこてんと、僕の肩に頭を預けてきた。艶やかでさらさらとした髪が肌を摩ってくすぐったいし、首にかかる呼気の生暖かさが恥じらいを誘発させる。

 同性なのに……。


「ねえ、ミサヲ。どうしてミサヲ変わっちゃったの?」


「同じことを何度も言わせないで欲しいなあ」


 自分勝手なことは分かってるけど、二度手間は嫌いだ。それに媚態と甘い声も嫌いだ。


「酷いね。こっちは譲歩してんのに」


「うん、それは分かってるし、感謝してる」


「だったら何かお礼の一つでもしてくれないかな?」


 行動に対価を求めるのは当たり前だ。けれど、あいにく僕はアマネちゃんを満足させられるようなものを何も持ってない。即物的なものは何にもない。あるとすれば傷痕塗れの見るに堪えない精神とみすぼらしい体くらいだ。前者を欲しがる人はもちろんのこと、後者を欲しがる人なんていないはずだ。同性ならなおさら。

 ゆえに僕が払えるものは何もない。

 じゃあ、この交渉はすっかり駄目になってしまう。

 なんてことだ、自分で証明してしまった。

 心の内で何も面白くないやり取りをしても意味なんて無い。状況を虚しくさせるだけだ。こうなったら正直に言う他、いや、値しないものを差し出せば……。


「あいにく即物的なものは持ち合わせてないんだ。お金なら多少余裕があるけれど、それはきっと満足させられない額だ。だから、僕が差し出せるのは僕の体だけだね。それでもいいならどうぞ」


 天井を見つめながらぽつぽつと恥ずかしいことを呟く。

 これじゃあ、極めて品のない人間のように見られても仕方がない。僕の言葉は結局のところろくでもない誤解を生んだだけだ。証拠にアマネちゃんは、きっとあの頃と同じように? 純朴な心に従って黙りこくってる。呼吸さえ忘れて黙ってる。

 こんなことになるんだったら沈黙を保っていれば、いや、学校に来なければ良かった。


「覚悟はあるの?」


 覚悟?

 覚悟なんて無いに決まってる。心臓は締め付けられ、鼓動は早まる。おかげ様で血行が良くなって体は熱を帯びて赤くなってる。汗ばむ体が証拠だ。


「……無いよ」


「じゃあ、なんで言ったの?」


 アマネちゃんの甘い溜息が肌をくすぐる。


「実際問題、アマネちゃんに払える対価が体しかないんだよ。まあ、美しさからかけ離れているし、性的な魅力もない貧相な体なんだけどね」


「痩せてるしね」


「うん、痩せてるからね。嫌味じゃなくて事実だよ」


 膝を抱えるように座り直して顔を伏せる。もうどうしようもなく赤らんでいる素顔を見られたくない。恥じらいを見せたくない。自分の失言から始まった要らない恥を、弱みを人に見せて弄られたくない。それは溜まらなく痛々しいだろうから。

 二重の緊張が体を強張らせる。


「でも、魅力的だよ。女子から見ればさ。細身で長身、手足もすらりとしてて、顔もカッコよくて綺麗だし、性格も腐ってない。そこら辺の男子よりもよっぽど魅力的だ。人を惹きつける」


「それくらい知ってるよ。外見の良さくらい知ってるさ」


「嫌味っぽく聞こえないのも魅力だね」


 アマネちゃんはクスっと笑うと、僕の髪を指で愛でるように摩る。そして、柔らかくて微かに暖かい何かをあてがう。

 何か、じゃない。それの温もりを僕は知らないけれど、それがなんであるかは知っている。だから僕はおよそ真っ赤な顔を、どうしようも無く説得力のない顔を上げる。

 けど、それは愚策だった。


「っン!?」


 舌で口の中を弄られ、艶めかしく、妖しい音が僕らの間に満たされる。甘くて甘くて仕方がない生暖かい息はしきりに交換され、その度に悲しくて愛おしい感情が押し寄せる。好きでもない相手にこんな感情を抱くのは間違っている。

 でも、僕はアマネちゃんを突き離せない。心地よくて深いこの行為を続けたいと本能的に求めている。自分でも訳が分からない。息苦しくて、恥ずかしいはずなのに、赤面して蕩けている旧友をまじまじと見ながら僕は行為を欲している。

 おぞましい。

 醜い。

 本能が求めるものはどうしてこうも汚らわしいんだ。肉体的で精神を汚すことばかりなんだ。その癖に心地良いのはどうしてなんだ。結局、何も変わらないんだ。愛も憎悪も一緒で動機は本能の肉体的な快楽に過ぎない。

 いいや、違う。ここにも理屈があるはずだ。

 きっと、高尚な理屈じゃなくて最も短絡的な理屈が。

 じゃあ、それは?

 記憶を探れば、あの輝かしい小学校の記憶を探れば見つかるのか?

 違う。

 僕がこの行為を、アマネちゃんとの行為を肯定しているのは、この記憶そのものを肯定したいからだ。醜いおぞましい肉体的行為だとしても極めて高い好意が介在している行為を介して、僕は過去の僕自身を肯定したいんだ。うらぶれてしまった今を忘れて、王国を破壊されてしまったあの時を忘れて、純粋で勇敢だった過去の自分だけを見て、それが確かにあったことを証明したいから僕はこうしてアマネちゃんとの行為を肯定しているんだ。


「っん……」


 媚態だ。

 醜悪だ。

 でも、漏れる声は快感を増幅させる。低めのアマネちゃんの声と僕の声が混じり合うことで、この行為を成立させている過去が確かに証明されるから。

 けれど、肉体的な限界がある。人は呼吸をしなきゃ生きていけないんだ。どれだけ辛くとも、どれだけ切なくとも、息をしなければ死んでしまう。

 限界が来たアマネちゃんは息をゆっくりと唇を離す。銀の糸の橋が僕らの間にかかって艶やかに光る。

 赤熱した体は息苦しくて肩で息をする。アマネちゃんも同じように。


「これであおいこ」


 妖しい光を藍色の瞳に宿したアマネちゃんは、ちろりとピンク色の舌を出して微笑を浮かべる。僕はその姿に、女の姿に微かな性的欲求を覚える。上気した顔と汗ばむ首筋と、きらりと光るピアスに。


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