第二十話
薄暗くて涼しいここは、埃とカビの臭いさえなければ随分と心地の良い場所だ。締め切りの屋上に出たいと思う人なんて誰も居ないだろうし。強いて言うなら教室からの距離が遠いことくらいだ。ここで暇を潰していたらきっと暇つぶしに熱中しすぎて次の授業に間に合わなくなると思う。居心地のいい場所に流れる時間は短く感じるしね。もっとも、流慣習から時間くらい守れるだろうけど。
ともかく、ここは心安らぐ場所だ。もっとも、それは目の前のよく分からない人が居なければの話だけれど。
「近いよ」
「そう? 普通じゃない?」
冷たい扉に背中を預ける僕の頭の右横にウルフちゃんは手を突いて妙に熱っぽい言葉をささやいている。くすぐったいし、恥ずかしいからできれば止してほしい。
「これが君にとって普通の距離感だっていうなら君は少し異常だよ。出会ったばっかりの人と息がかかるほどの距離で話すなんてさ」
「まっ、確かにそうだ」
「素直なんだ」
「素直な人を嫌いになる人はいないからね。だからこれは好感度を稼いでるって話。極めて打算的なね」
「功利的だ」
素直に僕から一歩退いてくれたウルフちゃんは腕を組みながら、けれど相変わらず熱を帯びた調子で行動を淡々と説明する。きっと、僕に知られたくない本性みたいなものがあるんだろう。だから見かけだけの、中身が伴わない簡素な話の種を蒔いているんだ。
一般的に見れば情熱的な視線は、あの時から嫌悪すべき対象に他ならない。だから、ウルフちゃんの打算的な試みは結局のところすべて失敗に終わる。それが見え切った結末だ。けど、そんなことがわかっていてもなお僕はウルフちゃんを突き放すことができない。あの子の誠意を考えれば、それを無下にした罰を鑑みれば、こんな感情を持っているのは酷く不誠実だ。それに昨日の夜から渦巻いている不安を増やすだけの愚行に過ぎない。だのにどうして僕はウルフちゃんとのかかわりをこちらから拒絶することができないんだろう?
「何か疑問でも?」
それにどうしてウルフちゃんはミサカさんと同じくらい聡いんだ?
馬鹿にしてるわけじゃない。
ただ、この子は僕の心を読みすぎてる。
「いや、ただ、なんていうか、人と話すのが上手いなって思っただけだよ」
「本当に?」
「見抜いているんだったらいいでしょ」
「拗ねないでよ」
別に拗ねてるわけじゃない。
気を許していない相手に見透かされているのが苛立たしいだけだ。信頼を置いている人以外に僕自身の中身をまさぐられるのは気持ちが悪いし、おぞましいし、怖くて仕方がない。だから隠さなきゃ。
「本当に変わってないね。見た目は変わったけど、中身はやっぱりミサヲだ。頑固ですぐに拗ねる」
変わってない?
もしかして昔の僕を知ってる?
ああ、駄目だ、駄目だ、だめだだめだめだだめだ。
それだけは絶対に駄目だ。陰惨で目も当てられないあの事を知っているんだったら、僕が今まで必死の思いで作り上げてきた現状を壊される可能性があるんだったら、口封じをしなきゃ。僕だけの王国がまた壊れるんだったら、また僕が壊されるんだったら……。
体は勝手に動く。
勝てるはずがないのに、絶対に押さえつけられるわけがないのに、僕はウルフちゃんを、いや排除しなきゃいけない敵を鉄の扉に押し付ける。「痛っ」って、声が聞こえたけれど、そんなことは気にせず僕はこいつの口を手で塞ぐ。何も言えないように、何も言わせないように。
「どうして僕を知ってる? どうしてだ? 君は一体誰なんだ? ああ、違う。僕が一体何をしたって言うんだ? 君は知ってるんだろ。知ってて話しかけたんだろ? あの時と同じように僕をからかうために、そして僕自身の尊厳を再び破壊して、僕という存在を貶めるためにそうやって上から目線で、何にも偉くないのに、何にも知らない癖にからかってるんだ。違いない。間違いない。君もあいつみたいに、あいつらみたいに、二度と癒えることのない傷を僕につけようとするんだ!」
ああ、こんな奴、僕のことを知ってる奴なんて死ねばいいんだ。
でも、どうしてこいつは目を潤ませて首を横に振っているんだ? 真実を知っている癖に白々しい。きっとこいつは弱みを見せて精神的に人を弱らせ、反って僕の弱みを握ろうとするんだ。慈しむ様な目で見たって騙されない。そういう目に騙されてきたんだから。騙されるわけがない!
「ふざけるな。君は、いや、君たちはどうしてそうやって人を無暗に、いたずらに傷つけるんだ? そしてどうしてそれを楽しむんだ? 進化の中で排除したはずの醜い本能に身を任せるんだ? 教えてくれよ! 君たちが今までやってきたみたいにさ! 僕には分からない君たちの理屈をさ!」
「……」
「何も言えないだろ? 当たり前だ、君の口は僕が塞いでるんだから。でも、僕がこの手をどかしたら君の口は開いて僕を傷つける。だから僕はこうしてる。それじゃ矛盾だ。でも、こうする他ない。ああ、こうする他ないんだ!」
そうだ。
口を開けばこいつらは獣になる。人を傷つけるために本能で動くろくでもない存在に成り下がる。だからこいつのためにも、僕の行為は正当なものとなるんだ。
ただ、行為を正当化させるためには力が必要となる。
僕に最も足りていない肉体的な力が。それだから形勢逆転は必須なんだ。盛者必衰が極まるとただ憐れなだけで負ける。両手首は再び扉に押さえつけられる。
「痛いことをするね。やっぱり君たちは僕を傷つける野蛮な人たちだ」
「……」
怖い。
意地を張って、虚勢を張っていたとしてもこの瞬間はやっぱり怖い。最も単純で、最も鋭利で、容易く人の王国を破壊する衝撃はきっと死と同じくらい怖いはずだ。もっとも、この恐怖には覚えがある。だから耐えればなんてことはない。過ぎ去ればただの経験になってそのうち風化してくれる。いや、忘れられていないんだから違うか。
本能を脅かす行為を前に僕の瞼は閉じる。安らかに何のためらいも無くこれから振るわれるだろう罰を受け入れようとする。
一体、どうして僕はここまで堕ちてしまったんだ?
でも、別にそんなことはどうだって良い。今は今だし、昔は昔だ。だから今の自分を受け入れよう。そうすることでしか今は解決できないんだから……。
「どうして怯えてるの? ミサヲそんな奴じゃなかったでしょ」
知ってるくせにやっぱり白々しい。
「……」
「どうしてそんなになっちゃったんだよ」
何を失望しているんだ?
何を期待していたんだ?
君は一体誰なんだ?
三つの問いかけがこいつの呼吸に合わせて頭の中でぐるぐると回り続ける。それはずっと渦巻いていた不安と融合することによって感情がより不安定になる。
不安、不安、不安。
消すことができない未来への不安が募っていく。
「sacrifice」
干渉しないと決めていた自分自身の約束事は、暴力的な不安の渦を前にすると壊れてしまうらしい。そして僕の過去に対するたった一つの、それしかないっていう題名を呟いてしまう。
「犠牲……」
繰り返す必要なんてない。過去なんて変わらないし、美化されることもない。だから何も言わないで。何も喋らないで。どうか何も言わないで。
「何すんだよ」
「ハグ。慈愛の」
ああ、どうして拒絶できないんだ? 初対面で名前も知らない奴のハグなんて気持ち悪いだけの、言ってしまえばゴミ以下の行為なのに、どうしてそれを僕は侮蔑することができないんだ?
違う。僕は知ってるんだ。だからこの人の抱擁に安堵を覚えているんだ。温もりに妙な懐かしさを覚えているんだ。
「誰?」
「名前くらい当てて見せてよ。小六以来の再会だぜ?」
「……」
まだ明るかったころ。
僕が綺麗だったころ。
人が暖かくて、世界が透明だったころ。
そのころの思い出と光がこの子の温もりから蘇ってくる。惨めったらしい今を直視しないために封印してきた鮮やかな風景が蘇る。
ああ、この人は違う。
あのどうしようもない人間たちとは違う。不幸を知っていて、人の痛みを誰よりも分かる優しい人だ。思い出が保証してくれている。
なら、僕はこの人に僕自身をさらけ出しても良いのかもしれない。お母さんやミサカさんにすら伝えたことのない僕自身を見せても良いのかもしれない。破壊させられた王国、今は一つにまとまって再建に励んでいる王国の姿を示しても良いのかもしれない。
違う。僕がこの人に求めているのは慰めだ。僕の過去を知っている人ならきっと慰めてくれるだろうか。そういう信頼に甘えた慰めを欲しているだけなんだ……。
「アマネちゃん。トウドウアマネちゃん。小学校の頃の親友。いつも僕の後ろに付いてきた弱虫のアマネちゃん……」
惨めだ。
「正解。フルタミサヲちゃん」
酷く惨めだ。
幾らかの不安が解決されたのに、残された不安と今まで負ってきた傷と下らない自尊心のために再会した旧友に縋るなんて見っともなさ過ぎる。
でも、この子の、アマネちゃんの抱きしめる力が強まっているということはそういうことなんじゃないんだろうか。僕は縋っても良いんじゃないんだろうか。あの子に不義理を働いて、ギャルちゃんの醜い欲望を野放しにして、ミサカさんを利用しながら幾重に罪を重ねながら今を生きても良いんじゃないだろうか。神様だってきっと許してくれる。
「久しぶりだね」
「うん、約四年ぶりの再会だ」
「大きくなったね」
「そっちこそ」
アマネちゃんの抱き着く力はより強まっていく。
暖かくて心地いい。
これは干渉じゃない。
これは今まで痛みに耐えきってきた僕へ神様が与えてくれた報いだ。
屁理屈をこねながら僕はアマネちゃんの背中に手を回して、ギュッと体を引き寄せる。それが嬉しかったのかアマネちゃんは、あの頃と変わらない小さな笑い声を漏らす。
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