第十九話

 当然、授業に身が入るわけがない。

 昨日から始まってずっと続く不安の渦は僕の意識の全てを巻き込んで、勢いよく回り続ける。それは注意散漫な状態と極度の緊張状態をもたらした。こんな状況で普段と同じように集中できるはずがない。おぼつかない筆跡で板書を写すことができたとしても、内容は全くもって理解できない。全ては漠然とした文字の羅列でしか無くて、そこに意味を持たせようと思っても渦巻く不安の中に消え行ってしまうんだから。

 はあ、午前中を全部無駄にしたような気がする。

 それにあの子が向けてくる視線を知らんぷりするのは辛い。もっとも、僕が辛いっていうべきことじゃない。これはあの子のための言葉だ。好意を向けている人が、自分のことを幽霊か何かのように無視しているんだから。

 午前中の数時間ですら酷く気が病む。

 これがあの子の興味が薄れるまで、ギャルちゃんが醜い願望を成就させるまで続くと考えると背筋がゾッとする。

 そんな晴れることのない澱んだ気持ちを携えたままぼうっと外を見てると、四限終了のチャイムが鳴った。

 ああ、これから先には意識的に、朝と違って本当にあの子の好意を袖にしなきゃならない。早く教室を出て落ち着ける場所に行こう。出来るだけ一人で居られる場所に。


「ありがとうございました」


 礼が終わると教室は喧騒に包まれる。

 ある人は購買に行くし、ある人はお弁当を取り出して友達の席に行くし、ある人は買ってきた菓子パンを片手にスマホを弄ってる。そこには当然、おしゃべりが生じるし、自由な意思による行動が生まれる。

 だから僕は一刻も早く教室を出る。

 あの子の顔を見る前に、ギャルちゃんの欲望を見る前に。

 スマホを胸ポケットに仕舞って、席を立って、音を立てずにてくてくと教室を出る。廊下もまた賑やかだ。秋の日差しの中でいろんな人がいろんな話をして、いろんなことをしてる。普段から目立ってる人は相応の言動をとってるし、黙々と歩いている人も居る。もちろん、僕は後者の人間だ。風景に溶け込むように動くつまらない人間でしかない。

 けれど、それで良い。

 誰にも見つからないパッとしない人間っていう印象の方が目立たなくて良いんだから。

 黙々と、目的地をぽつぽつと考えながら人の流れに乗る。

 果たして僕はどこに行きたいんだろう?

 校舎の中に独りに成れる場所なんてあるんだろうか?

 この喧騒はどこまでも続くんじゃないんだろうか?

 そしたら僕はどこに行けばいい?

 多分、あの子は僕が普段から中庭のベンチに座ってることを知ってる。そうなるとあの子は昨日のことを謝りに中庭に来るだろう。目を潤ませて、頬を赤らめて、自分に対する幾らかの失望抱えながら、甘酸っぱい態度と澱みなき双眸で僕の前にやってくるだろう。 

 ああ、残念なことに僕はそれに耐えられない。好意に満ち満ちた姿勢は僕を苦悩させるだけなんだ。


「おっ」


「あっ」


 内面の不安のために放縦と現実に関与していれば、他の人に害を与えてしまう。

 当然だ。

 目の前が見えていないんだから。


「ごめんなさい」


 ぶつかってしまった女の子は僕よりもわずかに背が高い。ほんの小指の第一関節くらい高い。けど、見た目の威圧感とスタイルのせいでもっと背が高いように見える。


「……」


 あと、無言でこちらを睨むように見てくることも影響してるのかもしれない。

 黒毛のウルフ、右耳のピアス、藍色の瞳に切れ目、そして僕よりもふくよかな身体。一般的に見れば痩せてる。と言ってもスタイルが良いっていう言葉で片づけられる程度の肉付きだ。

 威圧的な感情だ。

 もっとも、この人に迷惑をかけたのは僕だからそういう感情を向けられるのは仕方がない。


「意外なこともあるんだ」


 ぽつりと呟いたその人は白い歯を見せるように口角を上げる。


「意外って何がですか?」


「敬語は良いよ。同級生なんだから」


「どうして同級生って知ってるのさ」


「有名人でしょ」


「そんなに?」


「結構ね」


「悪い気はしないね。でも、照れるよ」


 自分で有名人って名乗るのは恥ずかしくない。だって、称号に値するだけの容姿を持ってるって自認しているから。

 けど、他人から直接そう言われると照れてしまう。自分の価値観を覗き込まれているようでくすぐったい。なるほど、ミサカさんもこんな気分だったのか。いや、高慢な人のことだからそんなこと気にしてないか。


「意外と心に来るもんだね」


「何が?」


「単純な話だよ。光が自分のことを見失ったら何も見えなくなるだろ。暗い場所は怖いし、一人じゃとてもいられない。辛いことだよ」


 この人は何を言ってるんだろう?

 耳触りの良いハスキーボイスで詩的なことを呟いてるんだ? もしかして青臭くて恥ずかしい精神的な病を患っているのかも。見た目に反して意外と可愛らしいところがあるんだな。いや、偏見か。


「ポエミ―だね」


「自分で言ってても思った。結構恥ずかしいよ」


「言わなきゃいいのに」


「言ってみたら伝わるかもしれない。無言を貫いてしかめ面で見つめてるよりかはさ」


「それじゃ僕に何かを伝えたいってことか」


「うん。でも、ここじゃそれも伝えられないかな。雑然としすぎてる。ミサヲに伝えたいことはかなり繊細だからさ。もう少し静かで、二人だけになれる場所で伝えたいな」


 いきなり名前で呼んできた。

 人懐っこい部類の人なんだろうか? 

 人の悪意とかを全く考えずに手を差しだす善人なんだろうか?

 もしもそういう部類の人だったら、残念ながら僕はその手を取ることができない。根っからのお人好しはあまりにも人に干渉しすぎる。それはあの子のように好意を抱いてくる可能性を孕んでいる。もう不安の種をこれ以上増やしたくない。この願望に従うのなら、今までよりもより強く拒絶して、少しでも疑いがある時点で付き合うのは止した方が賢明だ。

 なら、この誘いは断ってしまおう。

 きっと、どうでも良いことだろうし。

 いや、そう願っているんだ。歯牙にもかけない些細なことだろうと決めつけて逃げ出そうとしているだけなんだ。人の好意を袖にして自分だけ安心を得ようとしているだけなんだ。


「まっ、そういうことだから一緒に行こ。四階の、それこそ屋上に出る場所だったら誰もいないだろうし」


「えっ?」


「拒否権は無いよ。ぶつかってきたのはそっちなんだからさ」


 ニヤリと猫のように笑う名前も知らないその人は、僕の右手首をがっしりと掴む。力強くてとても振りきれそうにない。それに軽い僕の体はこの人の引っ張る力に耐えられるわけがない。風前の灯火っていうのは僕の体にうってつけの言葉だ。いや、この場合は木偶の棒って言った方が、もしくは風に流される葦っていうべきか。

 ともかく、物理的な力に耐えられない僕は、またよく分からない人との関わりたくもない交流を強制される。周囲の視線が痛々しくて仕方がない。

 ああ、どうかあの子に見られていませんように。




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