第十八話

 体は不思議なことにすぐに眠ってくれた。おかげさまで身体的な疲労はすっかり回復して、体は随分と軽い。

 でも、心は酷く重い。

 好転している訳がない現実が辛くて仕方がない。自分から動かない限り解決しない自分の周りの問題が怖くて仕方がない。そして、今日という日が来てしまったことが憎くて仕方がない。それに体がすこぶる元気なのも憎たらしい。体が不調を訴えてくれれば、少なからず一日の猶予は出来たはずなんだ。それを不意にするなんて、僕の体は空気を読んでくれない。

 ああ、なんて馬鹿らしい。

 こんなことを考えてないで現実を見よう。

 空は青い。太陽も白い。雲はちらほら。風はそよそよと。気温は高め。

 初秋だ。不快な暑さじゃない。

 教室には僕以外誰も居ない。普段よりも二十分くらい早く出たんだから当然だ。もっとも、足が酷く重いから早めに出ただけだから殊勝な心意気じゃないんだけど。もっとも、僕の体は心の息苦しさに構わず、てくてくと普段と同じ足取りで歩いてくれた。どうやら僕の体は驚くほど鈍感ならしい。これが憎い。とてつもなく憎い。


「はあ……」


 自分を憎んだところで何も生まれないし、充足された環境が整うわけでもない。溜息を吐いたってニスが塗られた天板が曇るだけだ。もっとも、停滞しているのは気が楽だからまだいい。結果が決まることよりもよっぽど気が楽だ。


「あれ、フルタさん? 今日は随分と早いんだね」


 だから停滞を邪魔されると少しだけ困る。

 ガラッと扉を開けて教室に入ってきたあの子の友達のギャルちゃんは、自分の机にリュックを置く。そして机に腰かけて、僕にカラッとした爽やかな微笑を向ける。スカートが短くて太ももが大胆に露わになっていることを言った方が良いのかな?

 いや、そんなのは言わなくていい。


「……うん」


「元気ないねー」


「まあ、いつもこんな感じだよ。血圧低いし」


「そっか。それなら仕方ないか」


 朝から元気なギャルちゃんは、興味なさそうな表情をしたかと思えばニヤニヤとまるで愛玩動物を見るかのような表情を見せる。気分屋の猫みたいな調子でコロコロと表情を変えながら、上辺だけの辛い会話を繋げる。いや、辛いと思っているのは僕だけだと思う。じゃなかったら、ギャルちゃんはこんな表情を変えないはずだ。反証に僕は仏頂面だし。

 もっとも、空気が気まずくならないように努めてくれているギャルちゃんにこんな表情を向けるのは失礼が過ぎる。せめて柔和な表情くらい浮かべなきゃ。


「止めなよ。せっかく顔が良いのに、そんな不気味な表情されちゃ人が逃げちゃうよ」


 ただ、得意なはずの作り笑顔は不快感を示すギャルちゃんの表情によって看破された。


「意外って顔だねー」


 不機嫌な表情の印象が残らないくらい意地の悪い笑みをギャルちゃんは向けてくる。


「人って見かけによらないんだよ」


「別に偏見なんて……」


「知ってるよ。けど、そう理解していたとしても人って勘違いするもんなんだよ。だから初めに断っておくことが大切なんだ。つまり自己紹介ってやつだね」


「フルタミサヲ、十五歳、十二月十二日生まれ。趣味は特にないかな? 強いて言うなら音楽鑑賞?」


 してほしそうな視線を送られたから自己紹介をしてみた。

 ただ、多分、ギャルちゃんが望んでた自己紹介じゃない。目の前でゲラゲラとお腹を抱えて笑われているんだから違いない。


「へ、変なの」


「酷いな。言われた通りに自己紹介しただけなのに」


「そうだとしてもその自己紹介は無いよ。シンプルすぎ。可愛くないよ。もっと愛嬌を込めてさ」


 ケラケラ笑って僕を馬鹿にしてくる。

 不服と思うけれど、仕方がない。僕だって顔見知りが急に淡々とした自己紹介を始めたら馬鹿にすると思う。だからこれは仕方がない。


「そんなに淡白かな?」


「うん、とっても淡白」


 ギャルちゃんは机から腰を上げると、こちらに向かってくる。そして、悪寒を覚える意地の悪い笑みを浮かべながら僕の真正面に立つ。綺麗な肌、柔らかそうな唇、胸もおっきいし、足も健康的だ。きっとこの子は男子にモテるんだろう。愛想も良いし。

 一方で僕は到底モテる体をしてない。顔は良いし、身長もあるけど、その他の女性らしい部分は全部貧しい。

 なんだか悔しいな。

 うーん、なるほどこれが嫉妬か。

 こんな感情、初めて抱いたな。女性らしい肉体を羨むなんて本当に初めてだ。どうしてこんな感情を抱いたんだろ? ギャルちゃんには助けてもらったけど、ギャルちゃん自体に興味なんて無いし、興味を持つつもりもない。それなのに僕はギャルちゃんを中心にして情動を覚えてる。

 まあ、良いや。

 考えてもわかんないことを考えたところで、どうしようもない理屈が産まれて不安をいたずらに増やすだけだ。見えるわけがない未来についての不安を積み重ねことは悪手だ。大体にして僕の脆弱な精神が持つわけがない。だから、このことについては目を瞑ろう。


「でも、淡白だとしても綺麗だから問題ないよ。愛想をよくする必要もないし。それで他人は勝手に納得してくれるしさ」


「……何が言いたいの?」


 上から僕の顔を覗きこんでくるギャルちゃんは、口角を悪魔みたいに上げていた。


「昨日のこと。ミカに説明しなよ。逃げても良いけどさ」


「逃げないよ。多分、うん、逃げないと思う」


「曖昧な人だね。どうしてミカはこんな変な人を好きになったんだろ。私にすればよかったのに。愛想も良いし、可愛いし、体も申し分ないしね」


 口元は笑っているのに目の奥にはいつか見た光と同じものが宿っている。

 ああ、どうか勘違いでありますように。

 ああ、これが間違いでありますように。


「……なんて言えば良いの?」


 そして、僕の問いかけがギャルちゃんの機嫌を損ねませんように。


「正しいことを言えば、いや、フルタさんが思ってることをそのままミカに伝えればいいと思うよ。あるいは言わずに態度で示すか。もっとも、後者の場合、ミカは傷つくだろうけどね」


「君はそれを望んで?」


「フルタさんが後者の選択をしてくれるなら私としては嬉しいかな。痛みから産まれる愛もあるしさ」


「そっか。ありがとう」


「どういたしまして。それじゃ、よろしくね」


「……うん」


 用事を終えたギャルちゃんは得意げな顔で、女としての表情で、最も忌まわしい光を目の奥に隠して自分の席に戻った。それから何もなかったかのように平然とスマホを弄り始めた。

 どうして、印象はこんなにもすぐ変わってしまうんだ。親切で僕のことを思いやってくれていた、いや、あの子を思いやっていた美しいギャルちゃんは記憶の澱みに消え去ってしまった。

 醜い。

 人はどうしてこんなにも醜いんだ?

 でも、それがきっと本来あるべき人間なんだろう。だからこれは僕が間違ってるんだ。欲しいものを貪欲に望むことは無ければならない欲求なんだ。

 けど、醜悪だ。

 人間の最も醜い習性だ。それでもそれが常識だというなら耐えよう。せめて僕にその刃が向かないように努めよう。



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