第十七話
楽しい時間はあっという間に過ぎる。そして、過ぎてしまえば思い出となって記憶に含蓄される。それがきっと人生を豊かにしてくれるものの正体で、個々人の王国を建設するための素材なんだと思う。
でも、何かを得るためには何かを犠牲にしなきゃいけない。世間一般にとってそれは時間なんだ。なんにでも使える貴い時間を犠牲にして、人と遊んで、ほんの一瞬の思い出を作る。時々それを思い出して感慨に浸るとか、あるいは遊んだ人と再会した時の話の種にする。そうして時間の消費と思い出の生産のローテーションを回し続けて、その経験から人は自分の王国を獲得した知性、理性によって織っていくんだろう。
もっとも、こんなのが真理だとは言わない。というよりも、人間の真理なんて何一つ見つかってないんだろうと思う。見つかったって言っている人が居たとしたらその人はほら吹きだ。何か一つでも人間に極致的な基準があったら人は苦労しないはずだ。だって、ありとあらゆることに何らかの基準があるってことの反証になるんだから。そうすれば人は紀元前からその人間的な基準を求めたはずだ。
でも、自然科学の基準は見つかっても人間の基準は見つかってない。カントだってマルクスだってヴェーバーだって最終的に見つけたのは、真理に至るための階段の一段に過ぎない。だから真理なんて見つかってない、というか真理なんて無いんだ。個々人の心理の内に個々の基準があってそれによって人は動いているんだ。
それだから僕は僕の基準にしたがってベッドの上で悶絶してるんだ。
悶える羞恥による熱と鮮明な記憶にうなされて、僕は日課をおろそかにして注意散漫になっている。普段だったら考えないようなろくでもないことを考えて、しでかしてしまった現実から逃げようとしているんだ。
自分でもどうしてこんなことになっているのか分からない。冷静な自分と熱狂的な自分が分離している状況がつかめない。
もちろん、原因が分からないわけがない。そんなものは初めから決まっている。あんなに恥ずかしいやり取りをしたのが、矮小で傷まみれのちっぽけな精神をズタズタにしたんだ。だからこんなに混乱した状態になってるんだ。
でも、解決策が分からない。
赤熱した心身を冷ます術が全く分からない。
どうすればこの混乱を元の状態に戻すことができるんだ?
「分からない」
呟いたって仕方がない。
僕以外誰も居ない孤独な部屋に言葉は消え失せるだけだ。本当だったら誰かが居たかもしれないこの部屋に、悩まし気な問いかけに答えてくれる人はいない。連絡が取れる人の中にも居ない。というよりも僕は家族以外に自分の本心を満足に話せる人が居ない。
寂しい事実だ。
けれど、これは僕が望んだ現状だ。自分の意志で、自分の理性で選んだ全てがこの部屋にあるさっぱりとした孤独だ。だから僕が現在に不平を言う資格はない。そのことは分かっている。けれど、寂しいし、誰かにこのことを相談したい。でも、それは誰でも良いわけじゃない。心の底から信用できる人に限定される。
我が儘だ。驚くほど我が儘だ。
ああ、こんなことになるんだったら他人に干渉しなければ良かった。中途半端な介入なんか止めて自分のプライドをかなぐり捨て、すべてを一新するような覚悟をもってしてミサカさんに話しかければよかった。
咄嗟の決断は大抵の場合、信念が籠ってなくて発作的なもので失敗するみたいだ。きっと、おおよそ、これは全部に当てはまることだと思う。そして舌の根が乾かないうちにまた同じことをして、同じような後悔をする気がする。また混乱を生じさせて自分を苦しめるような気がする。前途多難だ。
見えるわけがない未来に恐れるのはきっと馬鹿らしいことなんだろう。でも、人はそういうことを恐れて、警戒の下、色々な準備をするんだ。そして、恐れが幻想のものだと知った時、これを解除して手を取り合おうと近づくんだ。
ただ、果たしてそれで本当に良好な関係は築けるんだろうか?
多分、答えは無理だ。一度、警戒された人を何も知らずに愛していた時のように接するのは本能が拒絶すると思う。蔑ろにされたという事実を無視して、無垢なままその人を愛するなんて聖人じゃない限り不可能だ。
それはあの子の勇気を蔑ろにした僕もまた然りだ。
明日、あの子から白い眼を向けられても僕は仕方がない。
ああ、違う。
なるほど、僕は既に間違えていたんだ。いや、既にじゃなくて、それ以前にだ。
でも、あの子を信じよう。きっと、あの子は僕に悪意を向けてこない。あの子は僕のことが好きなんだから。好きな子を自分の地位を使って貶めるような真似をするはずがない。それ以前にあの子は清純だ。清らかな人だ。だから、そう……。
「珍しく考えごと?」
「あ、おかえり」
「ただいま」
時間経過とともに増えていく不安は、淡い苦悩を塗りつぶしてしまった。
残るのは不安に対する悩み事。
知られたくない悩み事だ。
でも、そんなことを知らずにお母さんは枕元に腰を掛ける。
「私はいつでも味方よ。だから、耐え切れなかったら遠慮せず相談して」
お母さんはしばらく黙って僕の目を見つめると、少し汗ばんだ僕の額を撫でる。そして包み込む様に慈愛に満ちた言葉をささやいてくれる。おおよそ聖母の抱擁よりも、本気で自分のことを愛してくれる人の一言の方がよっぽど暖かいはずだ。
「分かったよ」
「そう、それなら良いわ。それじゃ、うら若き乙女、その辛い苦悩を耐え忍び、その先にある美しい果実を得なさんな」
「浮ついてるね。酔ってる?」
「自分に酔ってるかもね」
お母さんは立ち上がって、背伸びをするとケラケラと笑う。僕の好きな笑い声だ。
「それじゃ、おやすみなさい。ミサヲ」
「おやすみなさい」
たった一つの声音は僕の心を随分と落ち着かせてくれた。
信頼と愛情。
それがどれだけ力になるか、そしてこれをどうやって紡ぐことができるか。きっと、これには美しくて清らかな心が必要になる。打算なく、純なる気持ちで接するということ自体がそれを紡ぎ出すんだ。
けど、二つは容易に汚され、壊されてしまう。凄く繊細で扱いにくい。だから慎重に扱わなきゃいけない。そして、もしも扱うことができなかったら修繕に努めなきゃいけない。それを失うことを恐れているのならなおさら。
じゃあ、僕が明日すべきことは?
ああ、でも、それじゃ駄目だ。
それはあまりにも打算的すぎる。あまりにも僕個人の利益を考えすぎている。利己的で独善的だ。
なら、どうすべき?
簡単だ。
初志貫徹の態度をあの子の前で保てばいいんだ。そうしてあの子の愛が失われるまで、あの子に示した態度が、僕があの子に示す態度のすべてだと、あの子に理解されるまで続ければ良いだけだ。こうすれば僕は安寧を得られるはずだ。間違いであったとしても、そうするべきだ。傷つかないためには必要最低限の干渉を保つべきなんだから。
けれど、愛は憎悪を呼び起こす。
そして、不安を募らせる原因となる。
果たして僕は耐えられるだろうか? 人の愛を意識的に蔑ろにすることの罪悪感、その後やってくるかもしれないあの絶望、そして仮定によって吐き出される日々の瘴気、そういった内的な悪意を押し殺すことができるのか?
分からない。
分かる訳がない。
でも、僕だけの王国を作るためには、残骸が融解してひと固まりになった今、こういう態度を保ってなきゃいけない気がする。そうすることによってのみ、お母さんのさっき言った美しい果実、つまり僕だけの王国が再び建設されるような気がする。
ただ、これもまた仮定だ。
だけど、僕自身がそう言っているんだから僕のことを信じよう。僕は僕だ。
悩みが尽きることは無い。
不安が尽きることもまた然りだ。
だから、今は寝よう。
酷使して疲れ切った脳と体を癒そう。
ああ、でも、たった一つ、明日から始まる日々への希望を信じれば僕は少しでも救われるのかもしれない。淡くて、切なくて、貴くて、恥ずかしくて、意地らしいミサカさんとの関係は僕の心を安らかにしてくれるのかもしれない。
一握の仮定された希望が与えてくれる温もりと、心身に蓄積された一日分の疲労に身を任せる。リモコンを取って照明を落とす。そして瞼をそっと閉じる。
ああ、暗闇は底知れない安寧を与えてくれる。
全世界が、僕の認知できる世界の全てが真っ暗であったらどんなに僕の心は楽になるんだろう。
夢も希望もないこと想像は眠気を煽る。
とにもかくにも眠りに就こう。
そうすれば明日が来る。否が応でも明日は来るんだから。
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