第十六話

 女子にしては背の高い部類に入るはずのミサカさんの背中は小さい印象を受ける。華奢な体躯のせいだろうと思う。でも、芯が真っすぐと突き刺さってて背筋は凛と伸びているから、その小ささは弱さというよりも可憐さを引き立たせている。

 茜色と瑠璃色が整然と区切られている空の下、僕はミサカさんのそんな背中に見惚れて、まじまじと見てしまう。背中如きかもしれないけれど、そういった部分にこそ人は魅力を感じるんだと思う。

 ただ、ミサカさんは自分の一歩後ろで歩く僕が気に食わないらしく、足をパタッと止めて振り返ってくる。怜悧な無表情と不満を訴え変えてくる感情的な眼差しの相違が何とも可愛らしい。


「一緒に帰るっていうのは付き従うってことじゃないんだけれど」


「ごめん。ほら、他の人に見られると噂になるかもしれないじゃん」


「気遣い?」


「婆臭い気遣いだね」


「そう。ありがとう。でも、気遣いなんて不要よ。というより昇降口であんなことしてたんだから、いまさらだと思うんだけど」


 確かにミサカさんの言う通り、少なからず人のいる場所であんなことをやったんだ。

 そう、やってしまったんだ。


「やっちゃったね」


 明日への不安と、忘れまいと思っていたはずのあの子への罪悪感が一気に蘇ってくる。

 やっぱり、あの時、僕は決して二重の罰を孤独の中で受けなきゃならなかったんだ。ミサカさんに甘えて、縋って、一瞬の安楽を得るべきじゃなかったんだ。


「後悔することじゃないわ」


「どうして?」


 僕の気持ちを分かっているはずなのに、ミサカさんは外れたことを言う。それになぜか僕は苛立つ。寄り添ってくれているのにもかかわらず。

 けれど、こんな醜い内面を見られるのは嫌だ。いや、今日はずっと見透かされているからきっと僕の醜い感情も見破っているんだろう。ただ、この掌の上でずっと転がされているような感覚はイライラする。それと、このことにミサカさんが得意げになっていることが癪に障る。


「今日一日で随分と貴女の感情を見れたような気がするわ」


 ミサカさんはきっと僕が感情的になっていることをやっぱり見透かしている。だから、クスクスと僕をからかうような笑い声をわざとらしく漏らしているんだ。

 駄目だ。

 これ以上、ミサカさんに、いや他人に感情を知られてはいけない。これは僕が自分で解決すべきものだ。自分の手で解決しないと、好意に気付かれながらもそれを無視されたあの子に会わせる顔がない。探られちゃ駄目だ。これ以上、醜い感情を見られちゃいけない。遅かったとしても隠さないと。

 でも、きっと、優しいミサカさんは無意識に助け船を出してくれる。

 ああ、けれど、先を見越してそれは拒絶しないと。僕の問題は僕が解決するんだから。

 平静を一瞬で失った人間が突発的に行ってしまう行動は、単調でその行為に含まれている感情なんて目の良い人であれば容易に汲み取れてしまう。このことを知っているはずなのに、僕は単調的な行動に出てしまう。僕はただの人なんだから。


「どうしてまた顔を伏せてうなだれるの?」


「それも分かってるんでしょ?」


「ええ、分かってるわ。だから聞いてるの。貴女の口から直接聞きたいのよ」


「いじわる」


 プイッと、子供っぽく、昔の自分みたいにミサカさんから顔をそむけてしまう。

 するとミサカさんはやっぱりわざとらしくクスクス笑う。薄暗い街の中に消えていく笑い声は、頭に浮かぶ嗜虐的なミサカさんの像を具体的に彩る。

 ただ、脳裏に出来上がったミサカさんは、僕の想像でしかない。記憶と経験の集合でしか無くて、未来の表情や行動を写してくれることは無い。

 だから、頭を優しく抱かれることなんて想像がつくわけがない。


「いじわるしてるのよ」


 僕には無いふくよかな胸と温もりと金木犀の香りに包み込まれるだけでも鼓動が早くなる。なのに、ミサカさんは僕を殺すように耳元で熱い吐息混じりに囁いてくる。

 心地良いけれど、くすぐったくて体が燃えるほど恥ずかしい。

 それに捨てたはずの他人の体温の感覚が帰ってくるのが恐ろしい。


「ちょっと」


「ふふ、そんなに驚くこと? 耳元でささやかれるってそんなに戸惑うことかしら?」


 離れようと腕に力を込めてミサカさんの体を突き放そうとするけれど、抵抗よりも遥かに強い力で僕の頭は抱きしめられる。むしろ、抵抗するたびに抱きしめる力は強まっているような気がする。僕の方が身長も高くて、カッコいいのに……。

 外はまだほのかに夏が残っていて蒸し暑い。それは黄昏時でも残っている。

 けれど、どういう訳かミサカさんの体温は不快にならない。いつまでもこの体温の中に居たいと思える。

 でも、駄目だ。

 人に甘えて、人に期待しちゃ駄目だ。

 この温もりだっていつかは無くなる。暑くて鬱陶しいものに成り下がる時が来る。ある好意的な感情なんて永遠に続くわけがない。断絶したら傷つくんだ。ことさら、それが僕の意思から外れた思惑によって断たれたとき、傷跡は深く深く残り続ける。

 もう、そんな思いはしたく無い。

 人の体温、声音、感情、一時的に乱高下するものに触れたくなんて無い。家族から与えてもらったそれだけで僕は満足なんだ。充足してるはずだ。

 なのに、どうして僕はこのミサカさんの体温と匂いをもっと求めようとしているんだ?


「……止めてよ」


「それで止めると思う?」


「やっぱりサディストだよ」


「貴女が良い反応を見せてくれるんだから仕方がないでしょ」


「……」


 嗜虐的なのに妙に優しい手つきで髪をすいてくる。

 まるで壊れ物を触れるかのように。

 きっとこれは好意だ。

 拒絶しなきゃ。

 受け入れるわけにはいかない。

 でも、体は動かない。肉体の輪郭が曖昧になって体が動く自然の仕組みを忘れた様に、僕の体は、僕の意志に従って動くことを拒絶している。こんなのミサカさんの存在をずっと感じていたいと言っているのと変わらない。

 ああ、いつか捨てたはずの、いたずらに人を傷つけるだけの感情が蘇ってしまったんだ。

 また、僕は傷つかなきゃならない?

 嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。誰も助けてくれない地獄のような日常なんてまっぴらごめんだ。それなら否定しないと。温もりを欲しているなんて言う邪な欲求をあの時みたいに唾棄して、自分を律しないと。そうしないと僕は再建しつつある僕だけの王国がまた破壊される。今度はきっと残骸もなく、焦土だけが残ると思う。そうなったら僕の心は完全に壊れる。二度と日常生活を送れない廃人になってしまう。そんなのは嫌だ。だから、防げるうちに防がないと。主導権が握れるうちに握ってしまって、懐かしさから抜け出さないと。


「けど、公衆の面前で長時間こんなことをやるのもはしたないから程度は弁えないとね」


 頭の中では随分と饒舌に語っていたけれど、焦りに反して体は動いてくれない。


「あっ」


 それにミサカさんがいざ離れると僕はその温もりを求める声を漏らしてしまう。

 いつから僕は得手勝手な人間になってしまったんだろう。


「随分と切ない声を漏らすのね」


「……ごめん」


 人の気持ちを弄んでいる間は愉悦に浸っているような艶やかな笑みを見せていたのに、ミサカさんは急に鋭くて冷たい人になる。だからか、僕は動揺してしまう。


「何に対する謝罪?」


「それは、その……」


「言えないほど些末なことに対する謝罪だったらしない方が良いわ。人が気にしていないことにも、一々謝っていると自分の価値を損なわせるだけよ」


 鋭い視線と感情の籠ったミサカさんの言葉は、ただ一心に僕を捉えていた。

 僕はそれが怖い。ただでさえ臆病な精神は縮こまって何も言えなくなる。そして、真っすぐと僕を見つめる美しい翡翠色の双眸から、擦り減って滑らかになったアスファルトに目を向けてしまう。

 どうか見ないで欲しい。

 どうか触れないで欲しい。

 どうか喋らないで欲しい。

 どうか見捨てないで……。


「貴女って本当に変な人ね」


 優しくて僕に温もりを与えてくれる人は、僕の右頬を優しく撫でる。


「ミサカさんのせいだ」


「違うわ。貴女が私に関わったせいよ。もしも、貴女が興味本位で私に話しかけてこなかったらこんな一日にはならなかったはずよ。だからこれは貴女のせい。耳を赤くしているのも、声が切なくなってるのも。澱んだ瞳に光が宿っているのもね」


「違う。僕の目は死んだままだよ」


「そうかしら? 私の目にはそう映らないんだけど」


「よく見ずにそんなことが言えるね」


「私の想像って意外と現実に則してるのよ」


 頬を撫で続けていた優しい手は、顎先へと伸びる。体温と味わいたくなかった優しさにすっかり絆された力なき僕の頭はいともたやすく持ち上げられてしまう。


「やっぱり」


 にこりと微笑むミサカさんの表情は、小さいころ僕のことを慕ってくれていた女の子の表情とよく似ている。その上、玲瓏な声は懐かしい気持ちを想起させる。

 僕はまた人を信用して良いんだろうか?

 ただ数回の、ほんの数時間の、ほんの好奇心が作り上げたこの関係性を昔みたいに信頼して良いんだろうか?

 自問自答したって答えなんて分からない。巡りに巡って答えなんて無いって投げ出すのが僕の性分なんだから。それなら傷ついても良いって勇気を出して、思い切ってこの人を、ミサカさんに友愛を傾けた方が良いんじゃないか? 恐れて何もせずに縮こまっていても何も始まらないんだから。それに僕だけの王国は、こうしなきゃ出来上がらないんだ。


「貴女はこっちの方が可愛いわよ」


「変なこと言わないでよ」


「事実よ」


 僕の気を知ってか知らずか、ミサカさんは恥ずかしいことを真摯に呟く。ただでさえ熱い顔と体がさらに熱くなる。視線もぶれて仕方がない。


「ほら、そういうところも可愛いわ」


 素直な声音で言葉を紡ぐミサカさんから逃れるために、僕は髪で顔を隠す。

 やっても仕方がないと分かっていても、赤熱した体と心を鎮めるためには物理的にミサカさんを視界から外す他ない。


「本当に……」


「止めて。それ以上は言わないで。僕の羞恥心を煽るようなことをこれ以上言わないで」


 きっとミサカさんはニヤニヤと悪戯っぽく僕のことを見つめているんだろう。見えなくてもわかる。


「嫌だって言ったら?」


 ほら、見たことか。

 サディスティックで蠱惑的な声音だ。

 さっき、ミサカさんは自分の想像は現実に則しているものだって言っていたけれど、それは僕だって同じだ。豊かな僕の想像力だって現実と同じことを想起したんだから。

 ただ、だからどうしたって話なんだけど。

 でも、そんな些細な共通項が嬉しい。

 きっと、ミサカさんも僕と同じ……。

 いや、これ以上の期待は止めておこう。


「本気で打つ」


「いきなり暴力的になったわね」


 冗談として僕の言葉を受け取ったミサカさんは一歩退いてクスクスと笑う。平然としているのが釈然としない。

 けれど、どうだって良い。


「嘘だよ」


「でしょうね」


 この瞬間が楽しいんだから。



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