第十五話

 ロッカーに背中を預けて、腕を組んで大儀そうにミサカさんはあくびをする。そして、まどろむような微笑を向けてくる。蠱惑的な微笑は僕の意識をことごとく奪う。そのせいで僕の体温はどんどん上昇する。馬鹿みたいに、留まるところを知らないみたいに。

 多分、青みがかった夕陽の色じゃ、誤魔化しきれないほど僕の顔は赤くなってるだろうと思う。

 昨日までなんて事の無い有名人だった人が、今では僕の感情を侵食している。クラスの噂話でしか知らなかった人はいま僕の世界の中心に居座っている。家族以外排除したはずのさっぱりとした世界の中に、ミサカさんは温もりを纏って僕に微笑みかけてくれている。今までの僕の了承を得ずに僕の世界に入り込んできて、勝手に冷たい侮蔑を向けてきた人とこれは違う。でも、それが嬉しいはずなのにとても息苦しい。


「どうして?」


「偶然よ。ほんの偶然」


 驚く僕の顔を見つめるミサカさんは小悪魔的に笑う。

 あの子の好意から逃れた罰を受けよう思ってた心は解される。僕は孤独でなければならない。暗い場所で自省して、なおかつあの子が被るだろう失望に値する痛みを受けなければならない。これこそがいまの僕に与えられた役割だ。

 でも、どうして、神様は僕にその役割すら真っ当させてくれないんだ?

 いるわけがない神様を恨んで、現実ではミサカさんは目を逸らす。

 お昼のときみたいな初心な照れが動機の行動だったらどんなに良かっただろうか。僕がしているのは失礼な現実逃避だ。たまたま通りかかった顔見知りの好意を袖にして、自分の感情を優先させているなんて見苦しくて腹立たしい。土と埃が薄っすらと敷かれた灰色のタイルと薄汚れたスニーカーと綺麗なローファーが視界を占めるのが悔しい。自分の性分が酷く嘆かわしい。


「でも、いまは違うのかもしれないわね」


「……どうしてわかるの?」


「雰囲気よ。いまの貴女は酷く怯えてるもの。そんな人に会話を振ってもいたずらに傷つけてしまうわ。こっちにそんな意思が無くてもね」


「すごいね、ミサカさんは」


「ええ、すごいわよ」


 発言が現実に伴っているんだからミサカさんは本当にすごい。一瞬で人の感情を読み取って、僕が傷つかない対応をしてくれる。こんな優しい人だなんて失礼だけど思いもしなかった。

 でも、それならどうしてミサカさんはマッシュ君にはあんな冷たい態度を取ったんだろう?

 すらすらと人の感情を読み取れるんだったら、マシな態度だってとれたはずだ。いたずらに感情を逆撫でしないで、告白を上手く拒絶して丸め込むことだってできたはず。でも、ミサカさんはそういった丁寧な応対をしなかった。乱雑で感情的な褒められたやり方をせずに、模範解答から思いっきり外れた対応をして見せた。

 それはいったいどうして?


「でも、そんなに賢くて、聡いのにどうしてお昼はあんな応対をしたの?」


 王国が滅びて以来、ほとんど初めて僕は興味本位の質問をした。これは理性じゃなくて本能から湧き上がってくる知的好奇心のせいだ。言った後でより顔を上げづらくなって、より自分を辱めることになるって分かっていたはずなのに。


「貴女が私にとって幾分かマシな人間になったからよ」


「マシな人間って具体的には?」


 それなのに、恥ずべき僕の知的好奇心は節操なく働き続ける。


「具体的に?」


「うん」


 目を合わせないのにもかかわらず、一方的に知識を要求してくる僕の態度にミサカさんは口籠る。恥ずかしさもあるんだろうと思う。たった二日の付き合いでしかないけれど、ミサカさんは本音を喋るのが恥ずかしいタイプの性格だ。それだから戸惑っているんだ。

 原因がわかっているけれど、僕は間を持たせるような気が利いた言葉を紡げない。僕だって戸惑っているんだ。言い訳に過ぎないけれど、でも、これは事実だ。

 恥ずかしさを紛らわすために、ミサカさんは珍しく咳払いをする。きっと顔は赤くなっているんだろう。それが見れないのは少し残念。


「認めたってことよ」


 早口になって、声が小さくなって、凛々しい普段の姿からかけ離れた調子でミサカさんは答えてくれた。性分に合わないのに、ミサカさんは本当に優しい。


「……ありがとう」


「貴女が勝ち取った信頼よ。私に感謝する必要なんて無いわよ。それに私個人から得た信頼なんてなんの実用性も無いわ」


「ミサカさんがそう思ってるとしても僕は嬉しいよ。こんなに恥ずかしいことを素直に言ってくれる人なんて今まで居なかったしさ。だから受け取ってよ」


「恥ずかしいって分かっているなら、わざわざ言わせないでよ」


 きっと赤らんだ顔で僕のことをキツく睨みつけているんだろう。

 でも、僕が今まで避けてきたそんな視線も、ミサカさんのなら楽しいと思える。拒絶していた戯れの温もりが蘇ってくる。

 いつかどこかで捨てたパトスが再び灯る。それは崩れ去った王国の残骸を暖かく照らして、融解させる。砕け散ったかつての暖かさは再び一つにまとまって、王国の概形を造り出そうと単細胞生物の生殖のようにうごめく。黒とも白とも極彩色とも分からない未知の王国は再び築かれようと心の中で奮起する。

 けれど、それはそれで、罰は受けるべきだ。

 人一人を不幸にさせたんだから。

 なら、喜んで自分に嫌悪の鞭を打とう。進んで四肢に恥辱の釘を打ち付けよう。孤独な牢屋で碌々としている自分の罪を見つめよう。それがすべきことなんだ。


「それはごめんね」


「やっぱり物分かりが良いのね」


 羞恥の熱から解放されたミサカさんは、柔らかな吐息を共に心地よい声音で言葉を紡いだ。


「それくらいしか僕の長所は無いからさ。いや、今は違うね。ミサカさんに認められたっていう長所がある。数えれば二つの少ない長所だけど、なんだか誇らしいよ」


「喜んでもらえて光栄よ」


「それはどうも」


「それじゃ、一緒に帰りましょ。どうせ途中まで一緒なんだし」


「え?」


 一緒に帰る?

 違う。

 ミサカさん、さっきミサカさんは自分の口で「いまは違う」って言ったはず。なのにどうして過去の自分を反故にしちゃうんだ? 僕の感情を汲み取ったんだから、いま言うべき言葉は「また、明日」のはずだろう。訳が分からない。

 不可解によって生じた動揺は伝播する。それは脈絡のない行動を起こさせる。


「やっと顔を上げてくれた」


「どうして?」


 突発的に、余裕のない表情で僕は顔を上げてしまった。

 ミサカさんは僕の行動をすべて予期しているみたいに、両頬を手で包み込んでくる。暖かくて、心地よい人の体温が血の引いた僕の体に沁み込んでくる。そして、ミサカさんは慈しむ笑みを向けてくる。それは慈雨の様に僕を潤す。


「人を観察していれば、人の性分なんておおよそ見当がつくものよ。特に貴女や私みたいな人の性分なんて手に取るようにわかるわ。奇怪な行動しかしないんですもの」


 僕だけの王国が崩壊していたことやそれが一つにまとまって能動的な運動にいそしんでいることや、惨めで見るに堪えない恥ずかしいばかりの僕の精神の何もかもを見通しているようかのようにミサカさんは嗜虐に言葉を紡ぐ。

 けれど、どうしてか言葉は脆い僕を傷つけない。

 本当は酷く怖いはずなのに、本当は怒らなければいけないはずなのに、どうしてかミサカさんの慧眼から発せられる一条の光を僕は否応なく受け入れてしまう。他人に照らされることを本能的に拒絶してきたのに、その光は貫通していまの僕を成す核心を照らす。

 肌を滑るほっそりとした指は、一匹の生き物みたいに動く、古い王国からできた融解物を手に取って弄ぶ。優しく、自分が最も大切にしているものみたいに、慈しみながら温もりを注いでくれる。翡翠色の瞳の中で蠱惑的に揺れる光は、性急に正解を求める焦る心を落ち着かせる。その代わり僕はミサカさんに耽溺してしまう。温もりと柔らかさが僕を包み込む。


「他人には無関心を装って、なんでもそつなくこなす。この結果として、見た目の以外では決して目立つことのない無難で優秀な人間の完成。でも、貴女の無関心は作られた無関心。だって、本当に人に興味がない人だったら私のことなんて歯牙にもかけてないはずだし、今朝みたいに自分の話題で盛り上がる会話に憂慮する必要なんてないはずだから」


 下弦の月のようにミサカさんは口を歪ませる。


「ということは自分の意志で他人と関わらないようにしているってことが容易に分かる。でも、生まれながらの性格なんでしょうね。無関心で人を傷つけてしまった場合、あるいは無関心を貫けば対象を助けられないと判断した場合、貴女はある種の勇気を持つ。前者だったら罪悪感を、後者であれば積極的な干渉をね」


「言わないで……」


「嫌よ。だって貴女は私を辱めたでしょ。だから、これは仕返し」


 両手の親指でミサカさんはゆっくりと目元を摩ってくる。ふにふにとして柔らかい親指の腹はしっとりとしていて心地が良い。

 ただ、間隔の短い大きな心臓の鼓動が僕を傷つける

 

「でも、私が仕返しをするのは貴女だけよ。そう考えると嬉しくなってこない?」


「高慢と偏見だよ」


「オースティン?」


「違うよ。小説の題名じゃない。ミサカさんのことだよ」


「ふふ、でも良いじゃない。貴女も拒絶しないんだし」


「できないんだよ。さっき、自分で言ってたじゃん」


「知ってるわよ。けど、その解答はさっきした。堂々巡りの会話なんて続けたくないでしょ?」


 完全に僕を手玉に取ったミサカさんは、艶やかな笑みを浮かべて手を離す。

 しばらくの間触れていた感触が去るのは寂しい。

 でも、だからと言って寂しい表情を浮かべたらミサカさんは調子に乗って余計なことをしてくる。それはもっと過激で、僕の平生を乱すようなことを。

 だから、あくまでも感情の乱れが無かったかのように過ごさなきゃいけない。

 罰を受けるのはその後からでいい。


「分かったよ、一緒に帰れば良いんでしょ」


「ご名答。やっぱり物分かりが良いわね」


 誇らしげに腕を組みながらミサカさんは僕を見上げる。

 

「初めからそのつもりで?」


「いいえ、途中で気が変わったのよ」


「どうして?」


「答える必要がある?」


 柔らかな表情から一変してミサカさんは冷たく僕を睨む。と言っても、悪意や敵意が籠った表情じゃない。本音を探らないで欲しいっていう拒絶の希求だ。だから、あえて突き放すようにわざとらしい重みと冷たさを含めた声音を作ったんだと思う。

 愛おしく思えるミサカさんの表情は、僕の頬を強制的に緩ませる。

 でも、ミサカさんはそんな僕をさらにキツく睨みつけてくる。


「いや、答える必要は無いよ」


 多分、ミサカさんの口からそのうち聞けるだろうし。


「……釈然としないわね」


「それでこそミサカさんだよ」


 可愛らしいミサカさんの態度に心は温まる。暗澹とした心持は晴れて、自罰的な感情も消え失せる。もちろん、自分を罰することを忘れている訳じゃない。犯した罪に対する罰を受けるつもりはある。

 けれど、安らかな慈愛を受け取らない訳にはいかない。純白で、清らかな愛らしい人から与えられた光を消すなんて一生かけても償いきれない罪なんだから。だから、今はこうして素直じゃない高慢な人が与えてくれる温もりを受け取ろう。アジールの中で幸せなひと時を過ごそう。

 


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