第十四話

 午後の授業は普段と違って集中できなかった。

 なんてことの無い数式も簡単な定理も頭に入ってこなかったし、現代文のエッセイの読解も上手くできなかった。

 多分、昼食を摂ったせいだ。普段は食べない昼食を食べて満腹中枢が刺激されたから、いつもと違って集中できなかったんだ。いや、食べたというよりかは飲んだっていう方が正しいし、液体で十分に満たされるほど僕の満腹中枢は狂ってない。

 うん、澱んでないで原因について自覚的になろう。

 僕が集中できなかった要因は単に浮かれていたからだ。ミサカさんっていう雲の上の人が僕を特別扱いしてくれている事実に浮足立って、心が定まっていなかったから普段みたいに集中を保てなかった。これが原因で結果だ。そして、要因が分かってるからこそ僕は恥ずかしくって仕方がないんだ。

 六限が終わるころになると、自覚した恥じらいは体に染み付いた。そのせいで僕の体はすっかり教室に固着してしまった。おかげさまで昨日と同じみたいに僕は教室に取り残された。もっとも、一緒に帰ってくれる人なんて初めからいないんだけど。

 悲しきかな、僕の人生。

 いや、憐れむべき人生だ。選択をしてきたのは僕だし、それに後悔して泣くのも僕なんだから。悲しいわけじゃない。現状は憐れむべきだ。

 さて、現実逃避もここらへんでおしまいに。

 いつまでも机に突っ伏して、聞き馴染みのあるクラシックをイヤホン越しに大音量で聞いても青春の貴重な時間を無駄にするだけだ。一度しかない高校一年生の秋のある一日なんだから青い春を存分に味合わないと。

 こんなふうに意気込んでみるのは良いけれど、曖昧に生きてきた僕に待っているのは柄にもなく浮足立ってしまったことに対する罰。つまり恥じらいとその後悔だ。

 顔を上げるのが辛い。

 いや、まあ、誰も居ないんだから人の目なんて気にする必要はない。だから、一思いに顔を上げて、てくてくと一人で家に帰って、適当に悶絶しよう。そうすればこの変に苦い思いも全部消えるだろうし。

 下らない決意の下、茜色の夕陽を窓ガラス越しに浴びる。

 橙色にぼんやりと教室を染める陽は、昨日と同じような寂しさに満ちた表情を持ってる気がする。悦に浸るにはうってつけの明かりだ。

 ただ、自分の世界に閉じこもってこの綺麗な明かりが消えるのを待つのは馬鹿らしい。

 早く家に帰って、本当の自分の世界に閉じこもろう。

 昨日みたいにならないためにも。


「ミサヲちゃん。まだ帰ってなかったの?」


 けど、そういう決心を決めた時に限って運命は僕を見放す。起こって欲しくないことは大抵起こるらしい。

 僕って不運の星の下に産まれたのかな?

 自分自身の選択とそれとは関係ない運命の二重苦をぼんやりと思い浮かべる。そして、その緩やかな不幸を通して、ほんのりと頬を赤らめながら小動物みたいに見つめてくる委員長に微笑を向ける。

 作り笑いってことがばれなきゃいいけど。


「うん、眠くてね。ちょっとだけ昼寝してた」


「確かに。今日のミサヲちゃんいつもと違って集中できてなかったみたいだし」


「……よく見てるね」


 どうしてこの子は僕が集中できてないことを知ってるんだ?

 まさか、授業中この子はずっと僕のことを見てた?

 どうして?

 いや、理由なんて分かってる。この子は僕に対して何らかの特別な感情を抱いているんだ。それはミサカさんが僕に向けてくれているものとは本質的に違うものってことも分かってる。そして僕にとって心地よくないものだってことも。


「うん、だってミサヲちゃんのこと好きだもん」


 毒々しい言葉だ。

 簡単に口にしちゃいけない単語だ。


「好き?」


「好き。あっ、いや、ちが、そういう意味じゃなくてね」


 分かってる。

 この子が自分の感情に凄く正直で、心の中で考えていることをついつい口に出してしまうような子だってことはよく分かってる。そして、今さっきこの子が口にした言葉が嘘じゃないってことも。もっとも、ここまであからさまな反応をされて勘違いする方が難しいと思う。

 恥じらいに上気する顔、涙ぐむ瞳、慌ただしくて言葉を紡ごうにも紡げない忙しない口、一種の絶望を覚えて眉間に寄る皴。確固たる証拠は揃っているんだ。昨日の経験もそうだ。

 僕はカッコいい。

 これは変わることのない事実だ。いくら可愛く着飾ろうともその前提が崩れることは無い。そしてこの事実は僕の認知の外で人を惹きつけてしまう。


「分かってるよ。勘違いなんかしてないから大丈夫」


 だから、こういうわざとらしい嘘で真実を誤魔化す。少しでも僕に対するこの子の興味を冷ますために。いや、この理由は願望に過ぎない。人から向けられる意識を、しかも僕の意識から独立した感情を僕一人でどうにかできるだろうなんて考えはあさましい。だから、これはそうあって欲しいっていう僕の願望だ。

 叶うはずのない願望の言葉に当てられた可哀そうで健気な女の子は、相変わらず戸惑って慌てた様子で僕を見る。目の焦点はあってないし、身振り手振りもあわあわと落ち着きがない。

 こういう時はどうすれば良いんだろう?

 相手は冷静じゃないけど、こっちは驚くほど冷静な時、話を聞いてもらうためにはどうすれば良いんだ? 何かキザな芝居の一つでしてみれば、この子はおちついてくれるのかな?

 違う。

 変なことをやって新しい誤解を生じさせるのは悪手だ。それなら今の態度を保ったままこの子が冷静になるのを待とう。混乱に乗じて帰ってしまっても良いんだけど、それをやってしまったら僕は畜生になってしまう。純粋な真実に嘘をついているんだから今更だろうと思うけど、そんな汚れた称号を受け入れたくない。だから、静かに微笑みを慌てるこの子に注ぎながら待っていよう。


「ご、ごめん。なんか勘違いしちゃって」


 照れが収まっていないからか彼女はか細い声で呟く。今にも消えそうな照れ臭くって仕方がない声音は僕を傷つける。いや、これは自傷だ。この子のせいにしちゃいけない。


「謝らなくて良いよ。勘違いなんて誰にだってあるものなんだしさ」


「そ、そうだね」


 本当に、もし本当に僕のことを想ってくれるんだったら顔を赤らめないで欲しい。目を逸らさないで僕を見つめてほしい。もっと言うなら僕のことなんか歯牙にもかけず、ギャルちゃんと一緒に帰って欲しい。

 けど、そんな非情なことは言っちゃいけない。


「とりあえず僕はそろそろ帰るよ。学校にこれ以上いたら暗くなっちゃうしね」


 ゆえに僕は嘘を吐いた。

 偏見による拒絶は一番おぞましいんだから。

 突き放すことも許容することもできない僕は中途半端な対応しかできない。罪業がばれなければいいんだけれど。

 いや、そんな都合のいいことはない。ほら、この子は冷静に僕を見つめられるようになってる。なら、きっと、この子は僕の態度から心情を理解してくれるはず。僕の惨めな精神に共感してくれるはず。取るべき行動もわかってるはず。僕をより傷つける態度なんて取らないはず。

 だから、それだから、寂しそうな顔をしないで別々に帰ろう。それが僕らにとって一番幸せなんだから。


「ミサヲちゃん。一緒に帰らない?」


 ああ、なんて忌まわしいんだろう。

 人想う気持ちは日常に蓋をしてしまう。それはやっぱり普遍的なんだろう。

 真面目で空気も読めるはずの彼女の正気は、恥じらいによって焦がされてしまった。だから淡い赤色を纏う彼女は熱っぽい視線で見つめてくる。無意識に注がれる毒ほど僕を苦しめるものは無い。逃れる術がない上に、相手は僕に好意を抱いていて無碍に断ることも出来ない。少なくとも僕が僕である以上は出来っこない。

 期待と不安の眼差し。どうか僕に向けないで欲しい。

 僕を見ないで欲しい。

 僕に期待しないで欲しい。

 僕に情動を呼び起こさないで欲しい。

 立派な人間じゃないし、君みたいに真面目な人に見合う人でもない。

 僕は君の想いに答えられない下らない人間でしかないんだ。


「あれ、まだ居たんだ」


 ほんの一言で解決できる問題を自分の弱さで長引かせていた僕を助けてくれる人は、見知らぬ人だった。

 髪を明るく染めて、制服を着崩したその子はもじもじと一歩も踏み出せずに居る僕らにつかつかと近寄ってきた。そして、何かに絶望して顔色をすっかり青白くさせた黒髪の彼女の両肩を背後から掴んだ。意地悪でからかうような笑みを向けられる彼女は可哀そうに見える。


「第一歩ってやつ?」


「からかわないでよ」


「からかってないよ。祝福してるんだよ。だって奥手なあんたが勇気を出してるんだ。それをからかうような酷い人間じゃないってことはあんたが一番知ってるでしょ」


 こそこそと話しているけれど、二人の会話は丸聞こえだ。でも、これは僕を戸惑わせる事態から切り離してくれた。彼女と違って、たった一歩すら踏み出せない僕にとってこの孤独な時間はありがたい。

 徐々に声音が落ちて聞こえなくなる会話は、僕の孤独を強めていく。

 安心だ。

 やっぱり一人で居ることこそが僕にとっての最適解なんだろう。誰とも関わり合わず、ぽつりと一人の世界に籠ることこそが僕を保つための最もよい手段だ。

 でも、一人は寂しい。

 寂しい?

 何をいまさらそんな感情を抱く必要があるんだ?

 真面目で、誠実で、清純な彼女が向けてくれる好意にすら恐怖を抱いている僕がそんな感情を抱いていいはずがない。孤独を本当に欲しているのであれば、彼女に素っ気ない態度を取らなきゃいけない。淡白な態度を取って彼女が向けてくれる好意を徹底的に弾いて、僕に対する興味を彼女から奪わなきゃいけない。

 けれど、僕はそれが出来ない。

 勇気がないから。

 たった一つの態度を維持することすら、いじけ切った軟弱な僕の心は耐えられないから。

 これじゃ、八方塞がりだ。

 普段だったらこんなことになってない。

 少し昔の僕だったら、もっと大胆に彼女の誘いは断れた。そうやって僕は学校で一人を保ってきたんだから。

 でも、そんな経験も今となっては瓦解している。頼りにしていた孤独の経験はどういう訳か滅茶苦茶にされて抜け落ちた。誰が原因でこんなことに?

 分からない?

 いや、分かっている。

 こんな気持ちに、寂しいなんて言う捨てたはずの感情が湧き上がったのはミサカさんのせいだ。ミサカさんが無暗に近づいてきて、馴れ馴れしくしてくるから昔の感情が蘇ったんだ。全部全部ミサカさんのせいだ。

 違う。

 それじゃない。

 これはみんな僕のせいだ。

 この蘇った感情は一方的な利益を得ようとした僕への罰だ。記憶を忘れることを僕から取り上げ、居もしない神様は僕に罰を与える。それは酷くまがまがしい記憶の茨を心に強く巻きつけて、僕を痛めつけることだ。どうやら居もしない神様は相当なサディストらしい。

 でも、こんな苦しみを味わうのは僕だけで良い。無辜な彼女までもが僕の態度に傷つく必要はない。

 けれど、この望みは願いと反している。

 一体、どうすれば?


「うーん。でも、今は違うみたいだ。残念。今日は私と帰ろ」


 急に声の音量を上げたギャルちゃんは、僕にウィンクをしてきた。ギャルちゃんのそれが何を意味しているか分からない僕じゃない。

 ただ、ここでギャルちゃんに甘えて良いんだろうか。ここで解決しなきゃ、僕は一生涯このままなんじゃないんだろうか。

 でも、人の優しさを無下にするのは良くない。

 御託は良いんだ。

 今は与えられた優しさを享受して、孤独を甘やかそう。傷ついてばかりいたんだからこれくらい許されても良いはずなんだから。


「ねっ、フルタさん?」


「うん。ごめんね。ちょっと体調が悪くてさ。ホントにごめん」


 阿吽の呼吸でギャルちゃんと嘘をでっちあげると、真面目な彼女は口をO字に開ける。間抜けな表情はついさっきまで浮かべていた焦がれる乙女の表情からずっと遠くにあるように思える。本当に同じ人間が浮かべていた表情なのかと思うほどに。


「ごめんね、ミサヲちゃん。わからなくて」


「謝らなくて良いよ。悪いのは僕なんだから……」


 純粋な子を騙して自分だけを利益を得ようとするのは心苦しいし、胸は痛む。

 これは身勝手すぎる僕に対する罰だ。

 でも、これは仕方がないはずだ。きっと僕の話を聞いてくれれば、誰だって許してくれる。話しさえ聞いてくれれば、僕に話せる勇気があれば……。

 ないものねだりをしていても仕方がない。一思いに諦めて独善的な痛みを抱いていよう。それしか僕には分からないんだから。

 ギャルちゃんに一瞥して、僕は教室から飛び出す。夕焼けの茜色の光が満ち満ちる廊下は夏の空気に似て息苦しい。でも、あの子は空間的な苦しみよりもよっぽど辛い精神的な苦痛を味わっているだろうし、時間が経てばもっと苦しむはずだ。頭の良さそうなあの子のことだから。僕とギャルちゃんのやり取りがありふれた嘘だっていうことにはすぐに気付くだろう。そして、非友好的な僕の態度がどういう意味を持っているのかも冷静になれば理解するはずだ。その気付きはおおよそあの子の心に瘴気として籠って、あの子を人間の精神を殺し得る病に至らせる。痛ましくて救われる方法が時間に祈る他ない病を患った健気なあの子の未来は容易に想像がつく。だから、僕はあの子と同じ痛みを負わなきゃいけない。それが健気で初心なあの子を見限った僕が受けるべき罰なんだ。もっとも、これによってあの子が救われることなんてない。結局は独善だ。

 良かった。幸いなことに廊下には誰も居ない。

 孤独に罰を受ける環境がここにはある。もう、一心に僕が犯した罪の罰を受けよう。どう考えても僕が悪いという結末に至るついさっきの事態を何度も反芻して、僕自身を傷つけよう。二度とこんなことが起きないように戒めを心に刻もう。

 玄関にはまばらだけれど人が居るみたいだ。

 でも、僕の孤独を脅かすほどの人数じゃない。というか僕は知られても僕が知っている人はほとんど居ない。だから気にすることじゃない。

 どうでも良い。

 僕は僕以外興味ないんだ。

 一人だ。一人になろう。

 自分だけを見つめ、ロッカーからスニーカーを取り出す。それを放って、履いて、ほんのり濃紺の色が混じり始めた光を浴びようと一歩踏み出す。。


「あら、今日は遅いのね」


「……ミサカさん」


 けれど、孤独を渇望していたとしても、僕は安らかな環境に甘えてしまう。僕だけの王国を作ってくれる人の温もりを求めてしまう。それだから一大決心はことごとく消えて、学校に留まるように僕を制止させる。



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