第十三話

「待ったかしら?」


「待ってないよ。せいぜい、十分くらいしか待ってない」


「人はそれを待ったって言うのよ」


 購買で買ったパンだとか飲み物だとかが入ってる白いビニール袋を手に提げて、ミサカさんは何気なく僕の隣に腰を下ろした。肩が触れるほど近くに座っているのに、不思議と僕の防衛本能は働かない。すんなりとこの状況を受け入れることができてる。

 いつの間にか成長していた?

 自分自身の精神に小さな関心を寄せながら、傍らのミサカさんをちらりと見る。

 息がほんのりと上がって、微かに汗ばんでる。

 きっと、ミサカさんは中庭で待っている僕のために慌てて買ってきてくれたんだ。僕を待たせないただその一点のためだけに、普段から纏っている余裕綽々な調子を崩してくれたんだ。


「食べたいの?」


 僕の視線に気づいたミサカさんは安っぽいホットドッグを持ちながら首を傾げる。


「いいや、肉が食べれないから要らないよ」


「アレルギー?」


「うんうん、違うよ。ただ、なんかこう、気分的な問題だよ」


「変わってるわね」


「変わってるのかな? 意外とそういう人も居そうだけどね。ミサカさんだって食べれないものくらいあるでしょ? どうしてもこれだけは無理って食べ物」


「特にないわよ。食べ物に拘りなんて無いわ」


 翡翠色の双眸に冷たい光が微かに灯ると、ミサカさんはパクリと可愛らしい口でパンをひとかじりする。そこには何か憎悪に似たような感情が込められているように思えた。食べ物というよりかは、食べ物を通じて思い描かれる誰彼に対する憎悪が含まれているような気がする。


「まあ、僕もどっちかと言えばミサカさん寄りだね。基本的に肉が食べれないだけで、魚は食べられるし、野菜の好き嫌いもないしさ」


「貴女のそれは知ってるからでしょ?」


 パクパクと可愛らしくパンを食べながらミサカさんは、ぶっきらぼうに、あえて僕を見ないように問いかけてくる。恨めしそうに、八つ当たり染みた態度で。

 一体、ミサカさんは何に苛立っているんだ?

 もっとも、こんな当然の疑問を口に出したらまずいことになるのは誰にだってわかる。分からない人が居たとしたら、それはミサカさんくらいだと思う。だから、こんな分かり切った疑問は言わない様にしよう。


「まあね」


「知らないから拘れない人だっているのよ」


 なんて返せばついさっきみたいな明るい雰囲気が取り戻せるんだろう。

 いや、深く考えて居た堪れない沈黙を生み出すよりも、一思いに適当なことを言った方が空気は悪化しないか。


「幸か不幸かどっちだろうね」


「さあ、どっちもあり得るから分からないわ。幸福の一般解が求められることはないんだし」


「難しい問題だね。だから、そういう問題は僕らよりもずっとずっと頭の良い人に任せて今は楽しい話に花を咲かせようよ」


 小難しい問題を考える必要なんて全くない。今は楽々と伸び伸びと適当に物事を見ていった方が幸せになれるはずだ。考えたところでネガティブな回答しか導き出せないんだから。大方、笑っていた方が良いはずだ。

 努めて能天気な表情をミサカさんに向ける。

 パンを食べ終えたミサカさんは僕の顔を見るとギョッと目を見開いた。その衝撃はそのまま嚥下に伝わってミサカさんをむせさせた。

 やってしまった。

 とりあえず背中をさすってあげよう。

 でも、どうしてミサカさんは僕の表情に驚いたんだろう。

 まあ、考えても無駄か。


「大丈夫?」


「ええ、ごめんなさい」


「多分、謝るのは僕の方だと思うんだけど」


 しばらくするとミサカさんは、僕を見つめて申し訳なさそうな表情を浮かべた。むせたせいで浮かんだ涙のおかげで、その表情は僕の心をほんのり痛めつける。

 こんな気分になるくらいならもう少し考えればよかった。きっと、後悔先に立たずっていうのはこういうことを言うんだろう。


「ごめんね」


「良いのよ、別に。あんなことで驚いた私にも非があるわ。何より失礼だった」


 苦し紛れの僕の謝罪をミサカさんは謙虚な理由で拒絶した。その表情にはマッシュ君に見せていた傲岸不遜な見苦しい影は落ちていなかった。今のミサカさんは謙虚で、人を思いやる清純な光が宿っている。

 それだからか僕はミサカさんの顔をまじまじと見つめてしまう。

 賢明で謙虚な涙ぐむほんのり苦しそうなミサカさんの顔に僕は甘い刺激を覚える。


「流石に賢いね」


「馬鹿にしてるのかしら?」


「してないよ。本当にそう思っただけ。人に教えられたことを、しかも勉強じゃなくて人格的なことを指摘されてそれをすぐに適応させることって難しいからさ」


 鋭い目で睨んでくるミサカさんに僕は微笑みを向ける。


「貴女に褒められるとむず痒いわね。凄く苛立たしい」


「それって無意識的に僕を見下してるからじゃないの?」


「そうかもしれないわね。けど、こと貴女に関して言えばそういうのも悪い気分じゃないでしょう?」


 まるで僕がマゾヒストであると断定する調子でミサカさんは微笑みかけてくる。

 心外だ。

 一体、僕の何がミサカさんにそんな言われもない偏見を押し付けたんだろう? 変な行動なんて何もしていないはずなんだけど。


「『どうして』って思ってるでしょ?」


 悪戯っぽくクスクスと笑いながらミサカさんは的確に僕の疑問を指摘してくる。考えることを言い当てられた人は往々にしてぎくりと腰を引くものだと思う。だって、言ってもいないことをまるでこっちが言ったのように言い当ててくるんだから。そうすれば、誰だって、何も悪いことをしていなくても悪いことをしたような気がして、腰が引けてしまう。

 明らかな僕の動揺を見てミサカさんは歯を見せて笑う。白くて、均一で、歯並びは素晴らしく良い。でも、ミサカさんにしては下品だ。この人にはもっと上品な笑い方が似合う。


「貴女、分かりやすすぎるわよ」


「そうかな? 意外とポーカーフェイスだと思ってたんだけど」


「全然、表情は豊かだし隙だらけよ。もっとも、貴女の表情が豊かさを知るためには貴女のことをよく観察しなきゃいけないけれど」


 発作的な笑いが収まったけれど、まだ痙攣気味のお腹をミサカさんは抑える。ただそんな似合わない仕草よりも、僕は僕の双眸をジッと見つめて、恥ずかしいことを言ってくれるミサカさんの顔に見とれてしまう。

 濁りの無い翡翠の双眸によって観察されていたその事実が僕を赤らめる。そして、視線は自然とミサカさんから手元に落ちる。

 でも、そんな無意識の逃避行をミサカさんは許してくれないらしい。

 僕と違う柔らかくて健康的な白い手は僕の両頬を包み込む。そして、視線を無理やりミサカさんに合わせようと僕の頭を固定する。


「こうしてジッと見てみるとわかるわ。貴女が意外と照れやすい人間だってこととか、私に対しては他人に向けているような敵対的な警戒心を向けていないこととかね」


 息がかかるほど近い距離まで顔を近づけてきた少し赤らんでいるミサカさんは、僕の目元に親指をあてがう。


「止めてよ。恥ずかしい……」


 柔らかい親指で目元を撫でられると体がドッと熱を帯びる。そして、自分でもびっくりするくらい情けない声が漏れる。


「恥ずかしいの?」


「恥ずかしいよ。こんなことされたら誰だって恥ずかしいに決まってる」


「ふふ、それなら重畳」


「婆臭い言い方だ」


「酷い。貴女と同い年よ。古典的って言ってくれるかしら?」


 恥じらいのせいで早口になった僕の軽口をミサカさんはけろりといなして微笑む。存外、失礼なことを言った気がするけどミサカさんは全く気にしていない。それよりか僕の方が空回りしているような気がしている。一刻も早く恥ずかしい状態から離れたいはずなのに、反って自分から恥ずかしい状態に浸かりに行っているような……。

 熱すぎる頭はぼうっとのぼせる。

 視界一面に広がるあんまりにも良い顔が僕の思考能力を奪い去っていく。


「まっ、これくらいで許してあげる」


 桜色の舌をペロっと出して、ミサカさんはクスクスと笑う。


「……」


「貴女がしたことをそっくりそのままやり返しただけよ。だから、恨まないでね」


「恨まないよ。これくらいじゃ」


 機嫌が悪くなるのが自分でも分かる。

 やっぱり、人の掌の上で転がらされるのは良い気分じゃない。


「そう、なら良かったわ。これくらいで嫌われたらどうしようかと思ってたところだし」


「酷いね」


「貴女がそう思ってくれるなら嬉しいわ」


「サディストだ」


 この人は僕のことを何だと思ってるんだろう?

 表情も大して変わらない可愛げのない女子高生をいたぶって何が楽しいんだ? まあ、可愛げがないだけで可愛いから弄るのは楽しいんだろうけど。

 でも、そうだとしてもどうしてこんなにも僕をいじくりまわすんだ?

 それに、このぞんざいな扱いを受けても大して傷つかないむしろ喜びすら覚えている感情は一体何なんだ?

 訳が分からない。

 たった数時間のやり取りで中身がすっかり変わった?

 僕はそんな蓮っ葉女じゃないはずだ。

 でも、言い逃れできないほどミサカさんの掌の上で転がされて喜んでいる。こればっかりは事実だ。ああ、僕だけの王国のために利用しようとしたのに、結果的に良いように利用されているなんて酷く馬鹿らしい。

 僕は聡い人間だ。

 なのにどうしてこんなにも……。


「貴女がサディストだと思っているんだったら、貴女の中での私はきっとそうなんでしょうね」


 ジトっとした目で見つめる僕と相反する爽やかな笑みをミサカさんは向けてくる。

 初秋の青空よりも爽やかなミサカさんの笑顔は意識を強制的に引きはがす。だから僕の向ける非難は緩んで形骸化する。


「ミサカさんは偏見を許すの?」


 ただ、緩んだところで根底にある歪んだ自我の形が変わるわけじゃない。単純化したところでかつてあった王国の残骸が消え去る訳じゃない。むしろ、自分の感情が透き通るから、みすぼらしい王国の骸が浮き彫りになる。そして、ありのままの僕が現れてしまう。


「許さないわよ」


「それならどうして僕の偏見を許すのさ。それって矛盾だろ?」


「人には『特別』があるのよ」


「その理屈から言えばミサカさんの中で僕は特別な存在ってこと?」


「さあね。それは私の口からは言えないわ。でも、貴女が考えたことはきっと私が貴女に対して抱いている感情と一致してるはずよ。それだけヒントとしてあげる」


 意地悪なミサカさんは下唇に指をあてがいながら傲慢な態度を見せる。高慢とも受け取れる不躾な態度だけれど、ミサカさんの品の良さと合わさるとどうしてか一枚の人物画のように見えてしまう。

 青空。美少女。高慢。

 モチーフとしては申し分ない。

 でも、僕が見ているのはミサカさんだ。生きているミサカさんだ。


「だから安心して考えて。恐れずにね」


「わかった」


「物分かりが良い人は好きよ」


 カラッと笑ったミサカさんは勢いよくベンチから立ち上がる。

 そして、ビニール袋から何かを取り出す。


「あと、これはさっきのお礼。助けてくれてありがとう」


 ミサカさんは500mlパックのカフェオレを、有無を言わせずに僕に持たせるとそのままくるりと背中を向けて去って行った。「待って」とか「どうしたの?」とかそういう言葉が口から漏れることは無かった。

 黙って水滴に塗れた温いカフェオレを両手で包みこむだけだった。


「ミサカさん?」


 そして遠のく背中に酷くぼんやりとした質問を投げかける。もちろん、答えが返ってくることは無い。もっとも答えなんてミサカさんの真っ赤になった耳を見ればわかる。

 だから、この漏れた言葉に意味はない。呆けた様に座って、ミサカさんの背中を見つめているいまも時間を無為にしているだけで意味なんて無いんだ。



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