第八話


「……おはよう」


 内面をないがしろにした判断なんて意味がない。そういう判断を持った人は勝手に人の考えを想像して、妄想に従って行動する。ひたむきな努力と言えば聞こえはいいのかもしれない。けれど、結果が見えた瞬間、その努力と逆の結論を手にした瞬間、努力の人は途端に態度を変える。目の敵のように邪険に扱って迫害する。


「……はあ」


 迫害の先に待ってるのは陰惨な過去だ。

 人を追い詰めてやろうなんていう考えは人を獣に変えてしまうんだ。そんな可能性があるとするなら、見ないようにした方が良い。聞こえないようにした方が良い。そうすれば心も微かに和らぐだろうから。


「イッ!」


「おはよう。イヤホンのせいで聞こえてなかったかしら? それとも寝不足だっただけ? まあ、顔色が悪いのはいつものことなんでしょうけど」


 耳を引っ張られて、線香花火の様な痛みがパチリと走る。物理的に下げられた頭は、窓ガラスから差し込む日差しを一身に受けて、目を白色に満たす。

 でも、澱み切った僕にはこういった白い刺激が必要だったらしい。

 だって、ほんの一瞬間前まで抱いていた薄汚れたネガティブは無くなっているんだから。


「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてるわね。私に挨拶されたことがそんなに嬉しかった?」


「……いや、ごめん」


「何に謝ってるのかしら?」


「挨拶、返せなかったことさ。本当だったらすぐに返せたのに、僕の都合で滞っちゃったからさ。それに対する謝罪。ごめんね」


「随分と素直に言えるのね」


「僕をどんな人だと思ってるのさ」


 初めて言葉を交わしたときからそう思っていたけれど、ミサカさんは僕の扱いが雑だ。竹を割ったような態度は、曇った心をすっきりさせるけど、深い領域に突き刺さってくる。だからもう少し優しくしてほしい。


「変な人ね。見ず知らずの人の顔をジッと見たり、腕を掴んだり、挙句の果てにはあとをつけてきたりする飛び切り変な人」


「変な人って……。というか、前者については同意するけど、後者はミサカさんの主観でしかないよ。昨日も言った通りさ」


「ふふ、分かってるじゃない」


 一連の流れの結末を知っていたかのようなミサカさんは、腕を組みながらクスクスと笑う。無邪気で少し大人っぽい素敵な笑みを。


「知ってて聞いたの?」


「私なりの優しさよ」


「そっか。ありがと」


「どういたしまして」


 輝く朝日に照らされたミサカさんの微笑は綺麗だ。ただ、こちらを見透かしている態度は少しだけ鼻に着く。僕は警戒心の薄い、あるいはとてつもなく感情が表に出やすい軽薄な人じゃないのに、そう思われているのが苛立たしい。

 とはいえ、心の底からミサカさんを厭うような苛立たしさじゃない。子供っぽくて、一瞬の後にはすべて忘れることの出来る苛立ちでしかない。だから、この感情はじゃれ合いの結果でしかないんだと思う。


「それでどうして教室に入らないのかしら?」


 ただ、他愛の無い会話の余韻はすぐになくなる。

 これはきっとミサカさんが知的で好奇心旺盛で、目新しい話題とその真相を知りたい人だから。軽薄な言い方だけれど、僕だって散々言われてきたんだからこういう評価も許してほしい。


「ちょっとね。僕にだって色々あるんだよ」


 真実を明らかにはぐらかした回答はミサカさんの癪に障ったらしい。ミサカさんはグッと僕に顔を近づけると、僕の目を覗き込んできた。外部から脳を見ることが出来る唯一の器官から僕の思考を読み取ろうとしているのかもしれない。

 いや、そんなのは出来っこないことだし、さっきまでの笑みがすっかり消えた不満げな顔を見れば違うってわかる。親しい付き合いを長い間してこなかった僕でも、それくらいは理解できる。

 けど、理解できるからと言ってはっきりと答えを紡ごうとは思わない。不誠実なことだけれど、ミサカさんをまだ信用していないから。


「近いよ。ミサカさん」


「近づいてるのよ」


 クスリとも笑わらず、こちらの思考を貫く視線をミサカさんは向けてくる。息がかかるほど近いのにも関わらず、ミサカさんは恥ずかしがらない。決して僕の双眸から視線を外そうとしない。そのせいで僕が恥ずかしくなる。


「恥ずかしいの?」


 僕の顔が紅潮してることなんてわかり切ってることなのに、どうしてこの人はこうも意地悪な質問をしてくるんだ?


「わかってるでしょ」


「もちろん」


「じゃあ、やめてよ」


「嫌よ」


「酷い」


「酷いって思ってるってことは、どうすればこの状況を切り抜けられるのか分かるでしょ?」


 意地悪く微笑みながらミサカさんは、僕の胸を指で突っついてくる。そのせいで? 鼓動はより早くなる。薄い胸からこれがミサカさんに伝わらないことを祈ろう。万が一、伝わったら僕の立場はより追いつめられるんだから。

 というか、この状況から抜け出したんだったら教室に入ってしまえば良いんだ。どうせギャルちゃんもあの子も、僕に気付いているんだろうし。

 善は急げ。早く行動に移そう。

 見つめ続けてくるミサカさんから顔を逸らす。それから何もなかったかのように、教室の扉に手を掛ける。金属のひんやりとした温度が体の熱を奪ってくれる。


「そんなことさせると思う?」


 ただ僕の手がそのまま順当に動くことは無かった。腕を掴まれた僕の体は後ろに引っ張られた。それから肩を掴まれ僕の体は壁に押し付けられた。ミサカさんの力と壁から伝わる反作用に板挟みされて少し体が痛む。

 けど、そんな痛みを気にしてはいられない。


「だから近いって……」


「近づけてるのよ。貴女が逃げられないようにね」


 長い睫毛、切れ長な目と翡翠色の瞳、すらりとした鼻、心地よさそうな膨らみを持つ桜色の唇、シミ一つない雪みたいに綺麗な肌。それと顔にかかる滅茶苦茶良い匂いがする息。

 ああ、あの子はこんな気分を味わってたんだ。

 それは確かに滅茶苦茶良い気分になれる。緊張はするし、顔も熱く成って仕方がないけど、悪い気分は全くしない。それどころか心が浮足立ってる。役得って感じだ。

 ただ、こんな状況にいつまでも身を置いているのは心臓によろしくない。これ以上の心拍数が上がったら僕の心臓は精神的に壊れてしまう。ただでさえ脆いのに。


「分かったよ。話すから、だからいったん離れてよ」


 足元に目線を落としながら、自由な左手でミサカさんの左手をやんわりと握る。

 こんなに華奢な腕だっていうのに、ミサカさんはどうして僕をいとも簡単に押さえつけられるんだろう。身長だって僕の方が高いのに、どうして僕はこうして自由を奪われているんだろう。


「嫌よ。私の目を見て、はっきり言いなさい。そしたら離してあげる」


 思いに耽っている僕の左手は、いともたやすく振りほどかれる。そして、ミサカさんの左手によって僕の顎先は安々と持ち上げられる。

 悪戯っぽく微笑むミサカさんの顔が視界に入る。僕を追い詰めるのが酷く楽しいと言わんばかりの顔が。ただ、悪意が籠っていたとしても無邪気な可愛さの方がその印象を上回っている。だからか、僕の胸はいつもみたいに弱音をあげない。ひとえにミサカさんの表情に惹きつけられているから。


「意外と可愛い顔するのね」


「ひとまず止めてもらえるかな?」


「生意気ね」


「生意気も何も……」


「まっ、満足したからもう良いわ。暇があったらまた会いましょ」


「ええ……」


 自分勝手なミサカさんは僕の反応に満足したらしく、僕から手を離した。それから何もなかったかのように、手をひらひらと振りながらてくてくと自教室に向かった。

 高鳴っていた鼓動は、いつの間にか鳴りを潜ませていた。その代わり遠い昔に味わった古めかしい感情が芽生えた。暖かくて、綺麗な、そして二度と手に入れたくなかったそれが僕の中に現れた。

 こんな寂しさは要らない。

 こんなのを覚えてしまったらもう一度欲しくなるから。

 欲しいのは、もっと普通な、もっと単純な関係だ。


「ミサヲちゃん!?」


 うん、それこそこんな気軽に話しかけてくれるような関係が欲しいんだ。深い感情が介入しない気楽で、上辺だけの、けど僕にとって好意的な関係が欲しいんだ。

 教室の扉を開けたら話題の中心が現れる。そんなのは驚くべきことだろう。だからこうしてこの子が驚いているのは何ら不思議じゃない。そしてこれに微笑むことも。

 

「おはよ。昨日はごめんね」


 だから、僕は自然の流れに従って名前も知らない誰かさんに造った笑みを投げかける。


「謝らなくて良いよ! 役得だったし……」


 でも、これは僕の王国じゃない。




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