第七話
惨めな考えに頭を支配されてしまった僕は、それを全て忘れるために寝た。
ただ、曇った気持ちは朝になっても晴れなかった。とはいえ感情に甘んじて学校を休むわけには行かない。親に迷惑をかけたくないんだ。
そんなだから僕はいつも通り朝の準備をして、学校に行くよりも早い時間に出社していく両親を見送った。
涼しくて柔らかい初秋の朝日が満ちるリビングで啜るコーヒーには風情を感じる。といっても、僕が飲んでいるのはインスタントの美味しくも不味くもないコーヒーだから情緒が含まれている訳じゃない。ただの飲み物でしかない。
ゆっくりと時間が流れる。それと共にコーヒーも減っていく。
薄くも無ければ濃くもない僕の存在感を象徴するような残り少ないコーヒーを一息に飲み干す。そして、十時間後の僕が綺麗に洗ってくれることを願いながらマグカップをシンクに置く。グッと伸びをすると、コーヒーの香りが鼻を抜けていく。
ああ、また今日が始まると思うと少しだけ憂鬱かな。
普段だったらこんな一日の始まりを感じるタイミングで気だるさを覚える。それはきっと誰でもそうだと思う。
けど、今日は違う。
ミサカさんが僕と会ってくれるから。
そう思うと曇った心も少しだけ晴れる。
女子高生にしては幼稚な陽気なステップがついつい足取りの中に混じる。俯きがちに音楽を聴きながら歩く日常を忘れたみたいに、僕の体は踊るように動き出す。
さあ、玄関から学校へ。
「秋かな?」
澄み渡っている秋の冷たい青空がより動きを軽やかにしてくれる気がする。
友達とまではいかないけど気軽に喋れる人が、学校に居るだけで朝のどうしようもない倦怠感が抜けるとは思っても見なかった。それにこんなに浮かれるとも思わなかった。
いつぶりだろ。家族以外の他人にこんな興味を持ったのは。
いや、こんなことは分からなくて良いんだ。
思い出したらあの酷い悪夢がよみがえってくるから。そしたらこの晴れやかな気持ちは台無しになってしまう。だから今は蓋を、いやこれからずっと何があっても今までのように蓋をしておこう。
高校からすこぶる近い場所に住んでいる僕は、基本的に信じられないくらいとぼとぼ歩いても、相当な寝坊しない限り、HR開始三十分前には教室に着く。だから僕が着くころの教室には人がほとんどいない。遠くから来てる人も少ないし、部活の朝練もまだ終わってない時間だから当たり前だ。もっとも、人が居ようが居なかろうが僕はイヤホンを耳に差して音楽を自分の席で聞いてるだけなんだけれど。
そんな傍から見れば酷く寂しい日常を今日もまた繰り返すわけじゃない。僕の足取りが普段と違うように、今日は非日常を過ごさなきゃいけないらしい。偶然の悪戯っていうのは本当に厭わしい。
いつもより二十分以上早く着いた学校は、いつもよりも静かだった。だからか、体育館から聞こえる運動部の声は普段より大きく聞こえたし、音楽室が入ってる特別棟から聞こえる吹奏楽部の金管の音はより空気を震わせているような気がした。
そんな早い時間の普通が教室にも適応されていると思った。
ただ、早い時間の普通はそれ自体が持つ常識がある。経験の範疇から外れた常識が適応されることは何ら不思議なことは無い。つまり僕が知らないことは当然のように起こっているし、それを想起できないこともまた当たり前っていうことだ。
「昨日さ、良いことあったんだよね!」
「良いことってなにさ?」
誰も居ないだろうと高を括っていた世間知らずの僕の歩みは、入らなければならない教室から聞こえてくる声によって妨げられた。
朝だというのにもかかわらず、女の子の声ははきはきとして昼休みの明るさを持ってる。一方で聞き手側の女の子の声音は朝の怠さに塗れている。そんな釣り合わないような二つの声音は二人の気分をそれぞれ強調し合ってる。一方はすこぶる陽気な女の子に思えてしまうし、もう一方はかなりダウナーな女の子に思えるくらいには。
個人が元気だったとしても、気だるかったとしても別に問題ない。ただ普段なら聞こえてこない声が教室から聞こえてくるということが、僕の日常の動作を粉砕する。
やることを失った僕は、ミサカさんを由縁とする陽気さを失って教室の前で右往左往とする。情けないけれど、レールから外れるとあたふたしてどうしようもなくなってしまうのは、中学生以来の染み付いてしまった臆病なんだから仕方がない。
「ミサヲちゃんが抱き着いてきてくれたんだ!」
ただ、そのあたふたというのは僕がその問題の主体となっていない時だけ生じるもの。だから、話題に僕が出てきた瞬間、発作的な動揺が落ち着いて体は硬直する。
どうして嬉しそうにするんだろう?
固まった体の脳裏には、そんな疑問が何回も繰り返される。
「マジ? あの子がそんな大胆なことすんの?」
「第一印象で何でもかんでも決めつけるのは良くないよ! というかそんなこと言ったら、カヨが副クラス委員だって誰も思わないでしょ」
「まっ、そうだね。てか、今まであんたは私のことをどういう目で見てたのさ」
「ギャルなのに真面目ないい人」
「ギャルに対する偏見すごくね? けど、スカート短くしたり、化粧したりしてたら確かに真面目っぽく見えないよね」
「それだからさ、第一印象で人を決めつけるのは良くないよ」
あの子は人のことを客観的に見れる優しい人だ。それにこの子の言葉を素直に受け止めてる聞き手の女の子も優しい人だ。
でも、僕が抱き着いたと吹聴するのは止めてほしい。あれはただ貧血の発作が原因なんだ。他意はないんだ。というよりも、そこに込められる他意を持てるほど僕は勇気ある人間じゃない。
「けど、だからってあの子が人に抱き着くとは思わないんだけど。あの子って、パーソナルスペースが結構広めな子っぽいじゃん」
「ぎくり」
「擬音を発音する人初めて見た。まっ、そんなことより、実際はどうだったのさ?」
ギャルちゃんの言う通りだし、あの子は愉快だ。
「本当はミサヲちゃんの体を支えただけだよ」
「体を支えたって、なんかあったの?」
「ミサヲちゃんは貧血の立ち眩みって言ってた」
さっきの言葉が嘘であることを告白したあの子の声音は少し暗い。
「フルタさんは大丈夫だったの?」
「多分。夕陽のせいで顔色が分からなかったから何とも言えないけど、ミサヲちゃんは大丈夫って言ってた」
そして、ギャルちゃんの声音も、あの子の声音もどんどんと暗くなっていく。
止めて。
僕のことで気分を悪くするのは止めて。
僕を話題に挙げないで。
僕を無視してくれ。
「まっ、自分の口でそう言ってるんだから問題ないか。てか、他人が慮ったところで何にもならないし。それより、どんな気分だったの? フルタさんの体を支えてみてさ」
「めっちゃ良い匂いした。あとすっごいカッコよかった。ちょっと悩まし気な横顔も、かすれかかった余裕のなさそうな声も、怠そうな目も全部全部カッコよかったよ!」
やっぱり、駄目だ。
これ以上、ここに居ちゃ駄目だ。
いつかこの子もきっと僕に幻滅する。外面だけの判断は簡単に流されるんだから。
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