第六話
「ただいまー」
間延びした声と共に玄関を開けても家は暗くて誰も居ない。別にネグレクトされているとか、一人暮らしをしているとか、そういう意味じゃなくて、普通にまだ誰も帰ってきてないだけだ。お父さんは背伸びして都内に一軒家を買ったローンを返済するために残業三昧だし、お母さんは中間管理職で普通に残業があるから遅くまで帰ってこれない。だから、僕が帰ってくる時間は必然的に誰も居ない。
まあ、お父さんもお母さんも僕が中学校に上がるまでは、僕のことを想って無理して早めに帰ってきてくれたから、寂しさとかは別にない。むしろ、僕に構っていた年数分の仕事をやってきて欲しい。それに一人で居た方がしやすいこともあるし。
慣れ親しんだ一人の空間を存分に楽しむためには、やらなければいけないことがある。まずは靴を脱いで、明かりをともして、夕ご飯を食べて、お風呂に入ろう。それが先決だ。
有言実行を座右の銘とする僕は、しなければならないことを順々にこなしていくことを決意する。玄関で取り留めのないことを考えるほど僕は馬鹿じゃない。
靴を脱いで、手を洗う。それから二階の自室に戻って制服からジャージに着替える。上下真っ黒のジャージって言うのは女の子の部屋着にしては味気ないかもしれない。でも、誰に見られるわけでもないから別に気にしない。
そんなこんなで味気ない自室から味気ない恰好のまま一階のリビングに向かう。流石にインスタント食品で夕食を終わらせる気はない。インスタントで晩餐を迎えるなんて味気なさ過ぎるしね。
薄暗いダイニングキッチンに明かりを灯して、どんぶり一杯分の水を入れた鍋に火をかける。そして、冷蔵庫の中で燻ってるあまりものの水菜とか小松菜とかの野菜を取り出す。あとは野菜を切って、適当な量のめんつゆと共に沸騰したお湯の中に放り込む。それから冷凍庫から取り出した油揚げとうどんを鍋に入れてぐつぐつと煮込む。最後にどんぶりに盛り付けて、七味をかければ今日の夕食、野菜うどんの完成だ。美味しいとか不味いとかは、どうでも良い僕は野菜が食べられればそれで良いんだ。
そんなこんなで女子力を破棄した夕飯をリビングテーブルの上に置いて、僕も席に着く。僕しかいない食卓は広く感じる。そこはかとない家族への寂寞を覚えながら、立ち上る湯気を見つめる。
「いただきます」
冷める前に、麵が伸びる前に早く食べてしまおう。
うどんの味は正直薄いけれど、野菜と油揚げの味が直に感じられて良い。それになんか健康になれそうだし。
そんなこんなで美味しくも不味くもない夕食を食べ終えると、僕の食欲はすっかり満たされる。生まれつきの小食のおかげだ。
どんぶりと鍋を洗い、家事でやることがなくなると後に残るのは入浴だけだ。そんなことで僕の足は自動的にお風呂場に向かう。
女子のお風呂は長いらしい。
でも、僕はあんまり長くない。それはお母さんにも言われてるから絶対的に僕の入浴時間は短いんだと思う。お母さんは『可愛いんだからお肌の手入れ位したらどう?』っていうけれど、そんなことに時間を使っても仕方がない。だって、その肌を見せる相手が居ないんだから。
そんなことだから洗顔料で顔を洗うことなく、ただ服と下着を脱いでシャワーを浴びるだけ。そもそもお風呂に入るってこと自体、あんまり好きじゃないからこれで良いんだ。いや、お風呂に入るのが嫌いなんじゃなくて、体を見るのが嫌なんだ。
「……痩せてるなあ」
浴室の鏡に映る自分の貧相な体を見るのは、一日の中で最も嫌な時間だ。
あばらがほんのり浮き出て、胸も地平線。腕も足も細い。何時も見ても吹けば倒れそうだ。何よりそんな痩せっぽちのお腹に刻まれた傷跡が嫌いだ。僕の王国をズタズタに破壊したお腹にある交差して重なる無数の直線的な傷跡が嫌いだ。
「やっぱり、消えないんだ」
物理的にも精神的にも癒えることのない傷を撫でながら、頭から暖かいシャワーを浴びる。長めの髪はすぐに水気を帯びて重くなる。
切ればなくなる髪みたいに、この傷も無くなればいいのに。そしたら僕は過去を見なくて済むようになる気がする。良いことがあった日なのに、それを全部全部、台無しにするような感情も抱かなくて良い気がする。まあ、心にある傷がそうさせてくれないんだろうけど。
でも、せっかくのお風呂なんだから、センチメンタルな気分で居ても仕方がない。拭っても消えない汚れのことなんて無視して、洗えば取れる汚れを取ってしまおう。
お風呂から上がって、適当に髪を乾かして、リビングで冷蔵庫に入ってる冷たい水を飲んで、上気した体のまま自室に戻る。もう、二十時だっていうのに誰も帰ってこないけど、それもまた日常だから気にしない。
淡々と繰り返されるだけの日常は、夜が耽ってきても続く。
リュックから勉強道具を学習机の上に出して、明日の予習と今日の復習を二時間くらいする。模範的な学生みたいな日課だけれど、僕にそんな殊勝な心掛けは無い。ただただ無趣味で時間が余ってるからこうして時間を潰しているだけに過ぎない。
数学、英語、物理、化学と順々に予習と復習をこなしていくと時間はあっという間に過ぎていく。時間は深夜へと移行し、家族が帰ってくる。もっとも、お父さんはまだ小一時間しないと帰ってこないけど。
お母さんは帰ってくると必ず、二階に上がって僕の部屋を訪れる。これが途切れたことは中学生から一回もない。それは僕が眠っていたとしてもだ。
だから、勉強し終えて、体をグッと伸ばしているところをお母さんに見られるんだと思う。
「ただいま、ミサヲ。相変わらず真面目だねえ」
四十代相応の美貌を、高身長のスタイルとスーツによってより引き立てているのが、僕のお母さんだ。僕が心を許せている数少ない人。そんな人は僕を見ると、呆れたように笑う。
「暇だからしてるだけだよ」
「そう? 学生の時なんて遊び惚けてたけどなあ。スーファミとかで腐るほどゲームしてたよ。お父さんも昔は遊び惚けてたし。誰に似たんだろ」
お母さんは勉強してる僕を見るたびに頭を悩ませながらこう言ってくれる。
誰に似たも何もあなたたち以外の誰とも似てないと毎回思う。なんだかんだ真面目な二人の気質を僕は受け取ったんだと思う。
「まっ、でも私たちの子供だから当然か」
そして、最終的には自信満々な笑みを浮かべて僕の頭を撫でてくれる。
高校生にもなってやられるとは思ってなかったけれど、信頼している人が触れてくれるだけ嬉しいものはある。もちろん、恥ずかしさもあるけど。
「それじゃ、私は晩酌してるから何か用があったら教えてね」
「うん。分かったよ」
「じゃ、good night!」
お母さんはちょっと洒落た感じの言葉を残して僕の部屋から出て行こうとした。
けど、すぐさま体を翻して、僕の方を見た。
「あ、それと髪切るんだったら、ちゃんと新聞紙を敷いてお風呂で切ってね」
「分かってるよ」
「物分かりが良い子だから心配してないよ。でも、綺麗な髪なんだから美容室で切ってみれば?」
「ごめん。それは無理かな」
今まで目を合わせていたけれど、その話題となると僕の目は自然とお母さんから離れて俯きがちになる。それから、はきはきとした口調も口籠ってしまう。
駄目なことは駄目なんだ。
出来ないことは出来ないんだ。
だって、怖いから。
俯きがちにネガティブを想ってると、僕の体は慣れた温もりに包まれる。
「ごめんね。そりゃ、あんなことがあったらできないよね。ごめん、本当にあの時、気付いてやれなくてごめんね」
そして、聴きたくないお母さんの物悲しい謝罪が耳を摩る。
「謝らなくても良いんだよ。過ぎたことだし」
「まっ、ミサヲがそういうならこれ以上謝らないわ」
「切り替えが早くて助かるよ」
「うんうん、それが私の長所だしね。それじゃ、なんか用があったら教えてちょうだいな。それじゃ」
一瞬にして態度を切り替えてカラッとした笑みを浮かべたお母さんは、サムズアップと共に僕の部屋から出て行く。嵐のような性格をしているけど、良い人だ。僕の傷ついた感情に寄り添ってくれるんだから。
母親の温もりを感じながら、僕は疲れた体をベッドに投げて、瞼を閉じる。
すると例のごとくあの光景が、陰惨な記憶が刃物と共に蘇る。
「怖い……」
そうして僕は今日も自分の弱さを確認する。
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