第一話

 曇りかかった夕暮れの空は秋の色を持っていて不気味だ。なのに気温は夏みたいに高くて季節感がおかしくなりそうだ。

 教室の窓から空を見つめながら、そんなことを想ってみる。

 どうせ誰も居ない放課後の教室なんだから、澄ました顔で感慨に耽ることに恥じることは無い。孤独な自己陶酔を味わいつくそう。いわゆるエモってやつを摂取してやろう。

 放課後の静けさは嫌いじゃない。

 だからと言って普段の学校生活が嫌いという訳でもない。

 僕は高校生活を健やかに楽しんでいる。友達は誰一人として出来ていないけれど、僕としては楽しめている。全ては順調に流れて、二学期の始まりを迎えているんだ。

 とはいえ、机に頬杖をつきながら時間を無為にするのはいただけない。人に与えられている時間は限られているのだから、一分一秒たりとも無駄にしてはいけない。時間は全て利用しなければならない。けれど、その時間を有効利用する方法を考える時間はもったいない。それなら、こうしてどうでも良い時間を過ごしていた方が良い。

 夏に切り損ねた邪魔な髪を耳にかけて、何にも考えずに空を見ていた方が良い。


「あれ、まだ居たんだ」


 何も考えずに時間を費やすのは存外難しい。

 そもそも無を作り出すこと自体が難しいんだから。


「……いちゃ駄目かな?」


「いやいや、そんなこと言ってないよ。ただ、まだ帰らないのかなって。ほら、ミサヲちゃんって部活とか委員会にも入ってないじゃん」


 どうして僕の所属をそこまで知っているんだろうか?

 というよりもこのポニーテールちゃんは一体誰なんだろう?

 まあ、こんな不愛想な本音を知られたらせっかく得られた自由な生活が危うくなる。君子は危ういものに近づかないのが定石だ。そして、危険から身を退くためには演技をすることが重要だ。本音を全て包み隠すための。


「詳しいね」


 きっとこの子は一度も見たことのない僕の笑顔を見ているから、目を丸くしているんだろう。あまりにもカッコいい笑顔に見惚れているんだろうと思う。自分で言うのもあれだけれど、僕の笑顔はこの高校の誰よりもカッコいいと思う。二組のアオにだって負けない自信がある。自惚れじゃなくて客観的な事実だ。

 けれど、これは僕の生活を酷く不自由にしている要因の一つだ。

 だから、僕はこの客観的な事実が嫌いだ。


「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ」


 演技をして自分の感情を誤魔化したのに、演技という行為自体に嫌悪を覚える。演技をし続ける限りこの醜い感情は堆積し続けると思う。そして、処理できなくなった時点で感情は決壊して、この子に迷惑をかけてしまうだろう。

 他人の自由を阻害することは許されることじゃない。他人を傷つけることもまたしかりだ。それなら、僕は気ままな自己陶酔を唾棄して、この場から去ろう。

 居た堪れなくなる前に立ち上がろうとする。

 だけれど、慢性的な貧血状態にある僕の体が動作の勢いに耐えられるはずが無かった。視界はいつも通りブラックアウトして、平衡感覚も無くなって、見知らぬ女の子の方に体は重力に従って倒れていく。


「ミサヲちゃん!?」


「迷惑をかけてごめんね。貧血なんだ」


 自分の都合で立ち上がって、自分の都合で他人に体を預ける。

 名前も知らない子の黒い髪が肌をくすぐる。

 名前も知らない子の柔軟剤の匂いと僕の匂いが混じり合う。

 名前も知らない子の体温が僕に伝わる。

 きっと、これらは並べて良い感覚なんだと思う。言葉を使わず交わす最上級のコミュニケーションなんだろう。

 けど、僕はこれが嫌いだ。

 この子の徐々に熱を帯びていく体も、いきなりの出来事に動揺して荒くなる呼吸も、柔軟剤とは違う甘い香りも全部が嫌いだ。

 出来るだけ早く回復してくれ。

 僕をこの温もりから解き放っておくれ。


「大丈夫?」


 無礼な僕の体を支えてくれる女の子は、そっと背中に手を回して、優しく摩ってくれる。嬉しいことだし、喜ばなきゃいけないことだ。けれど、どうしても僕は優しい行為に嫌悪感を覚えてしまう。

 ごめんなさい。

 そう言えたら僕はどれだけ気が楽になるんだろう。いや、実際に言ってみれば分かることだ。頭の中でぐるぐると考えを巡らせていても仕方がない。


「……ごめんなさい」


「別に良いんだよ」


 結局、気は楽にならなかった。

 むしろ、より苦しくなった。

 一方的な知的欲求に従った言動は物悲しいだけで、慰めるように背中をさすってくれる女の子の声に申し訳なさを覚える。

 やっぱり、駄目なんだ。


「けど、僕の体って重いでしょ。身長も普通の子よりも高いしさ」


「いやいや、重くないよ。むしろ、軽すぎるくらいだよ。百七十くらいあるのにさ。もしかしたら、私より軽いかも……」


「そっか」


 「そんなことないよ」とか「今くらいの体重が丁度良いよ」とか言ってあげれば、きっとこの子を喜ばせることが出来たんだと思う。女の子がそれで本当に喜ぶのかは分からないけど、淡白な返事をするよりかはずっと良いと思う。

 会話を続けるための言葉を吐き出すことは、何時まで経っても苦手なままだ。これから先もきっと苦手なままだと思う。改善しようと自分から試みていないんだから当たり前のことだ。そして、優しくしてくれる人から逃げ出したいっていうこの気持ちも治ることは無いんだろう。


「色々、ごめんね。おかげで体調も回復したよ」


 女性にしてはカッコいいはずの笑みを浮かべながら、彼女の体を優しく突き放す。悪いと思っているし、倒れるところを助けてくれた人に対する無礼だっていうこともわかってる。けれど、僕の弱い心は一般的な道徳を上書きしてしまう。

 園児のお絵かきのようにごちゃごちゃとした心に左右される僕の視線は、決してこの子の目と合わない。顔も見たくない。傷ついているかもしれない人を見たくない。可能性がほんの少しでもあったら、意志薄弱な僕は降参して、現実逃避に走ってしまう。


「それじゃ、ありがと」


「う、うん、さよなら」


 リュックを担いで夕陽の茜色が満ちる教室から足早に出る。帰宅すれば良いだけなのに、僕の本能は暇つぶしを求める。出来るだけ静かな場所で、出来るだけ気が散らせる場所を求める。自分と向き合う時間を極力少なくしたいその一心で。

 都合の良すぎる欲求が全て叶う場所なんてこの世界には無い。スマホを開いてネットの世界に飛び込んだとしても、待っているのは孤独な時間だ。そこに僕の求めている独りぼっちだけれど、周囲に気を散らせる程度の人間が居る世界は無い。

 個人で用意できる孤独な場所には限界がある。けれど、求めている世界に近似している場所はどこにだってあるはずだ。経験がそれを導いてくれるはずだ。

 経験に導かれるまま動き続けていると、僕は図書室についていた。確かに図書室であれば、少なからず人は居るし、孤独も味わうことも出来る。やっぱり経験と直感は、僕の理想に最も近い場所を導いてくれるんだ。




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