第4話 多元理論

 そんな無限の可能性をいうものを、ロボット開発が秘めているとすれば、タイムマシンに関してはどうだろう?

 もちろん、タイムマシンの開発にも、

「無限の可能性」

 という考えを無視することはできない。

 しかし、それ以外にもっと大切なことがあるはずであった。

 それが、

「多元理論」

 というものである。

「多次元と何が違うのか?」

 と言われると、正直、何と答えていいのか分からないが、ここにも、無限というものが入り込んできている。

 ただし、前述は、無限というものを証明するものであったが、今回は、無限というものが証明するという意味で少し違っているといってもいいだろう。

 実際は、前述も決して証明できたわけではないが、

「無限というものが存在しなければ、説明がつかない」

 という意味での証明だったといえよう。

 しかしこれは、

「無限が証明するという意味では、同じ発想ではあるのだが、微妙に違うのは、無限という言葉と似てはいるが、違うものを証明しなければいけない」

 ということである。

 無限というものを、漠然と、

「限りがないもの」

 として捉えると、

「無限に対して四則演算氏を使うと、説明しにくい」

 ということになる。

 あくまでも、漠然としているからだ。

 しかし、その無限をいくつかに分けてみるとどうだろう。

 まるで、

「フレーム問題」

 のように、フレーム化するわけだ。

 ロボット開発では、

「無限を何で割っても無限にしかならない」

 ということで、それ以上の発想は生まれなかったが、逆に、ここに、宇宙であったり、時間という、

「マルチバース」

 のようなものを考えればどうだろう。

 世間では、

「一次元から、三次元までは確実に存在し、可視化もできるわけだが、四次元というと可視化などできるわけはない。

 あくらでも理論上の問題であって、その理論が、

「無限というものは、無限に存在するから無限なのだ」

 ということで、1というものが一つしかなく、5というものも一つしかない。これは、数列が規則正しく並んでいるのだから、当たり前のことだ。

 だが、無限というものに、限界がないのだとすれば、無限が無限にあるという、まるで禅問答をしていうような考え方になるのであった。

 今度はタイムマシンの考え方に移ってみるが、タイムマシンで問題になるのは、まず誰もが思い浮かべるであろう、

「タイムパラドックス」

 の問題である。

 これは、例えば、過去に行って、自分が生まれるはずのものを断ち切ってしまったとしよう。

 すると、三段論法の発想になるのだが、

「自分が生まれるというきっかけを断ち切ってしまったことで、自分が生まれなくなる。だから、自分がタイムマシンで、過去に来ることはない。そうなると、、自分が生まれるきっかけを断ち切ることはできない。そうなると、自分が生まれてしまう」

 ということになるだろう。

 だったら、今度は自分が生まれてしまうところから話を初めて、

「自分が成長し、タイムマシンに乗り、そして、過去にやってくる。そして、過去で生まれてくる運命を断ち切る」

 ということになって。結局、どこで運命を切ったとしても、矛盾が何度も繰り返されるだけで、時間が輪廻してくるわけではない。

 これが一種の

「タイムパラドックス」

 というもので、考え方によっては。

「メビウスの輪」

 に似たところがあるだろう。

 そして、さらに、この発想は、

「三すくみ」

 という発想とも、結びついてくる。

 このような輪廻の発想は、食物連鎖にも言えることだ。そして食物連鎖の発想としてたとえに出されるのが、

「ヘビ、カエル、ナメクジ」

 の三すくみの関係ではないだろうか?

 それぞれがうまく噛み合っていて、抑止力を保っているから、食物連鎖は保たれている。しかし、その一角が崩れてしまうと、つまりは、どれかが全滅したり、突然変異を起こし、ヘビがナメクジに強くなったとすれば、ナメクジばかりが弱者となり、結局カエルはヘビに弱いわけなので。ヘビの一人勝ちである。

 しかし、それまで利いていた抑止が利かなくなると、ヘビだけが残って。カエルとナメクジは全滅する。

 だが、ヘビも餌がないわけで、結局、飢え死にしてしまうということになるのだ。

 人間は、その理屈を分かっているが、動物には分からないだろう。

「どうして餌がないんだ?」

 と、散々自分たちが食い荒らしてきたことが原因なのに、気付かないのだ。

 それを思うと、三すくみというのは、実によくできていて、食物連鎖の基礎をなしているといっても過言ではないだろう。

 タイムパラドックスにも、三すくみに似た発想があるのかも知れない。

 だから、異次元や一度通り過ぎてきた時間をさかのぼることはできないということで、何とか抑止になってきたのだが、人間は、このような三すくみを解決するためには、

「何か他に、タイムパラドックスを証明するものがないといけない」

 と言えるのではないだろうか。

 それが、

「マルチバース理論」

 というものだ。

 マルチバース理論」

 というのは、

「宇宙は、一つの一番大きな単位だ」

 と言われていたものが、

「実は、次元を超えるのか、時空を超えてなのか、まったく違ってはいるのだが、はた目から見ると、まったく同じにしか見えないというような宇宙が、無限にあるのではないか?」

 と言われるものが、マルチバース理論である。

 これが、今まで、

「証明が無理なのではないか?」

 と言われていたタイムパラドックスの照明に使えるというのだ。

 ただ、ここで、いきなり、

「マルチバース理論」

 に入る前に、もう一つ考えられているものに、

「パラレルワールド」

 というものがある。

 それは、

「現実と思われるこの世界とは別に、もう一つの現実の世界が存在している」

 というものであり、これこそが、

「タイムパラドックスの解決案」

 であり、

「ジキルとハイド」

 の小説を考える、出発点だったといえるのではないだろうか。

 パラれリワールドの世界を考えていると、いわゆる、

「タイムパラドックス」

 というものが、一つの時系列に沿って世界が成り立っているわけなので、それを逆行すると、当然、理屈に合わないことが起こるのは当たり前である。

 しかし、その時系列が二つ、いや、発想をもっと深くして、

「世界自体が二つあれば、辻褄が合わない世界が開けるだけだ」

 ということにしてしまい、もう一つ進行している世界の方に飛び込んだと考えると、タイムパラドックスも説明できるという考えであるが、

「あまりにも、強引すぎる気がする」

 というのは、考えすぎだろうか?

 ただ、マルチバースと、パラレルワールドを、一緒にして解釈しようとすると難しいところがある。パラレルワールドは、

「同じ時間軸が別の次元に存在している、世界としては同じ世界」

 という解釈である。だから、同じ時間のその世界には、自分と同じ、そして、まわりの人も同じ人が存在していて、ただ、同じことをしているとは限らないという世界のことをいうのだった。

 タイムパラドックスで、もし過去に行ったとして、その過去を変えてから現実に戻るとすれば、そこは、

「パラレルワールドだった」

 ということではないかと考えることで、タイムパラドックスの辻褄を合わせようとするものであるが、少々強引に思える。

 しかし、タイムパラドックスというものは、

「一度しか繰り返せない」

 ということになるだろう。

 それはあくまでも、

「世界が二つしかなかったら?」

 というものである。

 ただ、ここに、先ほどの、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 ということなのだから、

「その無限の可能性の分だけ、パラレルワールドが広がっている」

 と考えるのは、あまりにも無理のあることではないだろうか?

 だが、マルチバース宇宙論は、今まで自分たちが、一番広いと思っている宇宙が、無限に広がっているという理論ではないか。

 それを考えれば、パラレルワールドの世界だって、無限に存在していると考えるのは、おかしなことであろうか?

 そう考えると、過去に戻って、何度でもやり直すことは可能だと言えるのではないか?

 ただし、パラレルワールドであっても、マルチワールドであったとしても、

同一人物が、同一次元、同一時間軸に存在するというのは、許されないことではないだろうか?

 となると、何かの弾み、例えば、タイムパラドックスの失敗によって、戻った世界が別の世界だったとすれば、

「そこには、もう一人の自分が存在しているはずだ」

 といえるのではないだろうか?

 そうなると、どちらかの存在を否定しなければいけない。

 その考えが、

「ドッペルゲンガーの考えになるのではないだろうか?」

 ドッペルゲンガーというと、

「もう一人の自分がこの世に存在している」

 と言われるものである。

 それは、

「この世に三人はいる」

 という、似た人というわけではないのだ。

 あくまでも、もう一人の自分ということで、言い伝えとしては、

「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来死んでしまう」

 ということであった。

 しかも、ドッペルゲンガーを見たのは、自分でなくてもよい、誰が見ても、その人のドッペルゲンガーに変わりはない。

 さらに、パターンとして、

「声を発しない」

「その人の行動パターン以外には現れることはない。

 というものである。

 つまりは、

「その人と同じ人間が同じ行動パターンで存在している」

 ということになり、そのうちに、出会い頭に遭ってしまう。

 そのため、見た瞬間に、その人は死んでしまうということなのだが、果たして本当に死んでしまうのだろうか?

 魂だけが、向こうの世界に行ってしまい、抜け殻になるのではないか?

 もっとも、

「それを死だ」

 というのであれば、向こうの世界で死んだ自分がこっちの世界に来ているとすれば、行動パターンが同じなのも、一言もしゃべらないのも理屈には合っているというものだ。

「ということは、ドッペルゲンガーは死人であり、向こうの世界とを行き来するには、死ななければいけない」

 ということになるのであろう。

 肉体は、すぐに荼毘に付されるのだから、乗り移るわけにもいかない。そもそも、同じ人間といっても世界が違うのだ。抜けた肉体にそう簡単に入れるとは思えない。

 ある意味、パラレルワールドというのは、

「タイムパラドックスの理由付け」

 ではなく、

「ドッペルゲンガーの理由付けになっているのではないだろうか」

 パラレルワールドが、ドッペルゲンガーの理由付けというのは、あまり聞いたことがない。

 普通に考えればありえることだと思うのに、なぜここまで誰も考えないのか、おもしろいものである。

 しかも、なぜなのか、

「ドッペルゲンガー」

 という言葉を知っている人は結構いる。

 しかも、言葉を聞いたことがあるというだけではなく、

「見たら死ぬ」

 というところまで知っているのだから、きっと、マンガやアニメの世界では、ポピュラーな発想なのかも知れないと感じた。

 なるほど、物語のテーマ、オカルトやホラーなどでは、格好の題材ではないだろうか?

 それを思うと、ドッペルゲンガー以外にも、

「あまり知名度は高くない」

 と思うようなことでも、実は、よく知られているということも多いのではないだろうか?

 マンガやアニメをバカにしていたが、実際にはそこまでのことはないのかも知れない。

 そもそも、黎明期の人型ロボットというと、そのテーマの根底には、

「ロボット工学三原則」

 があったものだ。

 中には、そのまんま、

「フランケンシュタイン症候群」

 というのもあったくらいで、マンガ家や小説家というのは、発想の根底は同じところにあるに違いない。

 そんなタイムマシンや、ロボット開発が進まない中で、それぞれの発想の根底と、開発を進められないわけを見ていると、結局戻ってくるのが、

「ジキルとハイド」

 の話ではないだろうか。

 二重人格の話、これはドッペルゲンガーに繋がるもの。ドッペルゲンガーが、同一時間軸の、別次元の人間という意味での、パラレルワールドであるとすれば、

「ジキルとハイド」

 は、同一人物の中に潜む、別人格であると言える。

 しかも、ジキルとハイドの場合は、その性格はまったくの正反対であるということ。だから、二人の間には、

「お互いに、どちらかが表に出ている時は、もう一人は眠っている」

 ということなのだ。

 そもそも肉体は一つしかないのだから、別人格が、同時に表に出てくるということはありえない。なぜなら、表に出てきた性格は、それぞれに相手の存在を知らないのだし、もし分かっているとすれば、間違いなく、

「自分に、そんな性格が備わっていたなんて、信じられない」

 と思っているに違いない。

 だから、それぞれに反発しあい、拒否反応を起こすだろう。

 それこそ、

「アナフィラキシーショック」

 のように、

「本来なら、できることで自分の身体を守る免疫に寄るショックで、死に至る」

 というような、まったく想定外のことが起きてしまう可能性だって含まれているのだった。

 だから、ジキルとハイドは、それぞれの存在を知りながら、

「触らぬ神に祟りなし」

 という意味でも、決して片方が表に入る時は出てこようとしなかったのだ。

 うや、出てこれなかったといってもいい。どこかに結界のようなものがあったに違いない。

 ただ、ハイド氏の方は最初から分かっていたのかも知れない。

 自分が、ずっと裏にいて、表に出られないことを、黙っているわけはないほどの性格だったからだ。

 隙をついて、ジキル博士が油断している時、表に出てこようというつもりはあったことだろう。

 だが、結界のためにそんなことはできない。

 他の人に、ハイド氏のような、

「裏に回っている性格」

 というのはあるのだろうか?

 そこまではジキル博士には分からなかった。

 ジキル博士は、あくまでも、自分の中に

「もう一人の自分の存在」

 を感じたというだけで、どこまでまわりのことを考えていたのか分からない。

 意識はしていても、そこまで探求しようとは思っていなかったとも考えられる。少なくとも、ハイド氏という存在が強すぎて、

「知らなくてもいいことを知ってしまった」

 と思ったのかも知れない。

 ただ、知ってしまった以上。後の祭りだ。

 もし、他の人のことを考えていないのであれば、何も、ハイド氏の存在を意識する必要もないと言えるのではないだろうか?

 ジキル博士はどこまで自分のことを分かろうとしていたのか、それは、ハイド氏の存在を意識した時に決まったことだろう。

 逆に、

「存在を知るだけで、それだけでよかった」

 のかも知れない。

 知ってしまったことで、

「知らなければよかった」

 と思ったとすれば、それこそ、

「してはいけない後悔をした」

 といってもいいだろう。

 彼のような科学者であれば、本来なら、

「後悔などしてはいけない」

 といえるのではないだろうか?

 科学者として、後悔するということは、

「後の祭りでは済まされない」

 ということであり、その時にどのような混乱や社会へ問題提起するかということを考えると、その責任はハンパではないと言えるだろう。

 そんなジキル博士は、ハイド氏のことを知ったのがいつだったのか分からないが、ジキル博士がハイド氏のことを知るよりも、ハイド氏が、ジキル博士のことを知ったのは、もっともっと前のことであろう。

 いわゆる、

「物心がつく」

 と言われるような時期には、すでに分かっていたのかも知れない。

 分かっていて、決して表に出ることのできないことをどのように感じていたのだろう?

 もし、他の人に、ハイド氏のような別人格が宿っているとすれば、まず、別人格が出てくることはない。

 別人格の方も、

「俺は、ずっとこのまま日の目を見ることはできないんだ」

 と思い込んで、表の自分に運命をゆだねるしかないと思っていることだろう。

 よほどのあやまちを表の自分が犯し、その影響で、死に至るというような緊急事態であれば、表に出てくることもあるのだろうか?

 それを考えると、ジキル博士は、ハイド氏の存在が怖くて仕方がなかったのだ。

 というのも、ハイド氏が表に出てこようとしているのを、ウスウス気づいていたのだろう。

 もしこのまま、無視してしまうと、ハイド氏は表に出てくることもできず、そのままストレスとなり、自然と、結界を破って、自分が表に出てくることになるだろう。

 そうなると、今考えているジキル博士はどうなるというのか?

 このまま、ハイド氏に則られることにはなりはしないか?

 それを思うと、ハイド氏は、

「一度解放してやらなければいけない」

 と考えた。

 しかし、これはかなり、

「危険な賭け」

 であった。

 ジキル博士が考えていることが本当に正しいとは言えない。

 ハイド氏を解き放つと、それこそ、とってかわられるかも知れない。

 それを覚悟で、ハイド氏を解放した。だから、ジキル博士は、ハイド氏が出てきて、悪行を働いていることも、想定の範囲内だった。

 しかし、それをどうすることもできない。

「あれは、別人格の自分なんだ」

 といっても誰が信用するというのか、そして。

「どうして、その別人格が出てきたんだ?」

 と聞かれると、それを説明しようと思うと、たぶん、相手は途中から分からなくなるだろう。

 あるいは、最期まで聴いたうえで、

「何をバカなことを言ってるんだ」

 と、まるで、妄想に取りつかれているかのように思われるのが関の山だというものだ。

  ジキル博士は、どこまでの覚悟を持っていたのか分からない。

 正直、ハイド氏が、

「バカであってくれれば、対処のしようがあるが」

 と、自分と正反対な性格の持ち主であることに一縷の望みを掛けたのだが、それは無駄であった。

 彼は、かなりずる賢い、そういう意味では、同じ賢さでも、ジキル博士とはまったく違う。だから、理にはかなっているというものだ。

 ジキル博士は、最期の一縷の望みだったのかも知れない思いもなくなったことで、ハイド氏の抹殺を考えた。

 これは、自分で自分を抹殺するという意味で、自殺になるのかも知れないが、そうではない。

 別人格の自分を殺そうとしたが、肉体が一つのために、自分も、

「もろとも」

 抹殺することになってしまった。

 これを自殺というのであれば、

「動機は何か?」

 と言われれば、何と答えればいいのだろうか?

 ジキル博士は確かに、ハイド氏を抹殺した。

 何をどのようにしたのかは分からないが、ハイド氏はこの世から消えてなくなり、ジキル博士も行方不明になってしまった。

 そんなことを考えると、ラストにおいて、まわりの人の中に、

「ハイド氏は、ジキル博士だったんだ」

 ということを理解した人はどれだけいるだろう?

 物語を客観的に最後まで見ているから分かるのであって、実際に物語の登場人物は、基本的に自分たちが、

「存在していないものだ」

 という考えから、これ以上の発想は難しいのではないだろうか?

 ハイド氏という存在を認めるということは、この物語では不可能になってしまった。

 確かにハイド氏は存在したのだが、死んでしまった瞬間に、一番のかかわりがあるはずのジキル博士はこの世から消えてしまったのだから、

「その時点から逆算して、ハイド氏が生まれた瞬間までがなかったことになってしまうのではないだろうか?」

 という考えが浮かんでくるのだった。

 だが、もっと飛躍した発想、

「いや、これが一番もっともなのかも知れないが、ジキル博士は、最初からいなかったのだという発想もありなのではないか?」

 という考えである。

 ジキル博士というのが、架空の存在だとしてしまうと、皆の中にいるかも知れない、ハイド氏も抹殺されることになる。そもそも、そんな別人格は不要なのだ。中には、

「別人格の人間の方が性格的に正義なので、裏の人間がいることで、表の悪を抑えることができる」

 と、言えるのではないだろうか?

 多次元で同一時間軸のパラレルワールドと、たくさんの宇宙が存在するというマルチバース理論、そこには、無限の可能性から始まって、理由付けの密接な関係まで考えていると、結構面白いものであった。

 そんな中において、二重人格性の要素が十分な、

「ジキルとハイド」

 その考え方が、世の中において、いかなる種類の考え方があるか、つまり、

「考え方は、人の数だけある」

 といってもいいことは、

「見減の可能性」

 が証明しているということである。

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