第3話 無限の可能性

 ドッペルゲンガーというのは、

「もう一人の自分」

 ということのようだ。

 あくまでも、

「もう一人の自分」

 であり、よくいう、

「世の中には三人はいると言われる、よく似た人」

 というわけではないようだ。

 しかも、ドッペルゲンガーは、自分の中にいるのではなく、別の場所に存在するという意味で、どこか、

「パラレルワールド」

 や、

「マルチバース理論」

 のようなものを感じる。

 このどちらの言葉、世界に共通したキーワードは、

「無限」

 なのではないだろうか?

「次の瞬間、無限に広がっている可能性、それがパラレルワールドなのだ。しかも、さらにその次の瞬間は、また無限に広がっている。無限の無限倍などということを理解するのは難しい。それこそ、小学生の頃に感じた、「一足す一は二」という感覚に近いものがあるのではないだろうあ?」

 と感じるのだった。

「ドッペルゲンガーを見ると、死んでしまう」

 という伝説のようなものがある。

 それは、ジキル博士は、

「ハイド氏を抹殺するということは、自分で自分を抹殺するのと同じことになるのではないか?」

 と感じたのと同じことであろう。

 ジキル博士が、ハイド氏の存在に気づいたのにはドッペルゲンガーの発想がなかったら、無理だったのではないだろうか?

「もう一人の自分」

 という存在を、自分の中に感じ、そして、自分の身体以外で、表に出てくるということを考えるのは、かなりの無理がある。

 しかも、その間、自分は覚醒することができず、眠っているしかないのだ。

 ということは、その間に相手が何をするのか分からない。同じことが自分だけではなく、他の人に起こっているのかも知れない。

 以前、テレビのオカルトドラマで、

「五分前を生きている」

 という女性の話があったのを思い出した。

 五分前の女は、主人公の女が好きになった男を物色していた。明らかに誘惑しているのだ。

 そして、その女はそのためだけに、表に出てきた。

 表に出てくるということは、自分の寿命を減らしていることに繋がるのを、分かっての上であった。

 だから、他の人にもう一人の自分がいても、決して出てこない。その存在すら隠そうと必死でしているのだ。

 この発想は、

「ジキルとハイド」

 の話に直結している。

 やはり、ジキルとハイドの話は、ドッペルゲンガーの話とは切っても切り離せない関係にあるのだろう。

 そして、この

「五分前の女」

 の話も、ドッペルゲンガーの話であり、ジキルとハイドの話の変形のようなものだといってもいいのではないだろうか?

 それぞれに共通点もあり、共通しない部分は絶えず表に入る部分で、それは、ジキル博士であり、五分前の女では、主人公の女性の個性なのではないだろうか。

 そもそも、どちらも、見た目の性格はまったく違っているのだから。

 それを考えると、

「見た目の性格の裏に、切り離せない深い結びつきの性格が潜んでいるのではないだろうか?」

 といえる考えもあっていいだろう。

 そんな、

「ドッペルゲンガー」

「ジキルとハイド」

「五分前の女」

 とそれぞれの逸話を並べて考えると、その共通点が、人間の生きていくうえで、切っても切り離せない何かを形成しているといってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、他に何か、別の意味での引き合うものがありそうな気がした。

 それを感じたのは、偶然であったが、

「電波障害」

 だったのだ。

 今の時代は、通信関係であったり、ITと呼ばれるものが、どんどん発達してきている。

 しかし、逆に昔信じていた、

「近未来予想図」

 というものが、ほとんど、実現していないのも事実である。

 例えば、

「車が空を飛んでいた李、透明のチューブのようなところを、車や電車が走っている。さらには、ロボットや、タイムマシンが開発されていて」

 という世界である。

 ロボットやタイムマシンが開発できないわけは、自分なりに理解している。

 ロボットに関しては、

「ロボット工学三原則」

「フレーム問題」

 の二つ、そして、タイムマシンに関しては、

「タイムパラドックス」

 の問題である。

 そのどちらも、

「矛盾を説明できない」

 というところから来ていて、タイムパラドックスなどは、世界を一変させ、修復不可能にしてしまうのだ。

 ロボットもタイムマシンも、どちらも、機械であることに変わりはない。ロボットは、自分の意思を持って動くところが、近未来のロボットである。

 そのためには、人工知能が必用になるが、その人工知能と人間の本当の頭脳との違いが、

「フレーム問題を解決できるかできないか」

 ということにかかっている。

 フレーム問題のキーワードは、

「無限の可能性」

 である。

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」

 ということになるのだ。

 しかし、フレーム問題の、どうしても超えられない壁というのは、この、

「無限の可能性」

 なのだ。

 無限にある可能性が、次の瞬間には待っているということなので、何か行動しようとすれば、その可能性を考えて、そして行動することになる。

 時間的な問題もあるだろうが、それよりも、

「可能性を漏れなく考えられるか?」

 ということである。

 つまり、

「人間が考える無限の可能性と、ロボットにおける無限の可能性が、同じものなのだろうか?」

 ということである。

 人間の考える可能性は、実際に目の前で発生していることを理解して、基本的には、それとはまったく無関係だと思うことを普通は考えないだろう。

 例えば、目の前の信号を渡ろうとするとき、

「信号は青だろうか?」

「左右から車両や人は来ていないだろうか?」

 というようなことを考えて、問題なければ、前に進むだろう。

 しかし、ロボットの人工知能は、それ以上にまったく別のことを考えるだろう。

 たとえば、

「空から槍が降ってきたらどうしよう?」

「車は来ていないけど、ライオンの大群が渡ってきたらどうしよう」

 などという、ありえないことまで考えてしまう。

「ありえない」

 というのは、あくまでも、人間が頭で考えて、

「ありえない」

 と思うことであって、逆にいえば、人間以外に、何がありえないのかということを聞いても、まったく違うことを考えるに違いない。

 下手をすると同じ人間でも、微妙に性格も判断も違うのだ。それを思えば、ロボットのように、

「自分たち人間がつくったものだから、人間にかなうわけはない」

 という思い込みもあるから、余計に、ロボット開発が進まないのだろう。

 それは、どこか、

「合わせ鏡」

 あるいは、

「マトリョーシカ人形」

 に似ている。

 つまり、最期には、

「限りなくゼロに近くはなるだろうが、絶対にゼロにはならない」

 という考えにも落ち着くのだ。

「無限の可能性」

 を加算方式だと考えると、

「無限の可能性」

 の次の瞬間には、またそこから、無限が広がっていることになるのだ。

 つまりは、

「無限に無限を掛けても無限。この三つの無限は言葉は同じだが、明らかにすべてが違うということになるのだ」

 ということである。

 これを一種の、

「加算法の限界だ」

 というのであれば、減算法の限界というのは、

「限りなくゼロに近い」

 というものではないだろうか?

 減算法という言い方をするからそうなるのだが、除算法と言った方がいいかも知れない。

 普通、満点から、先に進むごとに減算していく場合、テストなどのように、それぞれに最初から点数がついていて、達成できなければ減っていくというものだが、それよりも、点数がついているわけではなく、

「達成できなければ、半分ずつ減っていく」

 というようなゲームであれば、

「2で割る」

 ということから、除算法となるだろう、

 どんどん2で割っていくとする考えは、合わせ鏡やマトリョーシカ人形のように、

「入れ子の状態」

 になっているとすれば、それは、

「いずれあ、1よりも小さくなるかも知れないが、ゼロにはならない」

 つまり、

「まったくなくなってしまうということはない」

 ということだ。

 減算方式であれば、1から1を引けば、ゼロになる。そしてゼロから1を引けば、マイナス1になるというものだ。

 減算法と、除算法の決定的な違いは、

「ゼロからマイナスになるか、それとも、ゼロに限りなく近い状態で、ゼロにすらならないか?」

 ということになるのである。

 フレーム問題は、そんな加算法の無限というものと、さらには、可能性というものを組みわせたもののように思えるが、考えてみれば、

「可能性」

 というものは、元々無限なのだ。

 それを、ロボットは、

「起こりえることすべてが、可能性」

 だと判断し、人間は、

「起こりえることの中で、考えられることだけを選び出したものが、可能性だと思うだろう」

 つまり、考えられることというのは、その言葉の上に、

「人間が考えて」

 ということになるのだろうが、逆に言えば、

「考えることができるのは、人間しかいない」

 ということであり、この考えがある以上、

「人間と同等、あるいは、人間以上のものをロボットに求めることは、人間としての、矛盾と追求するものだ」

 といえるのではないだろうか?

 これは、神話の世界にも言えることなのか?

 今度は逆に、

「人間が、神というものをソウゾウする」

 という考え方に立っている。

 基本的に、神は人間よりも上であり、何と言っても、創造主であるのだから、前述のように、創造主である神が、創造物である人間よりも上でなければ、理屈に合わないだろう。

 実際に、人間は神を、

「想像することはできても、創造することはできないのだ」

 ただ、ここで、いじわるな発想をするとすれば、

「人間は、神が作ったということであれば、それはそれでいいだろう。しかし、神は一体誰が作ったというのだろう?」

 ということになってくる。

 この考えは、まるで、昔の漫才のネタにあったような、

「地下鉄って、どっから入れたんでしょうね?」

 という発想に行き着くのではないだろうか?

 それを考えてみると、またさらに、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という発想にもなってくる。

 これも、ある意味、

「無限×無限」

 という発想と似たものがあるのではないだろうか?

 本当は先があるのかも知れないが、それを敢えて考えないようにするのは、そこから先、いくら考えても答えに行き着くことはないという発想からではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「さらに、可能性と無限という言葉の結びつきが深い」

 と思えてくるのだった。

「フレーム問題とは、ロボットにも、人間と同じように、「考えて」絞ることのできる可能性を考える力を備え付けることが大切なのだ。ということは、何かの可能性をすべて、パターンとして覚えこませておけば、そのパターごとに考えればいいように組めばいいだけではないか?」

 ということであった。

 しかし、普通に考えると、それは、無理な話であって、そもそもが、

「無限というものから、除算法で、パターン化したとしても、そのパターンだって、無限にある」

 というわけなので、絞ることはできないのだ。

 それが、

「この瞬間の次の瞬間が、無限×無限」

 という発想になるのと同じで、しかも、先ほどの発想の通り、

「可能性はつまりは、無限ということだ」

 という考えに合致してしまうのだ。

 普通であれば、話はここで終わってしまうのだが、

「可能性を限りあるものだと考えれば、果たして、無限にある考え方を、分割できるのだるか?」

 といえるだろう。

 しかし、それこそ無理な話で、

「無限というものは、何で割ったとしても、無限でしかない」

 ということなのだ。

 普通算数だったら、同じものから同じものを割れば、答えは1のはずなのだが、無限だけはそうとは限らない。

 無限から無限を割れば、そこに出てくる答えは、やはり無限なのだ。

 これは、

「無限というものが、一つではない」

 という発想からくるもので、前述のマルチバース理論のように、

「宇宙は無数の宇宙からできている」

 という発想で、その数は?

 というと、

「10の500乗にあたる」

 つまりは、無限といってもいい。

「限りなく無限に近い」

 というものだ。

 そもそも、無限というのは、ひょっとすると、限界のあるものなのかも知れない。

 しかし、それを証明することが困難な場合や、人間の想像をはるかに終える場合など、便宜的に、

「無限」

 という言葉を使っているのだろう。

 そう考えると、無限には、本当に無限に種類があるという考え方のできるわけで、それが、フレーム問題を、解決できないものとしているのだ。

「フレーム問題」

 というのは、神の領域だと言えるのではないだろうか?

 人間とは都合のいいもので、自分たちの頭で解決できないことを、いかにも存在するものとしての、神を創造し、そこで理解できているかのように洗脳する。それこそが、宗教というものではないだろうか?

「人間の頭で解決できないことは存在しえない」

 という傲慢さが、人間を、

「無限地獄に叩き落し、その解決方法として、神なるものを作り出し、人間を創造したことにしてしまえば、神の領域に入り込むことをタブーとすることで、自分たちの言い訳を神に押し付けることができる」

 という考えは、かなり強引ではあるが、

「いかにも人間らしい考えだ」

 といえるのではないだろうか?

 そしてロボット開発で問題なのは、

「ロボット工学三原則」

 と言われるものだ。

 これは、工学者が考えたものではなく、元々は、

「ミステリー作家の、自小説の中でのネタ」

 であったのだ。

 元々は、以前からあった、

「フランケンシュタイン症候群」

 と呼ばれる考え方で、

 これは、

「ジキルとハンド」

 にも言えることであるが、

「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった博士の話」

 である。

 ジキルとハイドも、もしジキル博士がハイド氏の本当の恐ろしさを知らなかったとすれば、不可抗力で作ったことになる。そうなると、これも一種の、

「フランケンシュタイン症候群」

 の一種になるのだろう。

 ただ、ジキル博士が知らなかったということは、正直考えにくい気がする。

「ジキル博士が、ハイド氏の存在を分かっていてこそ、この話は辻褄が合っているのだ」

 といえるのではないだろうか?

 フランケンシュタインというのは、ある博士が作ろうとした、一種のロボットのようなもので、人間を支配したり、人間を壊すということを覚えてしまったことで、人間の敵になってしまった。

 そもそもが、

「生身の人間にできないことを代替えしてもらおう」

 というロボット的な発想から生まれたという。

 いかにも人間の発想らしいものからの誕生で、なまじ力が強く、凶暴なので、創造主である人間が、相手に負えないということになってしまったのだ。

 だが、この発想は、逆に人間が、

「神の領域を犯した」

 という発想に行き着くのかも知れない。

 つまり、聖書の中に出てきた、

「バベルの塔」

 の発想である。

「ニムロデ王は、神に近づくために、バベルの塔を、配下に作らせ、そして、ある程度までできたところで、天に向かって矢を射った。どのようなつもりなのか分からないが、神からすれば、人間ごときがと思ったに違いない」

 そこで神は人間に対してバツを与えるため、人々から共通の言葉を奪い、誰一人として、何を喋っているか分からなくなった。

 そのために、人々は疑心暗鬼になり、仕事を放りだして、全世界に散らばっていったというのが、大まかな話である。

「神にたてつく行動をとるとどうなるか?」

 あるいは、

「世界にさまざまな人種、言語が存在していることの意味を、この話で解いている」

 ということになるのだろう。

 そもそも、バベルの塔と、何の目的で作ろうとしたのかも分からない。

 飛躍した考えであれば、そのはるか昔に起こった、

「ノアの箱舟を思い出し、洪水になっても、陸の部分が存在するような巨大な塔を作ろうとしたという考えは、果たしてどうなのだろう?」

 一つの疑問が、考え始めると止まらなくなるのも、

「無限の可能性」

 といえるのではないだろうか?

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