第2話 二重人格
岡本が中学時代から高校に上がる頃には、中学受験の時の経験があったので、決して、レベルの高い学校を目指すようなことはしなかった。
「もう一つ上の学校でも、難しいわけではないんだけどな」
と先生から言われたが、
「いいえ、ここでいいんです」
と、本人が、頑なに主張するのだから、先生も、従うしかなかったのだ。
親も先生と同じで、
「いつからあんた、そんなに消極的になっちゃったんだい?」
と、親は言った。
中学受験の時は逆に親から、
「そんなに無理しなくたっていいじゃないか? 自分に合ったところが一番いいんだ」
といっていたにも関わらず、
「なぜいまさら」
と思うのだ。
実際、あの時親の言うことを聞いていれば、と、何回後悔したことであろうか?
しかし、それは後の祭りであり、逆に、
「いい経験をした」
という意味でいけば、悪いことではなかった。
だが、まさか、親も自分たちが言っていたことが、子供に対して当たっていたと思っていなかったのだろう。
それとも、自分たちが言ったことが、悪い予感の方であり、的中してほしくないと、後からでも、感じたことだったのだろうか?
それを、岡本は感じていたのだった。
そして、
「まさか、自分が親と同じことを考えるようになるなんて」
と思うと、
「ひょっとすると、親は自分の学生時代の経験を思い出していたのかも知れないな」
と感じたのだ。
「俺も大人になって子供を持つと、同じことを考えるようになるのかな?」
と思ったが、その時に考えたのが、
「親が今の自分くらいの頃って、同じような、学校教育だったり、学校生活だったりしたのだろうか?」
という思いだった。
子供だったということに変わりはないだろうが、実際に、時間が経ってみれば、どう感じるかということは、忘れ去ってしまうものなのかも知れない。
逆に、自分が子供の頃は、親から怒られていたことで、理不尽に感じることは、
「自分が親になったら、絶対にそんなことはしない」
と思うに違いない。
しかし、実際に親になると、やってしまうもののようだ。
それは、
「昔の自分のことを忘れてしまっているからなのか?」
それとも、
「覚えてはいるが、子供の頃と今とでは、立場であったり違っている。しかも、自分は大人になったんだという自覚があることから、子供の頃のことが、本当に子供の考えだ」
と思うことで、子供の頃とは変わってしまったのだろうか?
そのどちらかの気もするが、どちらでもないように思う。
そのどちらもだと感じるのは、無理のあることなのだろうか?
一見、相違していることに見えるが、結果は同じこと。だったら、別に違うこととして考える必要もないのではないだろうか?
結果が一緒で、プロセスが違うことなど、この世の中には、山ほど存在している。
小学生の頃の算数だってそうじゃないか。
途中の理論が合っていれば、どんな解き方でも、正解なのだ。
つまりは、
「鶴亀算で解こうが、植木算で解こうが、数字を当てはめて解こうが、正解は正解だ」
ということになる。
しかし、正解であっても、そこには、ランクがある、
先生によっては、説き方の好みで、その問題が10点満点であれば、5点とか3点とか、先生なりの原点方式で、採点する人もいるだろう。
それはそれで、先生側からすれば、間違ってはいないのだ。
算数や数学を、学問として考えるか、それとも、受験科目として考えるか。その違いによって、どう考えるかということが決まってくる。
そして、岡本は、高校をかなりレベルを下げた学校に行き、
「中学校の時は、進学校だったのに、どうして高校で、こんなレベルのところに来たんだ?」
と言われていた。
実際に、レベルはワンランク、岡本に比べれば低かった。実際にクラスではトップクラスで、
「さすがは、俺たちとは中学のレベルが違う」
と一目置かれていた。
しかし、まわりに、仮想敵がいないと、その人や団体は緩くなってしまうもので、油断というものが生まれてくる。
そのために、次第にだらけた頭になってきて、
「どうせ勉強などしなくたって、いつまでも、俺がトップさ」
と思っていたのだった。
それは、まるで、
「ウサギとカメ」
のウサギであり、後ろがずっと遠くにいるので安心しきって、眠ってしまい、結局追い越されてしまったということになるのだ。
もちろん、カメが追い越そうとしている時、ウサギを起こしてくれるわけではない。
「ウサギさん、起きないと、俺たちゴールしちゃうぞ」
というわけもない。何しろ、鈍重でやっとのこさゴールに近づいたカメが、まわりのことにかまっていられるはずなどないからだった。
気が付けば、自分だけは、ルートの途中で寝ている。
「油断した」
といって、地団駄を踏んでももう遅い。
だが、ウサギはそんなに悔しがるだろうか?
あくまでも、自分が油断したから競争に負けただけで、負けたからといって、それがどう影響するかも分かったものではない。
逆に、
「ウサギに対して、自信をつけさせてやったんだから、それはそれでいいんだ」
と思っている。
偏屈な考え方ではあるが、その考えが、ひょっとすると、
「サディスティックなものなのかも知れない」
と感じた。
恩着せがましいと言えばそれまでなのだが、あくまでも言い訳にしか聞こえてこない。
だが、岡本はその時のウサギにはなりきれなかった。
カメに追い越されたのは、あくまでも自分の油断なのだが、油断を引き起こした自分のどこに問題があるのかを考えると、小学生の頃に宿題が出ていたことすら覚えられなかった自分を思い出すのだった。
つまり、どこかで感覚がマヒしてきたかのような気がして、時間の感覚すらも分からなくなるほどに、自分の頭が混乱してくることから、余計に、忘れてしまうものではないかと、宿題を忘れたことも解釈しようと考えていた。
だからこそ、感覚のマヒを意識できるかできないかで、忘れていたことを解釈できると思うようになった。
感覚がマヒしてきたことで、
「まるで、夢を見ていたようだ」
と感じるのは、それだけ、
「時間の感覚がマヒしているからではないか?」
と思うのだ。
そんなことを考えていると、確かに感覚がマヒしてきて、あまり深く考えなくなった。それは、
「逃げ」
のようなものではないかと感じたのは、それが、まるで麻薬中毒になった禁断症状前の、昇天した感覚なのではないかと思ったからだ。
しかし、目が覚めてくると、そこに残るのは、
「恐怖、妄想、羞恥」
などと言ったネガティブで、
「精神を蝕む」
という感覚でしかないものではないだろうか。
それを思うと、精神的なことが、妄想となってくると、意識の中で、
「限界が分かっているのか、それとも分かっていないことが一番の恐怖だと感じるというのか?」
ということにかかってくるのだと思うようになってきた。
だから、高校に入って、最初はトップクラスであり、いつの間にか追い越されていることで、自分の甘えが引き起こした逆転劇。あっという間の出来事に、恐怖を感じたのだ。
高校時代というものが、元々、
「大学受験のための、準備でしかない」
と思っている人、
それ以外に、青春学園ものに憧れてか、
「高校時代にしかできない恋愛だったり、スポーツをする」
と思っている人のどちらかであろう。
帰宅部は、そのうちに、受験というものに、埋め込まれてくる。スタートが遅かったということで焦ってみたり、くらんだりするのは、やっと現実に戻ってきた証拠であろう。
ただ、高校時代というのは、
「自分が今まで考えていた通りになってきた時代とは、そのスケールが違う」
ということを思い知らされることであろう。
中学時代までは、義務教育。しかし、高校からはそうではない。
勉強したくないもの、勉強している人間の邪魔をするもの。そんな人間を、学校は、
「別に来てもらう必要などないんだ」
ということで、何かあれば、退学にさせて、完全に、
「腐ったミカン」
を、放りだせば済むということになるのだろう。
学校の先生にも、いろいろな人がいる。
ただ、授業を教えるだけで、生徒と関わろうとしない先生、そんな先生は生徒に見透かされているので、誰も授業をまともに聞こうとしない。下手をすれば、自習よりもうるさいくらいで、先生も、
「何とか無事に終えてくれればそれでいい」
と思っていることだろう。
ただ、先生の中には、特に、イメージとして体育教師などは、
「いつも竹刀を手に持っていて、生徒を威喝している。しかも、考え方は昭和の頃と変わっておらず、スポーツで汗を流せば、理不尽に感じていることも、解決する」
と思っている、いかにも理想主義者のような人もいるようだ。
「理想主義者が、竹刀を振り回して威嚇しないと、相手と話もできないとは、一体どういうことなんだ?」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「その先生も結局は臆病でしかない」
と、言えるのではないだろうか?
「暴力や威喝が通用するのは、相手が、この人は、芯が強い人だということを、自分だけではなく、まわりの人誰でもいいから、一人だけでもいいので、分かってもらうことができるかどうか?」
ではないかと、思うのだ。
確かに、臆病と、空元気とは、まったく違うものに思えるが、実際には、背中合わせなのかも知れない。
それを考えると、
「著書と短所」
だと言えるのではないだろうか?
そこに、その人の二重人格性があり、前述の、
「神経質な人間と、いい加減な人間との違い」
ということが、改めて考えられるというものではないだろうか?
「二重人格に思えることであるが、実際に、二重人格というものがどういうものなのか?」
よく言われることとしては、
「ジキルとハイド」
が例として言われるが、そこから考えていくのが、普通なのではないだろうか?
ジキルとハイドというのは、完全に性格的に正反対の人間のことだ。
「一人の人間にまったく違った性格が潜んでいる」
という、ウソのような話であるが、ありえないことではない。むしろ、考えられることである。
しかも、それは、この作者が小説を書くまで、ずっと言われてきたことなのかも知れない。
それを思うと、信憑性というのは、かなり昔からあったのだろう。
それを小説にこの時初めてしたというのは、
「どこか、書いてはいけない、タブーのようなものがあった」
ということなのではないだろうか?
解禁されたわけではなく、勇気をもって書いた。
あるいは、それまでと違った荒らしいものを求める風潮があったのかも知れない。
「時代はあくまでも、新しいものを求める」
そんな感覚が芽生える時期が、周期的に訪れるものとして、その代表例として、
「ジキルとハイド」
という作品があったのかm知れない・
それを思うと、この作品は、古風なところと、新しいところが融合しているといっても過言ではないだろう。
そういう意味で、
「時代は繰り返す」
というが、そのたびに、進化していて、まるで、
「正のスパイラル」
とでもいえるように、登り竜を呈しているのかも知れない。
そんなことを考えていると、ジキルもハイドも同じ人間、どちらが主人公なのだろうか?
と考えてしまう。
ジキル博士は、気が弱く、
「自分の秘めたるもう一つの一面を表に出すことができれば、さぞや気持ちいいのではないか?」
と思うことで、ハイド氏を引っ張り出す薬を生み出した。
しかし、想像以上にハイド氏は、恐ろしい人間だった。
妥協もなく、人の気持ちなど一切考えない。自分のことを考えるというよりも、人への妬みだけで存在しているような男。
つまり、
「ハイド氏のターゲットは、ジキル博士なのだ」
といえるだろう。
ということは、ハイド氏はジキル博士の中で、眠っていたわけではなく、表に出ることができずに、くすぶっていただけなのだ。
つまり、うずうずしていたといってもいいだろう。それだけに、怒りの度合いもハンパではないのだ。
だからこそ、そんなハイド氏を表に出した時点で、もうジキル博士の運命は決まっていたといってもいい。
しかし、ジキル博士ほどの人、
「つまりは、ハイド氏の存在を予見できた」
という人が、破滅への道を予見できなかったのだろうか?
そんなことはないだろう。分かっていて、ハイド氏を目覚めさせたのかも知れない。
「まさか、ジキル博士が自殺を考えていた?」
ありえないことではないが、少し飛躍しすぎた考え方だ。
「ジキル博士というのは、先を読む力があるような気がする」
と、文章評論家のような人が言っていたような気がする。
ジキル博士は、ハイド氏を抹殺したかったのかも知れない。自分も死ぬという覚悟でである。そこまでして抹殺したかったのは、
「ハイド氏がいると、自分の将来に未来はない」
と感じたのかも知れない。
そこまで思わないと、まず、ハイド氏を表に出そうなどと思わないはずだ。
「表に出さないと、抹殺することもできない」
と思ったのだろうが、ハイド氏も同じだった。
自分が表に出てくることで、ジキル博士を抹殺したいと思ったのだろう。お互いに自分を抹殺しようというのは、恐ろしいことだ。
しかも、身体を一つにしてのことである。まるで、鏡の中の自分を壊そうとしているかのようである。
ジキル博士が、
「ハイド氏のような人間をこの世に生み出せばどうなるか?」
ということは、分かっていたことだろう。
まずは、ジキル氏を抹殺し、自分が表舞台に立とうとするに違いない。
だが、その前に、
「どうして、ジキル博士は、自分の中にハイド氏がいることを知ったのだろうか?」
その方が気になる。
(正直、作者は、この話を完全に読んだわけではなく、勝手な想像で書いているので、そこは、ご了承ください。そして、作者の中で、「自分ならこう書く」という思いがあるということも考慮に入れて見ていただきたい)
たぶんであるが、ジキル博士は、他人を分析しているうちに、自分との違いが見えたのではないだろうか?
他人が、意識していることに、その本人だけでは説明のできないようなちょっとした行動が出ている。だから、
「人の心は分からない」
と言われるのではないだろうか?
自分のことも他人は、
「変わり者」
と思っていたりするだろう。
つまりは、
「人の数だけ、それぞれに性格があるということで、しかも、同じ人間にでも、別の性格が宿ることがある、しかも、それがまったく正反対のその人であったりする」
という考えに至った時、
「人間の二重人格性」
であったり、
「その人以外の、誰かの影響を受けているものとは違う独自の性格がその人に宿っているのだ」
という考え方であった。
それを見ているうちに、
「ハイド氏が自分の中にいるのだ」
と思った。
その時、ハイド氏が自分に対して恨みを持っていることが分かると、きっとそれは、
「自分がいるために、表に出れないことで、ストレスが溜まり、恨みを持っているに違いない」
としか思えなかった。
だったら、
「そのもう一人の自分を呼び出せばどうなるのだろう?」
という考えが浮かんでくる。
しかし、実際に、呼び出せるわけもない。
「今まで自分と同じようなことを考えた人が、それぞれの時代に一人くらいはいるはずなので、その人たちができなかったことを、自分ができるはずがない」
と思っていたのだとすれば、どこで、ハイド氏を呼び出す薬を作るきっかけになったのかということである。
逆に考えると、
「ハイド氏を呼び出したいがために、科学者になった」
といってもいいだろう。
どうしても、ハイド氏を呼び出したいと思うようになり、そのうちに、呼び出すと結末は、分かっていたということになるのだろうが、もうそこまでくると抑えることができなくなった。
おそらく、自分の中にいるハイド氏の力が及んできて、もうジキル博士には抗う力はなかったのかも知れない。
元々は同じ人間、力も均衡しているといってもいいだろう。抑えようと力を入れているハイド氏、だが、心の中では、どうして遠慮があるのか、力が入らないジキル博士。ハイド氏の正体を掴むことなどできるはずもないのだ。
それだけはハイド氏も必至であり、
「ジキル博士が一番のダメージを受けるのは、自分の力で、ハイド氏を呼び出すということに他ならない」
ということである。
ジキル博士にとって、ハイド氏、ハイド氏にとってジキル博士、力の均衡は最初から目に見えていたのだ。
そんな二人にとって、特にジキル博士の立場からということになるが、たぶん、ある時から、ハイド氏の行動パターンや、考え方が分かったのではないかと思うのだ。
たとえば、二重人格性というのも、
「自分にないところを持っている」
あるいは、
「自分が考えていないことを、強く考えている」
などという、自分と正反対を考えればいいのだ。
しかし、考えていないことを考えることは難しく、できるとすれば、相手と正反対のことを考えることしかできないのだ。
相手が考えていることを普通はなかなか見抜くことはできないが、案外自分と正反対というのも難しいものだ。
自分が何を考えているかということを、絶えず考えていて、そして、心境の変化などにも自分なりについていけるかどうかを考えなければいけないだろう。
それを思うと、ジキル博士がハイド氏の心境を分かったというのは、それだけジキル博士は、事故分で気を日ごろからしていたということだろう。
逆にだからこそ、他の人には、もう一人の自分がいても、その存在になかなか気づかないといってもいいのではないだろうか?
どの人にも必ず、もう一人の自分が隠れているとは限らないが、可能性からすれば、
「ほぼ全員だ」
と思っていいのだろうと感じるのだ。
それを考えると、ジキル博士とハイド氏は、おたがいの中にある、
「心の葛藤」
が、お互いに、相手を意識させるに至るのだろう。
だからこそ、相手の気持ちや行動パターンが分かるのだろう。
嫉妬であったり、引き合っているという、正反対の性格との矛盾。そんなものがあるのではないだろうか。
嫉妬という感情は、結構厄介だ。
しかも、その厄介な嫉妬の塊が、ハイド氏だというわけだ。
ハイド氏から嫉妬を取ってしまったら、何が残るというのか?
それを考えると、ハイド氏に対して、分からないことも結構あるのかも知れない。
そのうち、
「ハイド氏を抹殺しなければいけない」
と真剣に考えるようになった。
そもそも、ハイド氏の存在を知っていて、その存在に危険視もしていた。だが、それを抹殺しなければいけないとまで思ったのは、
「ハイド氏を引っ張り出したい」
と思った時からではないだろうか?
そうでも思わないと、何も、無理にハイド氏を引っ張り出す必要などないのだ。
それでもハイド氏を引っ張り出すというのは、危険なことであるのは分かっている。当然ハイド氏は、自分を意識し、自分を陥れるほうで動くというのは、最初から分かり切っていることだ。
ジキル博士にはそこまで非常になることができない自分を感じる。それが、
「普通の人間」
つまり、表に出ている人間なのだと思った。
だから、ハイド氏は、
「ひょっとすると、表に出てこれないのではないか?」
と感じたが、そうでもないようだった。
ハイド氏は、薬の影響で表に出てきた。そして、ジキル博士の知り合いと称して、悪いことを重ねる。
当然ジキル博士が出ていった時、自分でも分からないところで、問題が起こっているというわけだ、
ハイド氏は、ひょっとすると、自分が抹殺されるか、自分が逆にジキル博士を抹殺するかのどちらかではないかと思っていただろう。
もっといえば、
「やるかやられるか?」
あるいは、
「やらなければ、やられてしまう」
という考えを持っていたのだろう。
それは、ジキル博士も感じていたことに違いない。
しかし、ジキル博士は、
「ハイド氏は自分が生み出したもの」
という背徳感があり、
「自分が死んだとしても、ハイド氏を巻き込んで死ぬ」
というくらいの覚悟を持っているようだ。
いつ頃から、ジキル博士が、自分の死を覚悟したのか分からない。
しかし、ハイド氏を呼び出す薬を飲んだ瞬間から、その運命の歯車は動き始め、もう止めることなど誰にもできなくなってしまったに違いない。
死んでしまうということを覚悟したというより、最初からあった歯車に乗っただけではないだろうか?
ドッペルゲンガーを見た人が死を覚悟するのと同じではないかと、今では思えるのだ。
そう考えると、
「ドッペルゲンガーというのは、自分の内面にある、正反対の性格の自分が、表に出てきたことだ」
といえるのではないだろうか?
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