第20話
1984年。六月十一日。
この日の昼食では、鮎の塩焼きを堪能した。誰かが龍明に、お召し上がりくださいと、たいそうな量で送ってきたらしい。炭火で焼いた鮎は、みながもう良いというまで、何皿も運ばれてきた。鮎が好きな私には、ありがたいご馳走だった。
木の芽味噌の緑が鮮やかな、豆腐の田楽。鮎飯とけんちん汁。野菜の甘酢漬。律さんの手料理は、この日も変わらずに美味かったが、この日の昼食の空気は、美味かったとは言えない。
私もいて、怜於もいる席で、不愉快を露にする。龍明とチカちゃんは、それほど幼い人間ではない。けれど、二人の間には、やはり微妙な空気が漂っていた。チカちゃんから、諍いのあらましを聞いた私は、二人の顔色を、つい伺ってしまう。怜於は黙々と食べていた。時々気難しい顔で、二人の顔を見比べていた。
船の食卓につく、主要な人員は、みなよく舌が回る。食卓の会話は、愉しく弾むのが常態だが、この日は弾んだとは言えない。和やかさも楽しさも欠く食卓だった。
居間で怜於と龍明の演奏を聴きながら、知毅かチカちゃんと、チェスや囲碁に興じたこともあった。久世くんや薫の君も交えて、庭で会話を楽しんだ日もあった。授業の日は、そんなお楽しみの数時間を過ごしてから、船を後にする日も多かったが。この日の私は、昼食が終わると、即座にお暇を告げた。
チカちゃんと龍明の仲を守るために働くか。知毅とチカちゃんの恋を実らせるために働くか。とりあえず一人になって、早急に自分の心を決めたいと思ったのだ。
出ていきたくはないから、とりあえず別棟に出て、留まった。けれど二人のもとから去りたい、どこかに行きたいとも、たぶん思っている。そんなチカちゃんを止めるために、早く心を決めて、なんとかしなければ。私はそう焦っていた。
縁結び役なんてしたくもないし、夫婦仲に嘴をはさみたくもないが、龍明と知毅とチカちゃんの仲については、黙って見ている気にはなれなかった。
怜於と龍明とチカちゃんと公爵がついてきて、ポーチで見送ってくれた。小さな猫のレディも、ちょうどポーチにおられた。
「じゃあ、また」
少し話をしたいんだが。もう少し話を聞けよ。俺、聞きたいことがあるんだけど。人三人から、そんな無言の声を感じたが、とりあえず今日は帰らせてくれと、私はポーチに背を向けた。
船の授業には、基本自転車で通った。玄関前に自転車を止めておくと、善さんが手入れをしてくれた。この日も綺麗に磨かれた自転車を押して、船を後にした。来た時より、車輪も軽快に回るような気がした。
ポーチの人々はすでに見えない、門にたどり着くまで、あと300mほどの地点で、背後に駆け足の気配を感じた。振り返れば、怜於が凄い速度でやってくる。私に追いつくと、「そのへんまで送る!」と言い切った。辞退を拒む勢いだった。私が歩き出すと、隣に並んだ。
「何が聞きたい」
仕方なくそう訊くと、怜於は言った。
「昼飯前に、結構長く話してただろ。一凛は、何を怒ってるんだ?」
二人の男に思われ、二人を思って苛立つ。チカちゃんの心を危ぶんでいた私は、事態をよけいに混乱させていた怜於を、じろりと見て言った。
「この家の女主人が、断固拒否したら、龍明だって君を家に置くことを、考えたはずだ」
怜於は私の顔をちらりと見た。
「何だよ。突然」
私は歩きながら、言葉を続けた。
「縁もゆかりもない君を、家に置くことを、彼女は気持ちよく認めた。彼ほどじゃなくても、君を可愛がっていた」
怜於は黙って聞いていた。
「思春期に突入した君に、夫が好きだなんて、喧嘩を売られて。この家から出ていけと怒鳴らない。彼女の寛大な心に、君は感謝すべきだな」
こんな意見をしても応えない。怒りだすだろう。そう思っていたのだが、怜於は怒らなかった。意外なことを言った。
「そうだな。俺ならそう怒鳴る。でも怒鳴られたことはない。一凛に、孤児を追い出すようなことはできない。気に入らない相手でもな」
私が怜於の顔を見ると、にやりと笑って、こう続けた。
「良い女だ。男として生きるなら、俺はチカか信乃みたいな女を、奥さんにしたい」
「信乃?」
「睨むなよ」
「君にはナオミちゃんがいるだろ」
「ナッチはもちろん俺のもンだ。三人とも、それぞれ良い」
「呆れた奴だな。男女どちらになっても、重婚希望か」
「あんただって、一時随分お盛んだったって。クゼッチは言ったぞ。その頃の本命は男で、そいつはそれが原因で、あんたから逃げたんだって聞いた」
あの男は、ろくなことをこの子供に教えない。内心でそう呟いて、私は船の通用門を押した。
いつもは門を出たところで、自転車に乗って走り出すのだが。この日は怜於がついてくるので、自転車を押して歩いた。
長谷の住宅街の道を、怜於とともに、だらだらと歩いた。
鎌倉は今だって、平日に住宅街に入り込むと、道を行く人が少ない。この頃はほんとうにまだ、静かなものだった。
「一凛は美人で、カッコいい兄貴で、良い女だ。言っただろ。俺は彼女が好きだって」
「しかし彼女を家から追い出すつもりだ」
「そんなつもりはない」
「あの二人の離婚を望んでる。離婚となれば、彼女は出ていく」
「チカはあの家が、もう実家より好きなのに?」
「離婚した妻と同居したまま、彼が君と結婚したとする。この家にはまた、おかしな家という評判がたつ。またおかしな噂が増える」
「人が言うことなんて、どうでもいいじゃん」
「チカちゃんはみっともないことが嫌いだ。出ていきたくなくても、離婚したら、さっさと出ていく」
「龍は自分のもんだって、一凛が、断固主張したら。俺は龍のこと、諦めたかもな」
「君に喧嘩を売られて。彼女もむっとしたんだろう。君が彼を落とせたら離婚する。彼を譲るなんて言ったのは」
「とれるもんならとってごらんなさいってか」
「君はあしらわれたんだ」
「そうだな。二人が好きなんて俺が言うから、ムッとしたのかもしれない」
「わかってるじゃないか」
「俺をあしらうなんて、一凛の失敗だ。絶対奪ってやるって、そんな気になっちまった」
「呆れた奴だな」
怜於は鼻息荒く舌を出したが。舌をしまうと、物憂げに言った。
「でもあの人、どっちか一人なら、俺に任せてもいいと、思ってるんだぜ」
レオレオなら良いかなって思ってる。
俺はあの坊やが好きだし。あの子とリューチンは相思相愛だし。あいつは俺よりリューチンを幸せにできる。そんな気もするんだよな。
彼女はそんなことを言ったが、あれは本気だろうかと、私は内心で首を傾げた。
怜於は言った。
「中一の冬に、はじめて生理がきてさ。市川先生が、俺の体について、詳しく教えてくれた。病院から戻った時、最初に会ったのは、チカだった。俺は、俺の事情を知ってるうちの人間にさ、話を聞いてもらいたくてたまらなかった。チカに言った。びっくりだよな。俺、妊娠もするらしい。その時忠告された。二人と付き合うのは無理だ。まずはどっちかに決めろって。あの時は真顔だった」
彼女はそのことを気にかけて、検査を受けてきたらしい。龍明からそう聞いた。もし検査を受けて、原因が自分にあり、その原因がどうにもならないと判明していたら。龍明の子供好きを思い、身を退いても良いと、思うかもしれない。そういう人ではある。
「俺も複雑なんだ。チカは好きだ。追い出したくなんかない。俺に任せるか。あの人にそんな顔をされると、焦るし。ちょっと可愛そうな気もする」
「傲慢に、何を言う」
「でも時々ぶっ殺したくなる。あの二人、家だとさっぱりやってるけど。一緒に出掛けると、なかなか帰ってこないんだ。泊ってくることだって結構ある。帰ってくると。チカから龍の匂いが、ぷんぷんする。イヤらしい」
「あの二人は結婚してるんだ」
「そうさ!でも、一凛は知毅のことも好きだ。チカだって、二人とも好きなんだ」
知毅については、長い間ずっと好きだった。あっちが振り向いたら、思い切りがたいさ。言っても仕方がないことなので、心のなかでそう庇った。
「知毅は一凛を、諦めてたみたいだけど。この頃また、一凛の気持ちが気になるみたいだ」
怜於と知毅を結びつけたくはないが、知毅を庇いたい。怜於と知毅の婚約を解消すべく企んで、知毅とチカちゃんを結びつけたいが、龍明のために、躊躇も感じる。そんな私は、もごもごと言った。
「君の気が変わらない限り、君と結婚する。あいつはそう言った」
怜於は笑った。
「仕方ないね。うっかり求婚しちゃったからな。俺にナッチとの交際をすすめてる。女の子に走ってくれたらと願ってるんだ」
「それは君のことを思う、親心だ」
「わかってるよ。知毅は、色恋のことで、ぐちゃぐちゃ企む人間じゃない。俺と別れたきゃ、単純に頭を下げてくる。一凛が龍を捨てて知毅を選べば、そうなるな」
足を止めた私の顔を見上げ、怜於は言った。
「そう思うだろ」
知毅には、龍明の妻を奪う気はなさそうだ。しかし彼女の心が自分にあると確信できれば、たしかに彼女の手をとり、怜於に頭を下げるだろう。
ただ知毅にとって、怜於もかなり大切な存在だ。そこで怜於が認めなければ、さてどうするか。
それに、チカちゃんが知毅の手をとることは、あるだろうか。子供ができないとしたら、知毅の手をとることも、彼女の性格では、躊躇するはずだ。彼女の誇りは、知毅の拒否を許していないようだし。
彼女の心は、どちらにも傾いていないが。どちらかといえば、夫である龍明のほうに、重い義理を感じて傾いている。けれどその龍明のために、彼から身を退くことを、考えているようでもある。
チカちゃんは、どちらも選ばず、二人から飛び立ってしまうのではないか。彼女の気持ちと気質を検討すると、そうなる可能性が最も高い。そんな気がした。
ならばと、そう思った。私は怜於を邪魔ものと思っていたが、怜於が心を決めれば、事態がおさまりそうな気もした。
私は怜於に尋ねた。
「どうしても、どっちかに決めろ。そう言われたら、君はどっちにする?」
怜於は私を睨んだ。
「選べない」
私は焦れて言った。
「欲張るな。二人と付き合うのは無理だ」
すると怜於は、下を向いて、ぼそぼそと言った。
「知毅が一凛を見ないなら、知毅一人でいいんだよ。龍が一凛を捨てて、俺を選んでくれたら、やっぱり龍一人でいいんだよ」
滅茶苦茶なことをいう、生意気で、図々しくて、強欲な子供が、強い愛情を求めずにいられない、心細い孤児に変身した。
私は戸惑ったが、右手が自然に伸びた。髪に触れそうになったところで止まったのは、怜於が顔を上げたからだ。
私を不審そうに見たその顔は、すでにいつもの悟空様だった。一瞬見せた弱気を恥じるように、いつもより傲然とした目つきだった。心細い孤児なんて冗談じゃない。そう言われた気がした。
目の前には六地蔵。二人で随分歩いてしまったことに気づいた。拒否ととられないように気をつけて、私は言った。
「僕はそろそろ自転車に乗りたい」
「俺は図書館に寄って帰る。じゃあな」
偉そうにそう言うと、怜於は私に背を向けた。Tシャツにジーンズの、女の子にはとうてい見えない後姿は、大股で、ずんずんと遠ざかった。
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