第19話
1984年。六月十一日。一週間ぶりに、怜於の部屋で授業を行った。
予習もしてこない、おかしな質問ばかりする生徒に嫌気がさして。五月三十日、私は龍明に、翌週の休校を希望したのだ。「他の先生からも苦情があった」と龍明は笑い、私の希望を受け入れた。
「すまない。学習の意欲はあるんだが。あの子は情熱的過ぎて。何かに気をとられると、すべて放り出してしまうんだ。だがあんたたちの努力と時間を無駄にするのは、礼儀知らずというものだ。学びたいなら、師には礼を尽くすべきだ。来週はよく話し合う」
龍明はそう言ったが、六月十日の午後、時間の無駄遣いだと思いながら、私は翌日の準備をした。前夜に知毅と話したことを考えても、そう思えた。しかしこの日の授業は、私の予想に反して、順調に進んだ。
古代ローマ帝国の終幕について語れば、怜於は生真面目な顔で、集中して聞いていた。きちんと予習もしていたから、イタリア語の原点購読は、さくさくと何ページも進んだ。さて、どのような話し合いをして、この猛獣を説得したのか。龍明の教え導く力に、私は多いに感心した。
「今日はここまでにしよう」
原点購読のテキストを閉じた時、怜於はぼそりと言った。
「俺、この本、なんか好きだ」
私が選んだこの教材には、須賀敦子氏の名訳がある。氏は邦題を、「ある家族の会話」とした。私はこの作品を愛している。だから怜於を許して言った。
「君の本棚は、なかなか良い本が並んでる」
意外にも、私の言葉が嬉しかったらしい。斉天大聖様の鼻孔がわずかに膨らみ、唇の両端が上がった。目がきらきら光った。頭を掻いて、仏頂面で照れていた。私はその顔を、意外なほど可愛く思った。
私たちが教室を出た時、チカちゃんが三階から、紙袋を二つ持って降りてきた。ジーンズに着古した黒いシャツの袖をまくり、口紅もつけていない。外出する姿ではなかった。袋の中身は衣類のようだった。私は尋ねた。
「古着屋にでも売るの?」
彼女は言った。
「部屋を移ったんだ。だから荷物を移してる」
少しばかり焦って、私は言った。
「移した?どこに?」
「あっちに」
檜造の大浴場がある別棟には、畳敷きの和室が三間あった。客を迎えた時などに使われる、普段は誰も使わない部屋だ。龍明の部屋の隣室から、そちらの一部屋へと、自室を移した。チカちゃんはそう言った。一週間船を訪れなかった。その間に何があったというのか。
驚いている私の横で、怜於が彼女に切り込んだ。
「何を怒ってるんだ」
睨む怜於を、チカちゃんは腕を組んで、見下ろした。
「何だろうな」
十代の女の子と並ぶと、男前に見える美女だったが、ジーンズにTシャツの怜於は、女の子には見えなかった。チカちゃんは、少年に慕われる、成熟した美しい女性に見えた。
「知毅も好きだが、龍も好きだ。龍と一緒にいるあんたは嫌いだ。俺、そう言ったけど、離婚してほしいなんて、言ってないよな」
私はついチカちゃんの顔を見た。世話をしている子供に、こんなわけのわからないことを言われれば、普通なかなかの形相になると思うのだが、チカちゃんの怜於を見る目は、さほど険しくなかった。
「してほしくないのか」
「ほしいけど。龍が望むなら、離婚する。一凛がそう言ったとき。ヤッタと思ったけど。でも、俺のせいか。龍にそう思われるのは困る」
勝手なことを言うな。私はそう突っ込みを入れたが、チカちゃんは、右手で怜於の髪をかき回し、宥めるように言った。
「おまえはいまのところ、俺に酷いこともしてないし。卑怯な真似もしていない。リューチンもわかってる。安心しろ」
私は怜於をおいて、階段を下りてゆくチカちゃんを追った。
「手伝うよ。荷物はもうまとめてあるのかな」
「運ぶ荷物は、これが最後」
素っ気なくそう言われたので、しなやかな手から、紙袋を奪った。
「最後の荷物は、僕が持とう」
階段を下りて、玄関に向かう途中で、食堂の入り口に龍明を見つけた。私たちを見ていた。チカちゃんは、見ない振りをしていた。
ポーチに出ると、私は言った。
「君はどうしてあの子を可愛がるんだろう」
「俺たち、結構気が合うんだ。坊やが恋に目覚めて俺を睨みだすまでは、二人であちこち出かけたもんだ」
なんて聞こうかと迷いながら、私は訊ねた。
「どうして、あっちに移るの?」
チカちゃんは前を向いたまま、悔しそうに唸った。
「離婚届を渡された。あいつは署名済だ」
別棟の最も奥にある一室、十二畳ほどの一間を、占領したらしい。竹で編まれたスタンドと文机が、片隅に置いてあった。文机の横に、本が十冊くらい積み上がっていた。武田百合子「犬が星見た」、「アフガニスタン史」「ゲバラ日記」などのタイトルに、今度はどこに行くつもりだろうと、少しばかり不安を感じた。
「別れるの?」
「別れたいようだからな」
「家具は?」
「引っ越しの時に移すと言ってある」
私は突然の展開に戸惑っていた。どうしたらよいかわからず、とりあえず、持ってきた荷物について尋ねた。
「これはどこに?」
チカちゃんは言った。
「そのへんに置いて。納戸をクローゼットにしたんだ。あとで整理する。お昼が出来上がってる時間だ。あっちに戻ろう」
私は彼女の腕を掴んだ。
「離婚したいと、彼はそう言ったの?」
チカちゃんは憤然と笑った。
「離婚協議書まで、勝手に作っていやがった。俺に色々くれるつもりらしい」
わけがわからんと思いながら、押し入れから絹の座布団を出してきて、チカちゃんにすすめた。大学時代には、ひと月ほど船で暮らして、善さんと律さんの手伝いをしたこともある。船の隅々まで、私は勝手を知っていた。
「座って話そう」
女主人は腰を下ろして、呟いた。
「あんた俺より、この家について良く知っているかもな」
胡坐をかいて向かい合うと、私は尋ねた。
「離婚したくはない。君はそう言ったよね?」
チカちゃんは傲然と右眉を上げた。
「あっちはするつもりだ。弁護士に、書類まで作らせてた」
障子とガラス戸の向こうには、山へと続く東北の庭。面白い形の石がいくつも置かれた、不思議な風情のある庭だった。そんな庭を見つめて、チカちゃんは早口に言った。
「あいつはしたいときには、外に行きたがるんだ。怜於の目や耳を気にしてる。俺がその誘いをお断りしたら、書類を出してきやがった!」
私も庭に目を向けた。突然の生々しい発言に、言葉を失った。
知毅を求めるつもりはない。しかし思ってはいる。そういう気持ちでいたとしたら、この人の性格では、龍明に求められても、まぁ応える気にはならないだろう。そんなふうに考えながら、青桐を見つめて、「なるほど」と応答した。
チカちゃんは庭を見て、何も言わない。
仕方なく、尋ねた。
「どうしてここに?」
チカちゃんは庭を見たまま言った。
「出ていこうとしたら、どこへって聞かれた。部屋を探すって言ったら、決まるまで、ここを使わないかって。そう言った。荷物を運ぶのも手伝ってくれた。止めもしない」
「いつの話?」
「ついさっき。あんたと怜於は授業中だった」
好奇心に負けて、不躾な質問をした。
「断ったのははじめて?」
チカちゃんはいくらか頬を染めて、私を睨んだ。
「俺たち結婚して何年経つと思ってるんだ。その気にならない時は、誰にでもあるだろ」
私は龍明を庇う言葉を選んだ。
「君はずっと留守だった。彼は淋しがってた。やっと帰ってきたのに拒まれて、ショックだったのかも」
抑えた怒りを感じる低い声で、チカちゃんは静かに言った。
「トモ兄は、俺の手をとるはずだ。怜於は説得する。あいつはそう言った。俺があいつと別れて、トモ兄のところに行きたがってる。そう思ってるんだ」
さて、言ってよいものかと躊躇したが、結局私は、思うことをはっきり述べた。
「知毅は今、君に恋をしている。君はまだ彼を思っている。龍明はどちらの気持ちもわかってる。君は半年も家を空けていた。僕が彼の立場で、今君に断られたら、やはりそう考える」
チカちゃんは硬い顔で私を見た。
「別れたくないなら。龍明にそう言ってあげるべきだ」
「言いたくない」
「どうして?」
「疑われてるのに、そんなこと言えるか」
「君は実際、知毅のことも好きだろ」
「リューチンが傍にいろと言ってくれたら、俺は絶対あいつから離れない。でもあいつは、俺の気持ちを疑って、書類まで用意してたんだ」
「だからそう言ってあげなさいって。あいつは君と知毅に、良かれと思って。身を退くことを考えてたんだ」
「松本さんの時もああだった。男二人で、同じ女に惚れたら。普通、男二人はいがみ合うよな。なんであの二人は仲良しのままで、どっちも相手をたてようとするんだろうな」
「いがみ合ってほしいの?」
「ほしくない。俺はあの二人には、仲良くしててほしい。でも、時々イラっとする」
「まぁ、その気持ちはわからないでもない」
「あんたは、俺が怜於を相手にしてないなんて言ったけど。去年の十月に家を出たときには、俺もちょっと覚悟してたんだ」
「覚悟?」
「あの坊やはあのパワーだし。リューチンはあの子にメロメロだ。で、一つ屋根の下で暮らしてるんだ。俺が半年くらいいなかったら、何かあってもおかしくないとは、思うだろ。あいつから電話がかかってくるたびに、ちょっとドキドキしてた。離婚したいと言いだすんじゃないかってね。まさかトモ兄が、あいつに落ちるとは思わなかった」
最後の一言は、ぽろりと出てしまったという感じなのか。チカちゃんは顔を顰めて、口元を右手で押さえた。
心配なら、この家に居れば良いのにとも思ったが。家にいれば、知毅と会う。そこを思うと、気の毒で言えなかった。
好きな相手を思い切りたいなら、会わないのが一番である。思い切りたい相手が、夫と並々ならぬ親しさで、家に身内のように出入りしているというのは、気の毒な状況だった。
しかし私は、船で知毅とも会いたかった。龍明と彼女の夫婦仲も、知毅と龍明の兄弟仲も、長く円満に続いてほしかった。だからその同情を、口に出す気にはなれなかった。
チカちゃんは口元を抑えたまま呟いた。
「どこかに行きたいな」
どきりとして、私は尋ねた。
「どこに?」
「南米。シベリア。アイスランド。まだ行ったことがない、行ってみたい場所はいくらでもある」
龍明と、別れて欲しくない。けれど知毅と彼女はお似合いだ。この意見は私のなかに、強く根を張っていた。私は言ってみた。
「君があいつを選んで、あいつにそう伝えれば、あいつはあの子との婚約を、解消すると思うけど」
チカちゃんは鋭い声で、私の言葉を遮った。
「俺はリューチンと結婚した」
だがむっつりとした顔で、こう呟いた。
「俺は振られたんだ。ずっと妹扱いだった。今になって俺の魅力に気づいた、その経緯を知りたいもんだな」
さっぱりした気性の人だが、誇り高い人だから、思い人にないがしろにされた記憶は、やはり忘れがたいようだ。そしてやはりこの人は、知毅が好きなのだと思った。
私は言った。
「君たちは一緒にいるのが自然で、どうして自分と婚約したんだろう。昔そう思ったと、松本さんは言った。僕も当時、そう思ったもんだ。あいつは子供の頃から君が好きだったと思うよ。でもずっと気づかなかったんだ。自分の気持ちって、なかなかわからないだろ。若い頃は特にね」
チカちゃんはそっぽを向いて呟いた。
「俺は、結婚すべきじゃない女かも。わりと楽しく、結婚生活を送ってきたけど。きっとリューチンは、かなり我慢してた。俺たち、結婚する前より仲良くなった気はするけど。全然夫婦じゃなかった気がする」
私は言った。
「君と龍明は、楽しそうにやってた。うらやましくなって、僕も彼女に求婚した気がする」
チカちゃんは、私の顔を見た。
私は言った。
「君は一人で生きていける人間で、いざとなれば、人に尽くせる人だ。君に選ばれた夫は幸福者だ」
チカちゃんは立ち上がった。
「たぶん、みんな待ってる。そろそろあっちに戻ろうか」
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