第18話

 1984年。六月九日。信乃とは、午後七時に鎌倉駅で別れた。改札のなかへと入った小さな背中が、見えなくなってから振り返ると、目の前に知毅がいた。小柄な女性と半日ほど過ごしたあとだからか。目の前に立たれると、普段より一層場所塞ぎに感じた

 信乃を見送る私を眺めていたらしい。サングラスをずらしてハンサムな目元を見せると、知毅は私に言った。

「少しは進展してるんだろうな」

「何の話だ」

「おまえには、ぜひとも彼女と結婚してほしい。そういう話だ」

 私は尋ねた。

「一杯付き合わないか。良ければ、うちに泊まっていけ」

 予定があるわけではなかったようで。知毅は私についてきた。自転車は駐輪場に置いていくことにして、二人でタクシーに乗りこんだ。知毅のせいで、後部座席をやけに狭く感じた。龍明と知毅、二人とタクシーに乗る時には、私は必ず、助手席に乗り込んだものである。

「龍明はどこに行ったんだ」

「おまえが紹介した牧師。あの男に、会いにいった。遅くなるかもしれない。そう言ったが、どんな用があるんだろうな」

 龍明不在の船で、チカちゃんと怜於にはさまれているのは、居心地が悪いか。鎌倉まで来て、知毅が船に泊まらない理由を、私はそう考察した。


「夕飯はどうした。ソーセージでも焼くか」

「今日は一日、あいつと色々食った。腹は減ってない」

「つまみはチーズでいいか」

「セロリが齧りたい。あるか」

 セロリと人参を切り、マヨネーズと金山寺味噌を添えた。ブルーチーズとエメンタールチーズを切って皿に置き、胡桃とクラッカーを添えた。

 知毅は上着を脱いでサングラスを外し、長椅子で先に飲んでいた。チーズと野菜をテーブルに置いて、向かいあった椅子に腰を下ろした。ロックのシーバス・リーガルは、私の分も用意してあった。一口飲むと、私は尋ねた。

「許婚の機嫌は直ったか」

「半日付き合ったら、機嫌は少しよくなったが。まだまだ言いたいことがありそうだ」

 知毅はそう答えて、セロリを齧った。

 私は尋ねた。

「おまえ、あの子の気が変わらなければ、ほんとに結婚するのか」

 彼女ではなくて、あの子供と?

 知毅は言った。

「そうだな。できたら、俺の籍に入れる。財布を預けて、家の管理を任せる」

 私が育った家庭では、養母が生きていた頃も、財布の紐は、親父殿が握っていた。兼平家は、女主が財布を預かっていたようだ。日本ではそんな家庭が主流だろうが、まぁ家庭も様々である。

「数学はなかなかできるようだが。家計の管理が、あの坊やにできるかな」

「子供時代に苦労したせいか。あいつはあの年で、金に対する考えが、しっかりしてる。俺より経済観念があるかもしれない」

「家事はどうするんだ」

「俺は基本ずっと一人暮らしだが、普通に生活してるだろ」

「おまえは実家を離れてから、年々くたびれてゆく。この数年は、決まった相手がいないせいか、とくにひどい。おまえには、世話を焼いてくれる人間が必要だ」

「そんなにひどいとは思わんが」

「専業主婦になっても、あの子におまえの世話ができるとは思えない」

 チカちゃんは家にいれば、おまえの世話を焼いてくれるはずだ。

 言いたいことをどこまで言ってよいか。これは言っても良いものか。私は迷いながら、話していた。 

「おまえ、昔、チカちゃんを振ったそうだな」

 知毅は顎鬚を引っ張った。

「あいつから聞いたのか」

「おまえは、そのうち彼女と結婚する。おまえが誰かと別れるたびに、僕はそう思ったもんだ」

「俺はあいつを、妹のようなもんだと、ずっとそう思ってた。龍と結婚してからは、妹だと思ってる」

 迷いながら尋ねた。

「あの二人が別れても、妹か」

 知毅はグラスを見て呟いた。

「一凛はあいつに、龍と別れてもいいなんて。どうしてそんなことを言ったんだろうな」

 

 知毅の背中を押して、チカちゃんと結び付けたかったが、龍明と彼女の仲を、守りたくもあった。どうすればよいのか。何を言うべきか。考えると、頭が混乱して、眉間に皺が寄った。そんな私の顔を、知毅は覗きこんだ。

「なんだ」と訊けば、言いにくそうに、口を開いた。

「おまえはどう見てる?龍があいつを可愛がってるのは。父親のような気持ちだと、俺は、そう思ってたが。ひょっとして違うのか」

 私は言った。

「おまえも彼も、親のつもりであの子を可愛がってる。あっちも昔は、おまえたちを、親として慕っていた。しかしあの子とおまえたちは、実の親子じゃない」 

 配偶者とした恋人より、我が子を愛する親は、少なくない。子供も幼い頃は、親を唯一無二の存在として慕う。しかしこのロマンスは、必ず終わりを迎える。恋をする年頃になると、子供は親から離れ、親も仕方なく、子供から離れる。それが正解だ。けれど実の親子でなければ、当事者同士の気持ちで、正解を変えることもできる。

「おまえと同じだ。あの子に責任を感じてる。あの子の恋に応える気になったら、彼はまず離婚して、あの子に求婚するはずだ」

「龍があんな子供と、結婚する気になるかな?」

「もう少し成長したら、恋人にしよう。おまえはそう思えた。だから求婚したんだろ」

 恋の対手あいてに愛情が湧くとは限らないのに。愛する人と恋をすることが、たやすく思えるのは、さて何故なにゆえか。

「おまえも彼も、そう思えるほど、あの子が可愛い。そして二人とも、彼女のことが大切だ。いつからだ?」

 答えるかなと思いながらの質問だった。知毅は顔を顰めたが、投げ返してきた。

「わからん。あの二人が結婚したとき。俺はまだ、龍には信乃と結婚してほしい。そう思ってた。だから戸惑ったが。信乃は無理かもしれない。そう思い始めてたし。一凛にも、早く幸せになってほしかった。龍が相手なら、安心できる。そう思った」

「そうだな。おまえは戸惑っていたが。祝福していた。なかなか似合いの夫婦だと、本心から笑っていた」

「龍は弟で、あいつは妹だと、ずっとそう思ってたんだ。だから昔、あいつに好きだと言われても。嬉しかったが困った。断るしかなかった。なのに、あいつが龍と結婚して。しばらくして。ある日あいつの横顔が、ほんとうに綺麗に見えた。どうして俺は昔、こいつを振ったんだろうな。そう思った」

「いつのことだ」

「だいぶ前だな。でもまだその頃は、どういうことか、わかっちゃいなかった。いつのまに、こいつはこんなふうになったんだって。ただ不思議だった。あいつが女で、俺があいつに惚れてると気づたのは・・・・。わりと最近だ」

「鏡子さんと別れたのは、彼女のためか」

「ある日部屋に帰ったら、荷物がなかった。実家に戻る。もうあちらでの仕事も見つけた。なんとかなりそうだと、そんなことを書いた手紙が、置いてあった。振られたんだ。俺にはもう付き合いきれない。彼女がそう思った理由は、いろいろあるだろう」

 思っていた以上に、気持ちを貯めこんでいるようだと、私は知毅の顔を見た。なかなか苦し気に、眉根を寄せていた。 彫の深い顔立ちだから、そんな顔をすると、目元にぐっと色気が出る。私は思わず言った。

「おまえ、いいかげん、その髭を剃れ」

「いきなりなんだ」と笑い、知毅は息を吐いた。


「龍と一凛が、上手くいっているなら、妹でいいんだ。しかし龍が万が一、怜於を選びたいなら。一凛がもし」

「別れたい。二人ともそう思っていたら、どうする?」

「わからん。求婚したのは俺だ。俺から怜於との婚約を。なかったことにする気はない。俺から突き放すことはできない。俺はあいつが、そうだな、可愛いんだ。しかしあいつは、龍のことも好きだし。龍が退くなら。俺は」

「俺は?」

「俺と怜於がいるせいで。一凛があの家に居つかないような気もした。俺が怜於と結婚して、家をかまえれば、うまくおさまる気もしたんだ。なのに、龍を譲ってもいいと、一凛は怜於に言ってた。おまえからそう聞いて。どうすればいいか、わからなくなってきた。一凛はどうして、そんなことを言ったんだ。龍はあいつを養子にしたいと言ったが、ほんとにそうしたいのか。龍はあいつを可愛がり過ぎだ。そんな気もしてきた」

 知毅は難しい顔でウィスキーを煽った。

 知毅の相手は、チカちゃんのほうが良い。私はそう思った。怜於との婚約は破談にして、チカちゃんと結びつけたかった。だがそうなると、龍明とチカちゃんは離縁することになる。だから背を押す気にはなれない。私も難しい顔で言った。

 「怜於との婚約は早計だったな」

 知毅が呟いた。

「信乃のときも、俺が邪魔した。俺はとにかく、龍の邪魔はしたくない」

 私は少しむっとした。

「彼女に最初に会って、婚約したのはおまえだ」

「彼女は龍に惚れてた」

「おまえにも惚れてたさ。だから、逃げだした」

「俺は婚約を解消した」

「おまえは、彼と彼女を結び付けようとした。それで龍明は彼女に、彼女も彼に、近づきにくくなった」

「じゃあ、どうすればよかったんだ」

「知らん」


 ウィスキーを飲み干すと、知毅はグラスを乱暴に置いた。

「俺は今結構忙しい。早くこの面倒な事態をおさめたい。なのに、なんだか、だんだんややこしくなってくる」

 兼平知毅は、恋より家庭より、仕事を重く思っていた。私たちより前の世代では、そうでなければ、おかしな男であった。私たちの世代でも、まだそうだった。

「だいたい。どいつもこいつも。なんで龍に目移りするんだ」

 まぁ、そこは同情してやってもいい。そう思った私を、知毅は睨んだ。

「まずおまえだ。アメリカに行ってる間に、すっかりあいつに入れあげやがった」

 二十年以上昔の、そこからカウントするのかと呆れた。

「あいつを頼む。おまえはそう言って出発した。十七、あのときはまだ十六か。なのにまるで父親だった」

 知毅は座った目で言った。

「あいつは、千と同じ匂いがして。千と同じ痣をもってる。はじめて会った日に、死んじまった千と俺の息子かもしれないと思った。息子に思えるんだから、仕方がないだろうが」

「あの夢。まだみるのか」

「時々な」

「同じ世界。同じ登場人物。そんな夢を子供の時からずっとみているのも、おかしいが。彼が、夢の中の息子に思える。ほんとにおかしな話だ」

「おかしい」

「彼にはじめて会ったとき、おまえは九つだったよな」

「そうだ。宗形の爺ちゃんに、鎌倉まで連れていかれた。あいつはまだチビで、玄関先で俺たちを待っていた。俺に向かって、おもちゃのボールを投げた。俺がとって投げると、ボールをとって、嬉しそうに笑った。俺には兄貴しかいなくて。弟が欲しい。そう思っていた。こいつでいいやと、そう決めた。近づくと、千の匂いがして、こいつに会ったことは、とんでもないことなのかもしれない。そう思ったな」

「ほんとの弟じゃないのに、弟だからなって言って。二つ年下の小学生に仕えてた。中学の頃、僕はおまえを、変な奴だと思ってたよ」

「仕えてねぇぞ」

「野毛の動物園とか江の島とか。彼が行きたいところに、連れて行って。欲しがっていたものを、小遣いで買ってやって。お仕えしてたさ」

「俺はただ、あいつのために、色々してやりたかったんだ」

 知毅が三十歳になった年だ。龍明が事故に遭った。知毅は龍明を助けるために、仕事の持ち場を放棄した。その責めを負って、警察庁を辞職した。

 帰国子女だからな。国家公務員でいても先がない。そう言った。実際帰国子女は冷遇される世界だ。前途洋々ではなかっただろう。だが出世を強く望んでいたとも思えない。仕事そのものを楽しんでいた。辞めた後も、民間で似たような仕事をしている。同じようなことをするなら、国家公務員でいたほうが良かったはずだ。知毅好みの、大きな仕事にも関われる。結局知毅は龍明のために、転職したのだ。私はそう思っている。

 空になった二つのグラスに、シーバス・リーガルをどぼどぼ注ぐ知毅に、私は尋ねた。

「毎度俺の女に惚れやがって。そうは思わないのか。その状況で、男が睨むのは、普通龍明だと思うぞ」

  知毅は戸惑った顔をした。

 顎鬚を引っ張ると言った。

「俺はあいつにだけは、嫌われたくない。だから、あいつを悪く思わないように。無意識にそうしてるのかな。この野郎と思うこともあるんだが」

 私は呆れて言った。

「おまえはいっそ龍明と結婚しろ」

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