第17話
1984年。六月九日。信乃とは、午後七時に鎌倉駅で別れた。改札のなかへと入った小さな背中が、見えなくなってから振り返ると、目の前に知毅がいた。小柄な女性と半日ほど過ごしたあとだからか。目の前に立たれると、普段より一層場所塞ぎに感じた
信乃を見送る私を眺めていたらしい。サングラスをずらしてハンサムな目元を見せると、知毅は私に言った。
「少しは進展してるんだろうな」
「何の話だ」
「おまえには、ぜひとも彼女と結婚してほしい。そういう話だ」
私は尋ねた。
「一杯付き合わないか。良ければ、うちに泊まっていけ」
予定があるわけではなかったようで。知毅は私についてきた。自転車は駐輪場に置いていくことにして、二人でタクシーに乗りこんだ。知毅のせいで、後部座席をやけに狭く感じた。龍明と知毅、二人とタクシーに乗る時には、私は必ず、助手席に乗り込んだものである。
「龍明はどこに行ったんだ」
「おまえが紹介した牧師。あの男に、会いにいった。遅くなるかもしれない。そう言ったが、どんな用があるんだろうな」
龍明不在の船で、チカちゃんと怜於にはさまれているのは、居心地が悪いか。鎌倉まで来て、知毅が船に泊まらない理由を、私はそう考察した。
「夕飯はどうした。ソーセージでも焼くか」
「今日は一日、あいつと色々食った。腹は減ってない」
「つまみはチーズでいいか」
「セロリが齧りたい。あるか」
セロリと人参を切り、マヨネーズと金山寺味噌を添えた。ブルーチーズとエメンタールチーズを切って皿に置き、胡桃とクラッカーを添えた。
知毅は上着を脱いでサングラスを外し、長椅子で先に飲んでいた。チーズと野菜をテーブルに置いて、向かいあった椅子に腰を下ろした。ロックのシーバス・リーガルは、私の分も用意してあった。一口飲むと、私は尋ねた。
「許婚の機嫌は直ったか」
「半日付き合ったら、機嫌は少しよくなったが。まだまだ言いたいことがありそうだ」
知毅はそう答えて、セロリを齧った。
私は尋ねた。
「おまえ、あの子の気が変わらなければ、ほんとに結婚するのか」
彼女ではなくて、あの子供と?
知毅は言った。
「そうだな。できたら、俺の籍に入れる。財布を預けて、家の管理を任せる」
私が育った家庭では、養母が生きていた頃も、財布の紐は、親父殿が握っていた。兼平家は、女主が財布を預かっていたようだ。日本ではそんな家庭が主流だろうが、まぁ家庭も様々である。
「数学はなかなかできるようだが。家計の管理が、あの坊やにできるかな」
「子供時代に苦労したせいか。あいつはあの年で、金に対する考えが、しっかりしてる。俺より経済観念があるかもしれない」
「家事はどうするんだ」
「俺は基本ずっと一人暮らしだが、普通に生活してるだろ」
「おまえは実家を離れてから、年々くたびれてゆく。この数年は、決まった相手がいないせいか、とくにひどい。おまえには、世話を焼いてくれる人間が必要だ」
「そんなにひどいとは思わんが」
「専業主婦になっても、あの子におまえの世話ができるとは思えない」
チカちゃんは家にいれば、おまえの世話を焼いてくれるはずだ。
言いたいことをどこまで言ってよいか。これは言っても良いものか。私は迷いながら、話していた。
「おまえ、昔、チカちゃんを振ったそうだな」
知毅は顎鬚を引っ張った。
「あいつから聞いたのか」
「おまえは、そのうち彼女と結婚する。おまえが誰かと別れるたびに、僕はそう思ったもんだ」
「俺はあいつを、妹のようなもんだと、ずっとそう思ってた。龍と結婚してからは、妹だと思ってる」
迷いながら尋ねた。
「あの二人が別れても、妹か」
知毅はグラスを見て呟いた。
「一凛はあいつに、龍と別れてもいいなんて。どうしてそんなことを言ったんだろうな」
知毅の背中を押して、チカちゃんと結び付けたかったが、龍明と彼女の仲を、守りたくもあった。どうすればよいのか。何を言うべきか。考えると、頭が混乱して、眉間に皺が寄った。そんな私の顔を、知毅は覗きこんだ。
「なんだ」と訊けば、言いにくそうに、口を開いた。
「おまえはどう見てる?龍があいつを可愛がってるのは。父親のような気持ちだと、俺は、そう思ってたが。ひょっとして違うのか」
私は言った。
「おまえも彼も、親のつもりであの子を可愛がってる。あっちも昔は、おまえたちを、親として慕っていた。しかしあの子とおまえたちは、実の親子じゃない」
配偶者とした恋人より、我が子を愛する親は、少なくない。子供も幼い頃は、親を唯一無二の存在として慕う。しかしこのロマンスは、必ず終わりを迎える。恋をする年頃になると、子供は親から離れ、親も仕方なく、子供から離れる。それが正解だ。けれど実の親子でなければ、当事者同士の気持ちで、正解を変えることもできる。
「おまえと同じだ。あの子に責任を感じてる。あの子の恋に応える気になったら、彼はまず離婚して、あの子に求婚するはずだ」
「龍があんな子供と、結婚する気になるかな?」
「もう少し成長したら、恋人にしよう。おまえはそう思えた。だから求婚したんだろ」
恋の
「おまえも彼も、そう思えるほど、あの子が可愛い。そして二人とも、彼女のことが大切だ。いつからだ?」
答えるかなと思いながらの質問だった。知毅は顔を顰めたが、投げ返してきた。
「わからん。あの二人が結婚したとき。俺はまだ、龍には信乃と結婚してほしい。そう思ってた。だから戸惑ったが。信乃は無理かもしれない。そう思い始めてたし。一凛にも、早く幸せになってほしかった。龍が相手なら、安心できる。そう思った」
「そうだな。おまえは戸惑っていたが。祝福していた。なかなか似合いの夫婦だと、本心から笑っていた」
「龍は弟で、あいつは妹だと、ずっとそう思ってたんだ。だから昔、あいつに好きだと言われても。嬉しかったが困った。断るしかなかった。なのに、あいつが龍と結婚して。しばらくして。ある日あいつの横顔が、ほんとうに綺麗に見えた。どうして俺は昔、こいつを振ったんだろうな。そう思った」
「いつのことだ」
「だいぶ前だな。でもまだその頃は、どういうことか、わかっちゃいなかった。いつのまに、こいつはこんなふうになったんだって。ただ不思議だった。あいつが女で、俺があいつに惚れてると気づたのは・・・・。わりと最近だ」
「鏡子さんと別れたのは、彼女のためか」
「ある日部屋に帰ったら、荷物がなかった。実家に戻る。もうあちらでの仕事も見つけた。なんとかなりそうだと、そんなことを書いた手紙が、置いてあった。振られたんだ。俺にはもう付き合いきれない。彼女がそう思った理由は、いろいろあるだろう」
思っていた以上に、気持ちを貯めこんでいるようだと、私は知毅の顔を見た。なかなか苦し気に、眉根を寄せていた。 彫の深い顔立ちだから、そんな顔をすると、目元にぐっと色気が出る。私は思わず言った。
「おまえ、いいかげん、その髭を剃れ」
「いきなりなんだ」と笑い、知毅は息を吐いた。
「龍と一凛が、上手くいっているなら、妹でいいんだ。しかし龍が万が一、怜於を選びたいなら。一凛がもし」
「別れたい。二人ともそう思っていたら、どうする?」
「わからん。求婚したのは俺だ。俺から怜於との婚約を。なかったことにする気はない。俺から突き放すことはできない。俺はあいつが、そうだな、可愛いんだ。しかしあいつは、龍のことも好きだし。龍が退くなら。俺は」
「俺は?」
「俺と怜於がいるせいで。一凛があの家に居つかないような気もした。俺が怜於と結婚して、家をかまえれば、うまくおさまる気もしたんだ。なのに、龍を譲ってもいいと、一凛は怜於に言ってた。おまえからそう聞いて。どうすればいいか、わからなくなってきた。一凛はどうして、そんなことを言ったんだ。龍はあいつを養子にしたいと言ったが、ほんとにそうしたいのか。龍はあいつを可愛がり過ぎだ。そんな気もしてきた」
知毅は難しい顔でウィスキーを煽った。
知毅の相手は、チカちゃんのほうが良い。私はそう思った。怜於との婚約は破談にして、チカちゃんと結びつけたかった。だがそうなると、龍明とチカちゃんは離縁することになる。だから背を押す気にはなれない。私も難しい顔で言った。
「怜於との婚約は早計だったな」
知毅が呟いた。
「信乃のときも、俺が邪魔した。俺はとにかく、龍の邪魔はしたくない」
私は少しむっとした。
「彼女に最初に会って、婚約したのはおまえだ」
「彼女は龍に惚れてた」
「おまえにも惚れてたさ。だから、逃げだした」
「俺は婚約を解消した」
「おまえは、彼と彼女を結び付けようとした。それで龍明は彼女に、彼女も彼に、近づきにくくなった」
「じゃあ、どうすればよかったんだ」
「知らん」
ウィスキーを飲み干すと、知毅はグラスを乱暴に置いた。
「俺は今結構忙しい。早くこの面倒な事態をおさめたい。なのに、なんだか、だんだんややこしくなってくる」
兼平知毅は、恋より家庭より、仕事を重く思っていた。私たちより前の世代では、そうでなければ、おかしな男であった。私たちの世代でも、まだそうだった。
「だいたい。どいつもこいつも。なんで龍に目移りするんだ」
まぁ、そこは同情してやってもいい。そう思った私を、知毅は睨んだ。
「まずおまえだ。アメリカに行ってる間に、すっかりあいつに入れあげやがった」
二十年以上昔の、そこからカウントするのかと呆れた。
「あいつを頼む。おまえはそう言って出発した。十七、あのときはまだ十六か。なのにまるで父親だった」
知毅は座った目で言った。
「あいつは、千と同じ匂いがして。千と同じ痣をもってる。はじめて会った日に、死んじまった千と俺の息子かもしれないと思った。息子に思えるんだから、仕方がないだろうが」
「あの夢。まだみるのか」
「時々な」
「同じ世界。同じ登場人物。そんな夢を子供の時からずっとみているのも、おかしいが。彼が、夢の中の息子に思える。ほんとにおかしな話だ」
「おかしい」
「彼にはじめて会ったとき、おまえは九つだったよな」
「そうだ。宗形の爺ちゃんに、鎌倉まで連れていかれた。あいつはまだチビで、玄関先で俺たちを待っていた。俺に向かって、おもちゃのボールを投げた。俺がとって投げると、ボールをとって、嬉しそうに笑った。俺には兄貴しかいなくて。弟が欲しい。そう思っていた。こいつでいいやと、そう決めた。近づくと、千の匂いがして、こいつに会ったことは、とんでもないことなのかもしれない。そう思ったな」
「ほんとの弟じゃないのに、弟だからなって言って。二つ年下の小学生に仕えてた。中学の頃、僕はおまえを、変な奴だと思ってたよ」
「仕えてねぇぞ」
「野毛の動物園とか江の島とか。彼が行きたいところに、連れて行って。欲しがっていたものを、小遣いで買ってやって。お仕えしてたさ」
「俺はただ、あいつのために、色々してやりたかったんだ」
知毅が三十歳になった年だ。龍明が事故に遭った。知毅は龍明を助けるために、仕事の持ち場を放棄した。その責めを負って、警察庁を辞職した。
帰国子女だからな。国家公務員でいても先がない。そう言った。実際帰国子女は冷遇される世界だ。前途洋々ではなかっただろう。だが出世を強く望んでいたとも思えない。仕事そのものを楽しんでいた。辞めた後も、民間で似たような仕事をしている。同じようなことをするなら、国家公務員でいたほうが良かったはずだ。知毅好みの、大きな仕事にも関われる。結局知毅は龍明のために、転職したのだ。私はそう思っている。
空になった二つのグラスに、シーバス・リーガルをどぼどぼ注ぐ知毅に、私は尋ねた。
「毎度俺の女に惚れやがって。そうは思わないのか。その状況で、男が睨むのは、普通龍明だと思うぞ」
知毅は戸惑った顔をした。
顎鬚を引っ張ると言った。
「俺はあいつにだけは、嫌われたくない。だから、あいつを悪く思わないように。無意識にそうしてるのかな。この野郎と思うこともあるんだが」
私は呆れて言った。
「おまえはいっそ龍明と結婚しろ」
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