第16話
梅雨の季節。鎌倉の一部地域は、紫陽花を目的とする観光客でにぎわう。いつ頃から起きた賑わいか。その記憶はないが。1984年には。すでに賑やかだった気がする。
鈴木清順の映画ツィゴイネルワイゼンに写しとられている鎌倉、異界の入り口が、あちらこちらにあった、かつての鎌倉の、鄙びた土地柄が、私は懐かしい。
観光客に混じり、紫陽花見物をしたいと思ったことは、一度もない。
だがしかしこの年の六月三日、松本信乃嬢は、清らかな微笑みを浮かべ、そんな私に仰った。
「この前読んだ本に、極楽寺のあたりは、六月は紫陽花がきれいだと書いてありました。もう咲いているかしら」
流行に振り回されるような方ではないが、私と違って素直なお人柄だから、信乃は人が目を向けるものには興味を持った。行動力のある方だから、興味を感じれば、自分の目で確かめに行かれた。
この人が見たいというなら、まぁ、付き合っても良い。そんな彼女の素朴さも、可憐に思う私は、内心でそう呟いて、彼女を誘った。
「極楽寺のあたりは、歩いたことがない。あなたの都合が良ければ、今度の土曜日にでも行ってみようか」
六月二度目の土曜日の午前十一時を、待ち合わせの時刻と決めた。
場所は江ノ電鎌倉駅の改札前。
私は約束の時間の十五分前に、鎌倉駅に近い駐輪場で自転車を止めた。梅雨時だが、雨は降っていなかった。鎌倉駅東口のバスターミナルに出て、横浜銀行前の高架下を潜り抜け、約束の場所がある裏駅に向かった。
当時は裏駅の前に、パチンコ屋があり、その上に、くたびれた映画館があった。ロビーには便所の匂いが漂い、誰かとともに入りたいような場所ではなかったが、上映の趣味は悪くなかった。遅れての上演だったが、ハリウッド大作も、ややマニアックの作品も、懐かしい作品も上映していた。何しろ近かったので、私は結構利用した。その映画館へと上がる階段の前に、見慣れた人々を発見した。
髭とサングラス。着古したグレーのスーツ。知毅が許婚を背負い、そこに立っていた。白いジャケットにベージュのチノパンツをはいたチカちゃんも、二人の傍にいた。
十代の頃は、若獅子の一対。この当時は美女と野獣。どちらの時代も、知毅とチカちゃんの組み合わせは、龍明とチカちゃんの組み合わせ同様、よく人目を引いた。そして知毅は許婚を背負っていた。怜於はシャツにジーンズにスニーカー。少年にしか見えなかった。十六歳の男子が、男に背負われた姿というものを、私はこの日はじめて見た。当然、三人を眺めていく人は、少なくなかった。
待ち合わせの場所を見れば、紺色のワンピースを着た信乃がいた。三人を眺めていた。
「あいつはなんで怜於を背負ってるんだろう」
近づいて声をかければ、信乃は振り返って言った。
「駅から出たきたら、兼平さんがあそこにいたんです。挨拶に行こうと思ったら、怜於が凄い勢いで走ってきて、背中に飛びついた。少し遅れて、一凛さんも現れた」
チカちゃんが我々に気づいて、片手をあげた。
三人はすぐこちらへと、やってきた。知毅は怜於を背負ったまま、やってきた。
チカちゃんは信乃に、爽やかな笑顔を見せた。
「久しぶり」
信乃ははにかんだ微笑みを見せ、頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
「デートか」
知毅は私をひやかした。
知毅の背中にしがみついている怜於を見上げて、信乃が言った。
「仲直りしたのね」
怜於は仏頂面で言った。
「してない。やっと捕まえたから。今日は二人で、じっくり話し合いをする」
私はチカちゃんに訊ねた。
「二人でこいつの出迎え?」
「俺は友達と、中華街で待ち合わせてる」
チカちゃんはそう言うと、怜於と右の掌を合わせた。
怜於「俺もなんか点心が食いたいゾ」
一凛「買ってくるよ」
知毅が静かに言った。
「気をつけてな」
一凛「今日は二人でよく話し合えよ」
金の腕輪をした右手を振ると、チカちゃんは鎌倉駅のなかへと去った。
私は知毅に尋ねた。
「この週末は鎌倉か?」
「いや。今日は龍も出かけてる。こいつと夕方まで鎌倉を歩いて。夜は戻る。おまえ、そろそろ下りろ」
知毅は怜於を下ろそうとしたが、怜於はしがみつく手に力を込めた。苦笑して、怜於を背負いなおすと、知毅は私たちに、「じゃあな」と言った。
「またな。信乃」
知毅の背でそう言うと、怜於は私に向かって、イーッと歯を向きだした。
鎌倉駅東口へと進んでいく二人を、私と信乃は、しばし見送っていた。
「珊瑚礁!ガーリックポテト!ビーフサラダ!」
怜於がそう叫んでいたから、少年悟空を背負ったゴリラは、その後タクシーに乗って、海沿いに向かったのかもしれない。
「蓮實さんも怜於と喧嘩中ですか」
「僕の手にはあまる生徒だ。辞職を検討中だ」
「辞めないわ」
「辞めるさ」
「一凛さん。相変わらず美人ですね」
「女性の全盛期は人それぞれだな。彼女は十代の頃から美人だが、三十を過ぎてからのほうが花やかだ」
「表情が昔より、優しくなった気がする。人柄も大きくなられた感じ。怜於は一凛さんとも、仲が良さそうですね」
「そうだな。彼女もあの子を可愛がってる。あの子も彼女に懐いてる」
「二人が好きだと、怜於が言っていること」
「彼女の前でも言ってる」
「四月一日も、ゴールデンウィークにも、お目にかかれなかった。旅行中だと伺ったけど。一凛さんには、もう会えないのかもしれない。わたし、なんとなく、そう思いこんでました」
この日、江ノ電の客は多かった。私たちは車内の端に立ち、小声で話をつづけた。
「怜於もあんなふうに騒いでるしね」
「五月に伺ったときには、宗形さん、怜於を抱き上げてたわ」
「一時はどっちも、怜於に距離をおいていた。知毅が怜於との婚約を決めてから、昔に戻ってきてるな」
「昔?」
「知毅が引き取ったとき、あの子はもう九歳だった。猫かわいがりするような年頃じゃないと思うが。僕があの子をはじめて見た時、龍明は嬉しそうに、あの子にプリンを食べさせていた。知毅は彼ほど子供をかまわないが、あの子にしがみつかれると、そのままにしていた。背負ったり抱き上げたりして、歩き回ってた。さっきみたいにね」
信乃は笑った。
「あの子が恋しちゃったのも。仕方がないのかも」
「そうだな。誤解されても仕方がない、甘やかし方だった」
「一凛さんは、よく旅行を?」
「彼女は家にあまりいないけど。一緒にいるときは、龍明ととても親密だ」
「あなたへの手紙に、書いた気がしますけど。宗形さんが一凛さんと、結婚したと聞いた時、私かなり驚いたんです。兼平さんは」
「いつか彼女と結婚するんじゃないか。そう思っていた。君の手紙には、そう書いてあった」
私もそう思っていた。
「あの方と兼平さんは、一緒にいるのがとても自然だった。どうして私と婚約したのかしらって。私昔、そう思わないでもなかったわ」
「あの二人は子供の頃から仲が良くて。距離が近すぎたんだな。ある種の男には、身近なものに、目を向けない傾向がある」
当時知毅がチカちゃんに目を向けていれば、龍明と知毅、チカちゃんと信乃。四人の関係は、どうおさまったのか。あるいはおさまらなかったのか。信乃と私の縁は、さてどうなっていたか。
「あなたからの手紙に、宗形さんと一凛さんは良いご夫婦だと書いてあって。なら、薫さんには、あなたか兼平さんと結婚してほしいなぁと。そう思うようになったけど」
知毅がチカちゃんを思い切りながら思っていることも。チカちゃんがまだ知毅を思っていて、彼を見ないようにしていることも、信乃はまだ知らなかった。
「結婚して、もう十年以上経つんだな。龍明とチカちゃんには、今や強い繋がりを感じる」
どちらも諦めない。怜於がそう言っていることも、まだ知らなかったはずだが、信乃は残念そうに言った。
「宗形さんには、あの子は失恋ね」
怜於を邪魔に思う私は、ただ、そうぼやいた。
「君はあくまであの子の味方なんだね」
あの四人の関係がどうなるのか。まるで予想がつかなかった。自分がどうなってほしいのかさえ、わからなかった。
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