第17話

 梅雨の季節。鎌倉の一部地域は、紫陽花を目的とする観光客でにぎわう。いつ頃から起きた賑わいか。その記憶はないが。1984年には。すでに賑やかだった気がする。

 鈴木清順の映画ツィゴイネルワイゼンに写しとられている鎌倉、異界の入り口が、あちらこちらにあった、かつての鎌倉の、鄙びた土地柄が、私は懐かしい。

 観光客に混じり、紫陽花見物をしたいと思ったことは、一度もない。

 だがしかしこの年の六月三日、松本信乃嬢は、清らかな微笑みを浮かべ、そんな私に仰った。

「この前読んだ本に、極楽寺のあたりは、六月は紫陽花がきれいだと書いてありました。もう咲いているかしら」

 流行に振り回されるような方ではないが、私と違って素直なお人柄だから、信乃は人が目を向けるものには興味を持った。行動力のある方だから、興味を感じれば、自分の目で確かめに行かれた。

 この人が見たいというなら、まぁ、付き合っても良い。そんな彼女の素朴さも、可憐に思う私は、内心でそう呟いて、彼女を誘った。

「極楽寺のあたりは、歩いたことがない。あなたの都合が良ければ、今度の土曜日にでも行ってみようか」

 六月二度目の土曜日の午前十一時を、待ち合わせの時刻と決めた。

 場所は江ノ電鎌倉駅の改札前。

 私は約束の時間の十五分前に、鎌倉駅に近い駐輪場で自転車を止めた。梅雨時だが、雨は降っていなかった。鎌倉駅東口のバスターミナルに出て、横浜銀行前の高架下を潜り抜け、約束の場所がある裏駅に向かった。

 当時は裏駅の前に、パチンコ屋があり、その上に、くたびれた映画館があった。ロビーには便所の匂いが漂い、誰かとともに入りたいような場所ではなかったが、上映の趣味は悪くなかった。遅れての上演だったが、ハリウッド大作も、ややマニアックの作品も、懐かしい作品も上映していた。何しろ近かったので、私は結構利用した。その映画館へと上がる階段の前に、見慣れた人々を発見した。

 髭とサングラス。着古したグレーのスーツ。知毅が許婚を背負い、そこに立っていた。白いジャケットにベージュのチノパンツをはいたチカちゃんも、二人の傍にいた。

 十代の頃は、若獅子の一対。この当時は美女と野獣。どちらの時代も、知毅とチカちゃんの組み合わせは、龍明とチカちゃんの組み合わせ同様、よく人目を引いた。そして知毅は許婚を背負っていた。怜於はシャツにジーンズにスニーカー。少年にしか見えなかった。十六歳の男子が、男に背負われた姿というものを、私はこの日はじめて見た。当然、三人を眺めていく人は、少なくなかった。

 待ち合わせの場所を見れば、紺色のワンピースを着た信乃がいた。三人を眺めていた。

「あいつはなんで怜於を背負ってるんだろう」

 近づいて声をかければ、信乃は振り返って言った。

「駅から出たきたら、兼平さんがあそこにいたんです。挨拶に行こうと思ったら、怜於が凄い勢いで走ってきて、背中に飛びついた。少し遅れて、一凛さんも現れた」

 チカちゃんが我々に気づいて、片手をあげた。

 三人はすぐこちらへと、やってきた。知毅は怜於を背負ったまま、やってきた。

 チカちゃんは信乃に、爽やかな笑顔を見せた。

「久しぶり」

 信乃ははにかんだ微笑みを見せ、頭を下げた。

「ご無沙汰しております」

「デートか」

 知毅は私をひやかした。

 知毅の背中にしがみついている怜於を見上げて、信乃が言った。

「仲直りしたのね」

 怜於は仏頂面で言った。

「してない。やっと捕まえたから。今日は二人で、じっくり話し合いをする」

 私はチカちゃんに訊ねた。

「二人でこいつの出迎え?」

「俺は友達と、中華街で待ち合わせてる」

 チカちゃんはそう言うと、怜於と右の掌を合わせた。

 怜於「俺もなんか点心が食いたいゾ」

 一凛「買ってくるよ」

 知毅が静かに言った。

「気をつけてな」

 一凛「今日は二人でよく話し合えよ」

 金の腕輪をした右手を振ると、チカちゃんは鎌倉駅のなかへと去った。

 私は知毅に尋ねた。

「この週末は鎌倉か?」

「いや。今日は龍も出かけてる。こいつと夕方まで鎌倉を歩いて。夜は戻る。おまえ、そろそろ下りろ」

 知毅は怜於を下ろそうとしたが、怜於はしがみつく手に力を込めた。苦笑して、怜於を背負いなおすと、知毅は私たちに、「じゃあな」と言った。

「またな。信乃」

 知毅の背でそう言うと、怜於は私に向かって、イーッと歯を向きだした。

 鎌倉駅東口へと進んでいく二人を、私と信乃は、しばし見送っていた。

「珊瑚礁!ガーリックポテト!ビーフサラダ!」

 怜於がそう叫んでいたから、少年悟空を背負ったゴリラは、その後タクシーに乗って、海沿いに向かったのかもしれない。


「蓮實さんも怜於と喧嘩中ですか」

「僕の手にはあまる生徒だ。辞職を検討中だ」

「辞めないわ」

「辞めるさ」

「一凛さん。相変わらず美人ですね」

「女性の全盛期は人それぞれだな。彼女は十代の頃から美人だが、三十を過ぎてからのほうが花やかだ」

「表情が昔より、優しくなった気がする。人柄も大きくなられた感じ。怜於は一凛さんとも、仲が良さそうですね」

「そうだな。彼女もあの子を可愛がってる。あの子も彼女に懐いてる」

「二人が好きだと、怜於が言っていること」

「彼女の前でも言ってる」

「四月一日も、ゴールデンウィークにも、お目にかかれなかった。旅行中だと伺ったけど。一凛さんには、もう会えないのかもしれない。わたし、なんとなく、そう思いこんでました」

 この日、江ノ電の客は多かった。私たちは車内の端に立ち、小声で話をつづけた。

「怜於もあんなふうに騒いでるしね」

「五月に伺ったときには、宗形さん、怜於を抱き上げてたわ」

「一時はどっちも、怜於に距離をおいていた。知毅が怜於との婚約を決めてから、昔に戻ってきてるな」

「昔?」

「知毅が引き取ったとき、あの子はもう九歳だった。猫かわいがりするような年頃じゃないと思うが。僕があの子をはじめて見た時、龍明は嬉しそうに、あの子にプリンを食べさせていた。知毅は彼ほど子供をかまわないが、あの子にしがみつかれると、そのままにしていた。背負ったり抱き上げたりして、歩き回ってた。さっきみたいにね」

 信乃は笑った。

「あの子が恋しちゃったのも。仕方がないのかも」

「そうだな。誤解されても仕方がない、甘やかし方だった」

「一凛さんは、よく旅行を?」

「彼女は家にあまりいないけど。一緒にいるときは、龍明ととても親密だ」

「あなたへの手紙に、書いた気がしますけど。宗形さんが一凛さんと、結婚したと聞いた時、私かなり驚いたんです。兼平さんは」

「いつか彼女と結婚するんじゃないか。そう思っていた。君の手紙には、そう書いてあった」

 私もそう思っていた。

「あの方と兼平さんは、一緒にいるのがとても自然だった。どうして私と婚約したのかしらって。私昔、そう思わないでもなかったわ」

「あの二人は子供の頃から仲が良くて。距離が近すぎたんだな。ある種の男には、身近なものに、目を向けない傾向がある」

 当時知毅がチカちゃんに目を向けていれば、龍明と知毅、チカちゃんと信乃。四人の関係は、どうおさまったのか。あるいはおさまらなかったのか。信乃と私の縁は、さてどうなっていたか。

「あなたからの手紙に、宗形さんと一凛さんは良いご夫婦だと書いてあって。なら、薫さんには、あなたか兼平さんと結婚してほしいなぁと。そう思うようになったけど」

 知毅がチカちゃんを思い切りながら思っていることも。チカちゃんがまだ知毅を思っていて、彼を見ないようにしていることも、信乃はまだ知らなかった。

「結婚して、もう十年以上経つんだな。龍明とチカちゃんには、今や強い繋がりを感じる」 

 どちらも諦めない。怜於がそう言っていることも、まだ知らなかったはずだが、信乃は残念そうに言った。

「宗形さんには、あの子は失恋ね」

 怜於を邪魔に思う私は、ただ、そうぼやいた。

「君はあくまであの子の味方なんだね」

 あの四人の関係がどうなるのか。まるで予想がつかなかった。自分がどうなってほしいのかさえ、わからなかった。

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