第21話
六月十二日。
前日の午後は、逗子マリーナの敷地内を、うろうろ歩いて、考えた。夕食を作りながら考え、就寝前の入浴時にも考えたが、心が決まらなかった。
いつも通り午前四時に起きて、仕事にとりかかった。午前九時に一休みして、トマトとレタスとオムレツのサンドイッチを作っているとき、まずは龍明と話をしようと思い立った。電話をしてみれば、在宅だった。あちらから誘われた。
「葉山あたりまで出て、海岸を歩かないか。俺が乗せてゆく」
三十分ほど時間を見て、部屋を出た。建物の玄関に出ると、五分ほどで、ジウジアーロデザインの、銀色のマセラティがやってきた。私は後部座席に乗りこんだ。
当時私たち三人は、ジウジアーロのデザインする車に、かなり入れあげていた。龍明はこのマセラティを、かなり長く愛用した。知毅は青いスズキ117クーペを数年前に購入、私は日本に戻った時、黒いアウディを購入して、やはり結構の期間、寵愛した。
この頃は、平日ならば海沿いの道も、気持ちよく走ることができた。銀色のマセラティは飛ぶように、海沿いの道を進んだ。
この年は、春から夏にかけて、雨が少なかった。この日も降った記憶はない。海は午前の光に、煌めいていたような気がする。
後部座席の私は、海を眺めて、運転席の龍明に訊ねた。
「昨日帰ってポストを見たら、招待状が届いていた。どうして六月二十一日なんだ?平日の木曜日。薫くんの誕生日の、前日だ」
「夏至の日が良いと、彼女が言ったんだ。理由を尋ねたら、面白そうだからと笑っていた」
さて何か企んでおられるのか。ただの気まぐれか。
「久世くんのご両親も、島根からいらっしゃるのか」
「うちでの集まりは、ごく親しい人たちだけのお祭りにしたいと、当人たちがそう言う。だからまたバーベキューパーティーにした。どちらのご両親も参加されない。ご両親方は、七月に椿山荘で、盛大な披露宴を企画しているらしい」
「二十一日の招待客は?」
「俺と知毅と怜於、チカちゃん、あんた、松本さん。慎とナオミちゃん。あとは、薫ちゃんの家の女の子たち。久世の仕事仲間。そんなところだ」
嵐の目は全員集合。私はそう独り言ちた。
「ああ。法子さんとおじさまも、お招きするらしい」
生母は薫の君と親しいからわかるが。
「どうしてチチを」
「
そうなのか。
「気晴らしにお招きしたいが、エスコートは誰に頼もうかと相談されたので、おじさまを推薦した」
「どうしてまたあの人を?」
「おじさまは何度も求婚して振られてるが。法子さんの親友だ。この頃元気が出てきて、御退屈のご様子でもあるし。法子さんに会いたがっておられた。電話で打診したら、快諾してくださったぞ」
我が父が、何かしでかさないように願って、思わず軽くため息を吐くと、龍明は私を、窘めるように言った。
「あの人はあちこちで、なかなかの人気者なんだぞ」
一色海岸に隣接する駐車場に車を止めて、海岸に降りた。御用邸の周辺を、二人で歩いた。平日の午前中。六月の葉山の海岸は、人けがなかった。
「昔あんたに、ここまで連れてきてもらった」
「君はまだ高校生だった」
「美しいデートの思い出だ」
今はそんな昔話をするときじゃない。そう思う私は、龍明に訊ねた。
「離婚届はいつ用意したんだ」
海を見て、龍明は言った。
「怜於と婚約した。知毅にそう言われる、少し前だ。彼女が戻ってきたら、二人を説得するつもりだった」
「しかし知毅は、怜於と婚約してしまった」
「怜於は知毅を、本気で慕ってる。知毅も怜於を可愛がってる。怜於がもう少し大人になれば、知毅にとって悪い相手じゃない。俺も彼女と別れたいわけじゃない。どうしようかと、ずっと考えてた」
「離婚を考えていたなら、四月一日に、知毅を止めるべきだったな。怜於との婚約を、発表させるべきじゃなかった」
「反対したんだ。しかし、二人の婚約を反対したいと。そう思われそうな空気になって。止められなかった」
「知毅を婿にして、怜於を養子にする。僕にそう言ったぞ」
「あの二人が結婚するなら、そうしたい。あの時、なんとなく、そう思っただけだ。ちょっとした思い付きだ」
「チカちゃんに、その思い付きを話したのは。彼女の気持ちを探るためか」
「うん」
「探ってみて。どう思った?」
「彼女は昔からずっと、知毅が好きだ。知毅が振り向かないから。俺と結婚した。あんたも知ってるだろ」
「君は子供の頃から、彼女が好きだった」
「うん」
「でも高校生になったら、年上のガールフレンドをつくった」
「懐かしの十代。あんたもチカちゃんも、知毅に夢中だった。薫ちゃんは、可愛い女の子たちに夢中だった。そこに、俺を好きだと言ってくれる、すてきな人が現れた。俺にとっては女神様だった。彼女には自信をつけてもらって、色々教えてもらった」
「知毅の許婚として、松本さんが登場した頃も、まだつきあってただろ」
「彼女が再婚して、ロンドンに飛び立ってしまったのは、松本さんに出会った、一年後くらいかな。最後の半年は、ほとんど会っていない。馬鹿げた考えだとわかっちゃいたが。松本さんに、申し訳ない気がしたんだ」
「君も松本さんには、随分真剣だった」
「この人と婚約してしまうのかと。知毅に紹介されたときは、そう思った。チカちゃんのことを思うとね。がっかりしたよ。でも三か月後くらいには、知毅の婚約を、心から祝福してたんだ。なのに、どういうわけか、気が付くと、彼女が大好きになっていた」
「・・・・・」
「一緒に歩いているだけで、
「僕は君のほうが。あの人とはうまくいくんじゃないか。そう思わないでもなかった。知毅も君に、あの人のことを頼んだ。引き受ける気には、ならなかったのか」
「そうしたかったが。どうしても、追いかける気になれなかった」
「君は知毅が、好きすぎるからな」
龍明は何も言わず、浜辺に落ちている石を拾った。
私は息を吐いて、ずっと口にできなかった苦情を述べた。
「君らの繫がりは、昔から強すぎる。まるで長年連れ添った
手の中の石をためつすがめつしながら、龍明は語った。
「六歳の時に両親が死んだ。世界は真っ暗になったが、祖父が俺を、船に引き取ってくれて、律さんと善さんという家族ができた。薫ちゃんという姉ができて。それから、知毅という兄ができた。七歳の俺は、この兄がほんとに好きで、遊びにきてくれるのを、毎日待っていた。知毅は俺を、夢で見た息子だと、結構本気で、そう思っている。何て不思議な幸運。俺はずっとそう思っている」
「あいつのどこに、そんなに惚れこんだのかな」
「チャーリーに公爵。小次郎。毬子さん。ベル。家族を大勢、連れてきてくれた」
「拾ったはいいが、世話のできない生き物を、君に押し付けただけだ。君は人の子まで、あいつから引き受けた」
「俺が喜ぶから、連れてきたのさ。怜於は俺が奪ってきた」
「あいつ自身は、君への借りと思っているが。君にとっては贈り物だったのか」
「チカちゃんにも、あんたにも、引き合わせてくれた。本人はわかってないが、知毅は、ほんとにたくさんのものを、俺にくれた」
秋田犬を連れた、六十歳くらいの男と、その妻と思われる女が、浜辺に出てきた。その姿を見て、私は言った。
「チカちゃんとの結婚は、彼女が去った二年後だ。ベッドに誘ってみたら、求婚されて驚いたって。チカちゃんは、そう言ってたぞ」
龍明は笑った。
「誘われた時は、俺もかなり驚いた。チカちゃんのことは、ずっと知毅のものだと、そう思ってた」
「知毅は松本さんと婚約したし、あの頃はあの人に入れあげていた」
「そうだな。でもチカちゃんは知毅が好きで。俺はあの頃も、チカちゃんは知毅のものだと、思ってた気がする。それがだ。気が付けば、俺のすぐ近くにいて、俺を見てた。松本さんがいなくなって、淋しくなった世界に、色彩が蘇った。そんな気分だった、逃がさないように、まず求婚した」
「知毅はまだ、君とあの人を、くっつけるつもりだった」
「あんたにも、時々背を押された」
「君たちは、どっちも彼女を追うべきだと。僕はそう思っていた。君らの結婚には、あいつも俺も、驚いた」
「あんたは怒ってたな。自分の気持ちに、気づいてなかったが。あの頃はもう、彼女に惚れこんでた」
私は石を上着のポケットに入れた龍明を、子供のように叱った。
「君は幾つになった。どうしてそうなんでも拾って、ポケットに入れるんだ」
子供ではない龍明は、いたずらな目で笑って、石はポケットに入れたままだった。
顔を顰め、恐る恐る、私は言った。
「離婚届のこと。チカちゃんは怒ってたぞ」
「うん」
海を見て、頷いた龍明の顔は、すっかり覚悟を決めているように見えた。
「彼女は、出ていきたくないんだ。だから別棟に留まった。君が離れるなといえば、絶対離れないのに。そう言った。なのに、別れたがっている、君にそう思われている。離婚届まで用意していた。君は別れたいようだと、怒っていた」
「出て行ってほしくない。彼女が俺のことも、思ってくれていることは、わかってる。しかし俺たちはもう、別れたほうがいい」
「なぜ?」
「あの二人は、お互いのためにできているようだ。 俺は昔から、ずっとそう思ってた。知毅は、やっとそのことがわかったんだ」
「君と彼女の並んだ姿も、僕はとても良いと思う」
「彼女は昔から知毅が好きだった。俺はわかってて結婚した。やっとその恋が、叶いそうなんだ。成就させてやりたい。知毅が相手なら、そう思える」
「彼女は今、君も知毅も、同じくらい思ってる。知毅を求めるつもりはない。知毅にも、彼女を求めるつもりはない」
「わかってる。だから三人で、結構長い間、身動きできずに、やってきた。でもそろそろ限界だ」
彼女は言った。その気にならないときは、誰にでもあるだろ。
もしかしたらと思った。恐る恐る、私は訊ねた。
「君たち、ひょっとして、だいぶ前から、夫婦じゃないのか」
龍明はちらりと私を見た。海を見て言った。
「このままだと、じきに彼女は、ここに帰ってこなくなる」
龍明に求められると、知毅に悪くて応えられないのかもしれないが。断れば、龍明に悪いと思うはずだ。
彼女が旅に出る理由は、知毅に会うことを避けるためかと思ったが。龍明を拒みつづけることから、逃れるためでもあるなら、まぁそうなるだろう。
私は言った。
「知毅は君が大事だ。彼女の手をとらないかもしれない」
龍明は言った。
「知毅とは、日曜の夜に、電話で話しあった。怜於との婚約を解消して、彼女の手をとると言った。昨日の夜、来るはずだったんだが。色々あって、これなくなったみたいだ。ついさっき到着した。まずはあの子と話してる」
もうそこまで、話を進めていたのかと、驚いた。
貝殻を拾って、私は海に投げた。
「急な展開で。戸惑っている。今日の授業はどうした?」
「今日の受け持ちは俺だ。休むことにした」
「またしばらく授業にならないだろうな」
「今回は仕方がないな。振り回して申し訳ないが。六月いっぱい休校にしたい。授業料は払う。今日はそのことを話しに来た」
「今月はほとんど働いていないが」
「こちらの都合だ。受け取ってほしい」
「授業の遅れはどうする?」
「七月の夏休みはなしでいきたいが」
「かまわない」
「ありがとう」
「いつ心を決めたんだ」
「日曜の夜。知毅を説得しているときも、迷ってた」
「婚約解消を、あの子が認めるだろうか」
「あの子に自分の気持ちを伝える。それでも良いというなら、あの子と結婚する。チカのことは引き受けられない。知毅はそう言ったが」
「あの子は二人の気持ちをわかってる」
「思いあっているが、どちらも諦めている。そう思ってる。チカと俺が離婚する。だから諦めきれない。そう言われて、あの子が知毅を引き留めるとは思えない」
「怒り狂うぞ」
「あの子はどちらも好きだ。気持ちが落ち着けば、二人の仲を認めるはずだ」
前日見た、別れ際の顔を思い出した。自分でも意外なほど、怜於が可哀想になった。
「婚約して三か月も経たないうちに、諦めきれない相手がいると、婚約者に打ち明けるのか。あの子にひどくないか」
「彼女と俺は、もう別れたほうが良いと思う。別れれば、知毅の気持ちも動く。二人の婚約を知るのは、内輪の人間だけだ。怜於はまだ若い。将来結婚するかもしれない。そのくらいで考えておこう。知毅が発表した時、莞爾兄さんはそう言った。怜於の正式な養父がそう言ってくれたおかげで、知っている人間も、あの二人の婚約は、まだその程度のことと思っている。うやむやにするなら、早いうちが良い。俺はあの子のために、できるだけのことをするつもりだ」
私は言った。
「君は独身になる。そこはあの子にとって、幸いだ」
すると、龍明は言った。
「可愛くてたまらない。俺はあの子に恋をしている。だが二人で恋をするつもりはない」
私は龍明の顔を覗きこんだ。龍明は微笑んだ。その微笑みの意味は解きがたかった。
「そのうちちゃんと話さないとならないが。知毅と一緒に突き放すつもりはない。俺がそう思っていることは当分秘密だぞ」
龍明の言葉に、私は呟いた。
「君の思い通りになるかな」
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