第14話

  龍明と食堂に入ると、テラスの食卓で、チカちゃんが一人、新聞を読んでいた。その膝の上で、毬子さんも新聞を覗きこんでいた。足元に寝そべっていた公爵が、私たちを見て上半身を起こした。

  食卓についているのは、チカちゃん一人だった。しかし隣の席には、食べ残しのケーキとカップが置いてあった。

 細君と向かい合う席に腰を下ろすと、龍明が尋ねた。

「ナオミちゃんはどこに消えた?」

 新聞を畳みながら、チカちゃんが答えた。

「レオを追いかけていった。美人すぎて、敵役が似合いそうな子だが。あいつの後を追う様子は子犬だな」

 龍明の隣の席に腰を下ろし、私は二人を暫し眺めた。着古したジーンズにシャツを着ているのに、どちらも優雅に見えた。主人公は立派な大人の男女。そんな古き良き映画の、一場面を見ているようだった。

 チカちゃんの知性と挙措動作と着こなしは、結婚してから、随分磨かれた。それは、龍明という夫を得た結果だと、私にはそう思える。

 怜於を追いかけていったという少女は、私たちが食卓につくと、じきに戻ってきた。

 芳紀十六歳。咲き初めた薔薇であり、まだ固い、南国の果実だった。あの日はシックな黒いワンピースを着て、少し大人びて見えた。

「怜於はどこかに行っちゃいました」

 龍明に歩み寄ると、彼女はそう訴えた。切れの長い狼の瞳が、口惜しそうに光っていた。

「すぐに戻ってくる。先に昼食をはじめよう」

 龍明は優しい声でそう勧めたが、彼女はきっぱりと言った。

「あたし、今日は帰ります」

「君の好きな、サーモンのキッシュを作ってもらった。デザートには、サクランボのクラフティも出るよ」

 チカちゃんはそう引き留めたが、美少女は軽く頭を下げると、さっさと退場してしまった。入れ違いに、昼食の飲み物と野菜料理を運ぶワゴンを押して、善さんが入ってきた。


「昼食は三人になってしまった。律さんにそう伝えてくれないか」

  善さんは龍明の言葉に、「かしこまりました」と禿頭を下げた。しかしすぐには下がらず、まずは給仕という様子で、葡萄酒ワインの瓶を手に取った。

  最初は龍明のグラスに、金色の葡萄酒を一口注いだ。龍明が試飲して頷くと、私のグラスに、ついで龍明とチカちゃんのグラスに、葡萄酒が注がれた。

 チカちゃんは、食卓に身を乗り出した毬子さんを優しく抱き上げ、膝の上から床に下した。 

 グラスをかかげて、龍明が言った。

「子供たちがいないと寂しいが、仕方ないな」

 グラスをかかげて、私は言った。

「怜於はどこに行ったかな」

 私を見てグラスをかかげ、チカちゃんが言った。

「うちの子をイジめたな。小姑先生」

「フライは少しずつで」

 人参のサラダとレタスのサラダ。ブロッコリーとカリフラワーのフライ。善さんから二皿を受け取ると、私は言った。

「現実を少し教えただけだ」

  龍明が言った。

「あの子は歩きながら考える。今頃すごい勢いで歩いてるだろう」

 チカちゃんが言った。

「ナッチはそんなあいつを、今探してるはずだ」

 納得できぬ気持ちで、私は言った。

「あの美少女が、あの子を追いかけてるとはね」

 二人の関係について、チカちゃんが解説してくれた。

「怜於は中学の入学式で、彼女に一目惚れしたんだ。一か月くらいやんちゃに猛アタックして、お姫様のナイトになった。あいつは甘えん坊だが、甘やかすのも上手い。結構気が付く、働き者だ。トモ兄とリューチンにもまめに尽くしてるが、彼女にたいしても、かなり優しかったらしい。そんなナイトに、今はお姫様のほうが夢中だな」

 龍明が彼女に言った。

「姫と怜於もすてきなカップルだが。彼女には、慎というナイトもいる。慎は将来、姫に求婚するかもしれないな」

  チカちゃんが言った。

「そこまで思い詰めてるようには見えないぞ」

 龍明「あの子は母親似だ。情熱的なタイプじゃないが。彼女のことは、とても好きだ」

 私は言った。

「怜於とマコくんは仲が良いな。彼女のことで、いがみ合いそうなもんだが」

 シャブリを一口やってから、龍明が言った。

「そうだな。あの二人も、両想いで仲が良い」

 私は尋ねた。

「マコくんは、怜於の性別について知ってるのか?」

 チカちゃんが龍明に言った。

「慎は、中一の夏には、怜於の秘密を知ってたよな」

 龍明「あの子の中学時代を、よく支えてくれた」

 一凛「あいつはナッチのナイトであり、怜於のナイトなんだ」

 龍明「慎にとって怜於は、同性の友人でもあり、こっそり隠しておきたい宝石でもあるようだ」

 

 焼きたてのミートパイとサーモンのキッシュを、律さんが運んでくると、善さんは彼女に近づいた。怜於とナオミちゃんの不在を、小声で伝えていた。

 龍明が律さんに声をかけた。

「あなたのミートパイは、あの子の大好物だ。帰ってきたら大喜びするだろう」

 龍明の膝に上がった毬子さんをしっかと抱き上げ、律さんは言った。

「あの方と一条のお嬢様も数えて、五名様がたっぷり召し上がれる大きさで焼きました。戻られたら、責任をもって平らげていただかないと」

 律さんの腕のなかでばたばたする毬子さんに、龍明は目を細めた。

「レディと公爵にも、何か良いものをさしあげてくれ」

「かしこまりました」

 威厳に満ちた女料理人は、毬子さんを右腕に、左手で公爵を押して、食堂を下がっていった。

 キッシュとパイの皿を善さんが配り始めると、チカちゃんが龍明を見て言った。

「あんたにとってのハスミンも、そんな感じ?」

 龍明「そんな感じとは?」

 一凛「同性の友達で宝石」

 龍明「そうだな。俺のイメージでは、この人はダイヤモンドで、あなたはサファイヤだな」

 善さんの顔をさりげなく見ると、主人の奇矯に慣れた給仕は、平然とした顔で働いていた。三人の前に皿が置かれた。ミートパイに合わせる、赤い葡萄酒もグラスに注がれた。

 ナイフとフォークを手にとると、龍明は私に微笑んだ。

「男に恋をしたのは、あんたが二人目だ」

 ナツメグの効いた塩味のミートパイを一口食べ、シラーで飲み込むと、私は言った。

「初恋の男は知毅か?」

 キッシュにナイフをいれつつ、チカちゃんが言った。

「初恋の女は薫さんかな。あの人とはじめて会ったのは、五歳のときだよな」

 龍明「ローマから帰国して三日後、祖父と一緒に、彼女の誕生会に出席した。そこで彼女を発見した。そうだな。女性にたいする恋は、あの日はじめて体験した」

 私「彼女は七歳。その頃から女王様だった。だろ」

 龍明「振袖を着たタイターニア。まだ幼い可憐な声で、あれをとって、こっちに来てと、みんなに命令していた。彼女は真珠だな」

 一凛「妙な威厳と無意識の尊大は、宗形の血かな。おまえのおじいちゃんもそんな感じだった」

 私「こちらの奥方と、はじめて会ったのは、何歳のときだったかな」

 龍明「小学校三年の夏だ。女性に恋をしたのは、君で二人目だ」

 くっくっと笑って、チカちゃんは言った。

「五人目くらいかと思ってた」

 私は言った。

「僕も自分は、そのくらいかと思ってたよ」

 龍明は私とチカちゃんを見比べた。

「俺は君たちが思ってるほどには、惚れっぽくない」

 龍明のために、私はチカちゃんの機嫌をとった。

「昔、こいつは、何枚も君の写真を持っていた。かなり熱烈なファンだった」

 龍明が言った。

「今も写真は増え続けてる。あんたにアルバムを見せた頃は、この人は未来の姉だと、そう思い込んでいた」

 一口グラスを傾けてから。チカちゃんは言った。

「トモ兄と結婚する。子供の頃、俺は何度も、おまえにそう宣言したもんな」

 こいつらみんな、どうしたいんだろうな。私は二人を見比べて、そう内心呟いた。自分は彼らにどうなってほしいのかを考えながら、私は言った。

「初恋は実らない。そう語る人は少なくない」

 チカちゃんが龍明に訊ねた。

「相思相愛なのに。薫先輩とは何もなかったようだな。トモ兄とはどうなんだ?」

 龍明が私に訊ねた。

「あんたと知毅の間には、ほんとに何もなかったのか」


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