第13話
龍明と食堂に入ると、テラスの食卓で、チカちゃんが一人、新聞を読んでいた。その膝の上で、毬子さんも新聞を覗きこんでいた。足元に寝そべっていた公爵が、私たちを見て上半身を起こした。
食卓についているのは、チカちゃん一人だった。しかし隣の席には、食べ残しのケーキとカップが置いてあった。
細君と向かい合う席に腰を下ろすと、龍明が尋ねた。
「ナオミちゃんはどこに消えた?」
新聞を畳みながら、チカちゃんが答えた。
「レオを追いかけていった。美人すぎて、敵役が似合いそうな子だが。あいつの後を追う様子は子犬だな」
龍明の隣の席に腰を下ろし、私は二人を暫し眺めた。着古したジーンズにシャツを着ているのに、どちらも優雅に見えた。主人公は立派な大人の男女。そんな古き良き映画の、一場面を見ているようだった。
チカちゃんの知性と挙措動作と着こなしは、結婚してから、随分磨かれた。それは、龍明という夫を得た結果だと、私にはそう思える。
怜於を追いかけていったという少女は、私たちが食卓につくと、じきに戻ってきた。
芳紀十六歳。咲き初めた薔薇であり、まだ固い、南国の果実だった。あの日はシックな黒いワンピースを着て、少し大人びて見えた。
「怜於はどこかに行っちゃいました」
龍明に歩み寄ると、彼女はそう訴えた。切れの長い狼の瞳が、口惜しそうに光っていた。
「すぐに戻ってくる。先に昼食をはじめよう」
龍明は優しい声でそう勧めたが、彼女はきっぱりと言った。
「あたし、今日は帰ります」
「君の好きな、サーモンのキッシュを作ってもらった。デザートには、サクランボのクラフティも出るよ」
チカちゃんはそう引き留めたが、美少女は軽く頭を下げると、さっさと退場してしまった。入れ違いに、昼食の飲み物と野菜料理を運ぶワゴンを押して、善さんが入ってきた。
「昼食は三人になってしまった。律さんにそう伝えてくれないか」
善さんは龍明の言葉に、「かしこまりました」と禿頭を下げた。しかしすぐには下がらず、まずは給仕という様子で、
最初は龍明のグラスに、金色の葡萄酒を一口注いだ。龍明が試飲して頷くと、私のグラスに、ついで龍明とチカちゃんのグラスに、葡萄酒が注がれた。
チカちゃんは、食卓に身を乗り出した毬子さんを優しく抱き上げ、膝の上から床に下した。
グラスをかかげて、龍明が言った。
「子供たちがいないと寂しいが、仕方ないな」
グラスをかかげて、私は言った。
「怜於はどこに行ったかな」
私を見てグラスをかかげ、チカちゃんが言った。
「うちの子をイジめたな。小姑先生」
「フライは少しずつで」
人参のサラダとレタスのサラダ。ブロッコリーとカリフラワーのフライ。善さんから二皿を受け取ると、私は言った。
「現実を少し教えただけだ」
龍明が言った。
「あの子は歩きながら考える。今頃すごい勢いで歩いてるだろう」
チカちゃんが言った。
「ナッチはそんなあいつを、今探してるはずだ」
納得できぬ気持ちで、私は言った。
「あの美少女が、あの子を追いかけてるとはね」
二人の関係について、チカちゃんが解説してくれた。
「怜於は中学の入学式で、彼女に一目惚れしたんだ。一か月くらいやんちゃに猛アタックして、お姫様のナイトになった。あいつは甘えん坊だが、甘やかすのも上手い。結構気が付く、働き者だ。トモ兄とリューチンにもまめに尽くしてるが、彼女にたいしても、かなり優しかったらしい。そんなナイトに、今はお姫様のほうが夢中だな」
龍明が彼女に言った。
「姫と怜於もすてきなカップルだが。彼女には、慎というナイトもいる。慎は将来、姫に求婚するかもしれないな」
チカちゃんが言った。
「そこまで思い詰めてるようには見えないぞ」
龍明「あの子は母親似だ。情熱的なタイプじゃないが。彼女のことは、とても好きだ」
私は言った。
「怜於とマコくんは仲が良いな。彼女のことで、いがみ合いそうなもんだが」
シャブリを一口やってから、龍明が言った。
「そうだな。あの二人も、両想いで仲が良い」
私は尋ねた。
「マコくんは、怜於の性別について知ってるのか?」
チカちゃんが龍明に言った。
「慎は、中一の夏には、怜於の秘密を知ってたよな」
龍明「あの子の中学時代を、よく支えてくれた」
一凛「あいつはナッチのナイトであり、怜於のナイトなんだ」
龍明「慎にとって怜於は、同性の友人でもあり、こっそり隠しておきたい宝石でもあるようだ」
焼きたてのミートパイとサーモンのキッシュを、律さんが運んでくると、善さんは彼女に近づいた。怜於とナオミちゃんの不在を、小声で伝えていた。
龍明が律さんに声をかけた。
「あなたのミートパイは、あの子の大好物だ。帰ってきたら大喜びするだろう」
龍明の膝に上がった毬子さんをしっかと抱き上げ、律さんは言った。
「あの方と一条のお嬢様も数えて、五名様がたっぷり召し上がれる大きさで焼きました。戻られたら、責任をもって平らげていただかないと」
律さんの腕のなかでばたばたする毬子さんに、龍明は目を細めた。
「レディと公爵にも、何か良いものをさしあげてくれ」
「かしこまりました」
威厳に満ちた女料理人は、毬子さんを右腕に、左手で公爵を押して、食堂を下がっていった。
キッシュとパイの皿を善さんが配り始めると、チカちゃんが龍明を見て言った。
「あんたにとってのハスミンも、そんな感じ?」
龍明「そんな感じとは?」
一凛「同性の友達で宝石」
龍明「そうだな。俺のイメージでは、この人はダイヤモンドで、あなたはサファイヤだな」
善さんの顔をさりげなく見ると、主人の奇矯に慣れた給仕は、平然とした顔で働いていた。三人の前に皿が置かれた。ミートパイに合わせる、赤い葡萄酒もグラスに注がれた。
ナイフとフォークを手にとると、龍明は私に微笑んだ。
「男に恋をしたのは、あんたが二人目だ」
ナツメグの効いた塩味のミートパイを一口食べ、シラーで飲み込むと、私は言った。
「初恋の男は知毅か?」
キッシュにナイフをいれつつ、チカちゃんが言った。
「初恋の女は薫さんかな。あの人とはじめて会ったのは、五歳のときだよな」
龍明「ローマから帰国して三日後、祖父と一緒に、彼女の誕生会に出席した。そこで彼女を発見した。そうだな。女性にたいする恋は、あの日はじめて体験した」
私「彼女は七歳。その頃から女王様だった。だろ」
龍明「振袖を着たタイターニア。まだ幼い可憐な声で、あれをとって、こっちに来てと、みんなに命令していた。彼女は真珠だな」
一凛「妙な威厳と無意識の尊大は、宗形の血かな。おまえのおじいちゃんもそんな感じだった」
私「こちらの奥方と、はじめて会ったのは、何歳のときだったかな」
龍明「小学校三年の夏だ。女性に恋をしたのは、君で二人目だ」
くっくっと笑って、チカちゃんは言った。
「五人目くらいかと思ってた」
私は言った。
「僕も自分は、そのくらいかと思ってたよ」
龍明は私とチカちゃんを見比べた。
「俺は君たちが思ってるほどには、惚れっぽくない」
龍明のために、私はチカちゃんの機嫌をとった。
「昔、こいつは、何枚も君の写真を持っていた。かなり熱烈なファンだった」
龍明が言った。
「今も写真は増え続けてる。あんたにアルバムを見せた頃は、この人は未来の姉だと、そう思い込んでいた」
一口グラスを傾けてから。チカちゃんは言った。
「トモ兄と結婚する。子供の頃、俺は何度も、おまえにそう宣言したもんな」
こいつらみんな、どうしたいんだろうな。私は二人を見比べて、そう内心呟いた。自分は彼らにどうなってほしいのかを考えながら、私は言った。
「初恋は実らない。そう語る人は少なくない」
チカちゃんが龍明に訊ねた。
「相思相愛なのに。薫先輩とは何もなかったようだな。トモ兄とはどうなんだ?」
龍明が私に訊ねた。
「あんたと知毅の間には、ほんとに何もなかったのか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます