第13話
1984年。怜於が私を「先生」と呼ぶのは、知毅か龍明の、訓育の結果だった。おそらくそうだ。時々、値踏みするように私を眺めた。甚だ可愛くない生徒だったが、教え始めてひと月ほどで、私は怜於の教育を、楽しみはじめた。
子供は苦手な私だが、教えることは嫌いではない。相手に才気を感じたときは特に。怜於の才気は、思っていたより、打てば良い音がした。授業中、興味を覚えると、そのよく光る目が無心に輝いた。その目を見たとき、私は怜於という子供に、はじめて可愛げを感じた。
ただ怜於はむら気で、時々何かに気を取られて、学習を放棄した。課題も予習も放り出すその様子に、私は何度か愛想を尽かした。
この年の五月後半から六月前半も、知毅にナオミちゃんとの交際を勧められたことで、学ぶ意欲を完全に失っていた。
この日は授業をはじめるやいなや、授業とは関わりない質問が飛び出した。
「あんたは、男と女、どっちでも良いのか?」
「今は授業中だ。受け付ける質問は、枕草子に関することのみとする」
「俺は今、こんなの読む気分じゃない」
「君が選んだ教科書だぞ」
「今は古典の文法なんて、聞いても頭にはいらない!」
癇癪をおこしている斉天大聖様の顔付きに、私も癇癪を起した。教師役を辞退するつもりで、本を鞄にしまいこみ、椅子から腰を上げた。すると怜於が声を上げた。
「待てよ。あんた結構短気だな。聞きたいことがあるんだよ」
私の前に立ち塞がり、怜於は言った。
「ずっと聞きたかった。でもあんたがこの家にくるのは、龍か知毅に会うためだ。二人きりになれるのって、授業中の時くらいで。だから聞けなかった。あんたの部屋に行けば、信乃がいるしさ」
「龍明にも知毅にも聞かれたくない質問か」
「そうだよ」
「僕とあいつらとの関係についてか」
私が椅子に腰を下ろすと、怜於は私の目の前に、椅子を動かしてきて腰かけた。私と間近で向かい合い、私の顔を、ぎらぎらと光る目で見据えた。
私はその顔をじろじろと眺めた。五月とはいえ、暑い日だった。白いTシャツにジーンズの怜於は、悪ガキにしか見えなかった。右後頭部の髪が、寝ぐせではねていた。私は内心で呟いた。
(型にはまらない美人?猿だ。可愛くないこともないが、やっぱり猿に似てる)
この日はじめて私たちは、敵意をまるで隠さず、二人きりで向かい合ったわけだ。
「あんた、俺を値踏みしてるよな。俺はあの二人に似合わないと思ってる」
「君も僕を値踏みしてる。教師としても値踏みしてるが。基本僕を、恋敵とみなしているようだ」
「あんたもそうだろ。どっちにも惚れてる」
「そうだな。まぁ、どっちにも惚れてる」
「いつからだ?」
「いつからかな」
「龍の部屋で、中坊の頃の、あんたの写真を見つけた。女物の振袖姿の奴。とんでもない美少女で、あんただって聞いて、ほんと驚いた」
「薫くんと僕は、中学を卒業する頃まで、似たような背格好だった。彼女はよく、僕に自分のドレスや着物を着せてくれた」
「薫は言った。昔あんたは、美少女で美少年。奇跡の生き物だった。知毅も龍も、あんたにぞっこん参ってたって」
薫の君の遊びを、当時の私も楽しんだ。知毅も龍明も、そんな私の姿を、まじまじと見た。私はその眼差しに胸ときめかせながら、ぎこちなく視線を流したり、微笑みを浮かべたりしたものだ。
もし私が、ずっとあの頃のままだったなら、女装愛好者となっていた(かもしれない)。その場合、知毅と私の関係、龍明と私の関係は、さてどうなっていただろう。
「二人とも、あんたとそういう付き合いはしたことがないって言う」
「そういうとは?」
「嘘じゃない気はする。二人ともホモじゃない。むしろ女好きだと思うし。でもあんたとは、仲良しすぎる」
「どっちも昔から、僕が大好きだ」
「振られたんだろ。お友達のままでいようってさ」
「振られた記憶はないな」
「あんたが振ったっていうのかよ」
「振った記憶もない」
「なぁ。あんたってホモなの?信乃が例外?それとも逆で、あの二人が例外?」
強く心惹かれた人間の性別は、若干男が多いか。しかし私は年々、女体の面白さと美しさに惹かれていく。美しい少年にそそられたことはあっても、男の体を犯す欲望とは、今に至るまで無縁だ。立派な男に求められることは快感だが、掘られるのは好きじゃない。だから男に求められても、あまり乗り気にならない。
私は怜於にこう答えた。
「人間は、同性愛と異性愛に二分されず、だれでも多少はバイセクシャルな傾向と持つ。フロイトはそう考えていた」
興味を覚えた目で、怜於は言った。
「キンゼイ・レポートにも、そんなことが書いてあるって。この前読んだ本に、そう書いてあった」
「そうだな。調査対象はアメリカ人四千人以上。その大部分の人間には、同性愛と異性愛の両方の傾向があった。キンゼイ博士はそう報告している。異性にしか興味を持たない性向と、同性にしか興味を持たない性向の割合は、調査対象の10%以下だったはずだ。サンプルされた成年男性の46%が、両方の性別の人に、性的に「反応した」と回答。37%は少なくとも1度以上の同性愛の経験を持っていたそうだ。調査結果に、異性愛と同性愛の分裂は見られず、それぞれの割合は、異性にしか興味を持たない性向ステージ0から、同性にしか興味を持たない性向ステージ6まで、七段階に連続的に変化してゆく。博士はそう解説している」
「分類するなら、七つの言葉が必要ってことになるな」
あの日、私たちは怜於の部屋にいた。基本怜於の部屋が、宗形学校の教室だった。広さ40㎡ほどの、二階東側の角部屋だ。
他の部屋と同じく、柱と床に色を合わせ、家具はすべて胡桃色だ。怜於を船に迎えた時、龍明が寝具とカーテンを新調した。寝具はすべて白。カーテンと椅子の座面は深い緑。
窓は東と南と北側にある。勉強机は東の窓の近くに置かれ、ベッドは南の窓の下にあった。西の壁の一部が、大きな棚となっていた。棚には龍明が揃えた、ステレオセットとレコードプレイヤー。怜於が小遣いで買い込んだ本に雑誌、レコード、カセットテープ。プラモデルに鉱石。私には判別不能なガラクタも、数多く並んでいた。棚の前には、知毅にもらったのだという、古い時代の大きな地球儀が、台座の上に鎮座ましていた。
私はそんな室内を見回して呟いた。
「あの二人は、僕の永遠の恋人だが。どちらとも、現実に恋をするのはごめんだな」
もはや神代に思える十代。どちらとも、多くの時間を共有した。恋に走る
怜於は眉を顰めた。
「それって、寝るのはごめんってことか?恋って性欲じゃねぇの?」
私は言った。
「恋とは相手に近づきたいと願う心だと、龍明は昔そう言った」
怜於はわずかに目を見開き、「うん」と同意した。下を向いて、早口に呟いた。
「俺。知毅と離れてる時も、龍と離れてるときも、早く二人の傍に行きたいって、そう思う。目の前に二人がいるときも、もっともっと傍に行きたいって、ジレジレしてる」
その声には二人への、ひどい甘えが滲んでいた。私は眉を顰めた。良い機会だと腕組みをして、怜於に言いたかったことを切り出した。
「君は知毅を選んだが、龍明のことも、諦めていないようだ」
怜於はきっぱり言った。
「選んでない」
私の声は冷たくなった。
「君は知毅と婚約した。それに龍明はもう、結婚している」
「一凛は、離婚してもいいって言った」
チカちゃんは、まだ知毅を思っていたが、知毅との恋を、求めてはいない。私はそう見た。だから彼女と龍明との仲を、かき混ぜないでくれ。そう思って、私は言った。
「君はチカちゃんとも、結構仲良くやってる」
「そうだな。時々憎らしくなるけど、俺は一凛が好きだし。一凛も俺を可愛がってくれる」
「彼女のために諦めようとは?」
「嫌いになりたくない。だから龍とは離婚してほしい」
「それで君が、龍明とも結婚するのか」
「龍が望むなら」
せめてどっちかにしろ。そう思って言った。
「一妻多夫の婚姻を、日本の法律は認めていないぞ」
怜於は立ち上がり、机の上の本を乱暴に薙ぎ払った。
「俺は結婚なんてしなくてもいいんだよ。俺はただ、我慢できないんだ。あの二人が誰かと結婚してるとか。誰かとつきあってるとか」
滅茶苦茶な言い分と乱暴に呆れて、私は尋ねた。
「じゃあ、君はあの二人と、どうなりたいんだ?」
チカちゃんの呟きを思い出した。あいつは、あの二人と、どうなりたいんだろうな。二人の間で困っていた、信乃の姿を思い出した。チカちゃんもまた二人から、離れたくなっているのか。怜於に譲って?そんな考えがふと浮かんだ。
怜於は光る目で私を睨み、拳を握った。頬を上気させて、声を上げた。
「龍は離婚する気なんて全くなさそうだし。知毅は、俺が女と付き合ってもいいんだ。でも、俺はどっちも好きで!選べないんだ!どっちも欲しいんだ!」
むきになって訴えてくる顔に、愛嬌を感じた。からかいたくなって、私は言った。
「初体験で、あの二人に抱かれるのは、なかなかきついと思うぞ。」
怜於は棚につかつかと歩み寄った。凄い勢いで飛んできた、ボルヘスの幻獣辞典を、かろうじて避けた私は、私の生徒に忠告した。
「まぁ二人とも、色恋については基本保守派だ。三人でベッドインは、断固拒むだろう。君には責任を感じてるしな。どちらかを選ばなきゃ、どちらも逃すぞ」
「俺はどっちも諦めない。諦めないからな!」
腕白小僧は、必死な顔でそう吠えると、教室から走り去った。
数秒後、怜於が開けた扉から、船の主が入ってきた。
床に本と文具が散乱している有様を見回して、龍明は私に訊ねた。
「何事だ?」
テキストを鞄につめながら、私は言った。
「むきになると、完全に猿だな」
龍明は私に近づいてきた。
「可愛いくて虐めたのか。あんたはサディストだからな」
「君には負ける」
「授業にならないようだな」
「君と知毅のこと以外、考えたくなさそうだ。性科学の授業なら聞いてくれるかもしれないが」
「性科学?」
軽く胸倉を掴むと、龍明の香気が鼻をついた。その香りを吸い込んで、私は言った。
「どっちも好きで選べない。どっちも諦めない。あの子は今、そう言った」
不思議な香りのする私の珍獣は、穏やかに言った。
「あの子は知毅と婚約した」
忍びあう愛人に囁くような小声で、私はその耳元に囁いた。
「知毅より君のほうが、あの子の恋人には向いている。チカちゃんはそう思ってるみたいだ」
龍明は目を伏せて言った。
「彼女が知毅を選ぶなら、俺は身を退くつもりだった。あの子と婚約したと。知毅にそう言われた時には、驚いた」
私が気づいた時、龍明はすでに、知毅の恋に気づいていた。そう見えた。その見立ては、正しかったらしい。
「君はチカちゃんと別れたいのか」
「はじめて彼女の手に触れたときの緊張を、まだ覚えている。今でも彼女を見るだけで、心が弾む」
「あの子のことはどう思ってる?」
「あの子の顔をはじめて見たとき、とても可愛いと思った。毎日可愛さが増した。今じゃ時々不思議に思うくらい、どうしようかと思うほど可愛い」
「君があの子を可愛がる様子は、親子にも、年上の恋人にも見える」
「俺の娘で息子で、永遠の恋人だ」
リネンのシャツから手を離し、私は尋ねた。
「誰かを、誰にも渡したくないと思ったことは?」
龍明は微笑んだ。
「俺は強欲だ。一緒にいると、一日に何度もそう思う。彼女といても。あの子といても。知毅といても。あんたといるときもそうだ。閉じ込めて隠しておきたい。何度もそう思った」
「僕を?」
「ああ。でも仕方がない。望んだ仕事で俺から離れて、外国に行くというなら、許すしかないし。俺以外の男と付き合っていても、相手が良い男なら許すしかない。彼女と結婚するというなら、祝福するしかない」
「横柄な奴だな。君が許さなくても、僕は好きにしたさ」
「うん。だから仕方がない」と笑う顔が可愛らしくて、些か憎らしかった。
知毅がアメリカにいた頃。私の心は、龍明に大きく傾いた。二歳年下の男は、日々の成長が目覚ましかった。日々輝きを増してゆく、その才気と聡明に、人柄に、逞しい肉体の美しさに、すっかり魅了されていた。
神代の十代。知毅は、私の肉体に接触することを、意識せずに避けていた。龍明は、時々ふいに近づいてきて、私を驚かせた。私はどちらにも恋をしていたが、どちらと恋をすることも望まず。二人の肉体を、意識しないようにして意識していた。
あの頃、もし龍明が、誰より私を求めていると、そう思える瞬間があったなら、望んでいなくとも、私は龍明の手をとったかもしれない。
龍明の前髪をつまんで、私は笑った。
「人はみんなわからないが、君の心は、特にわからない」
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