第12話
1984年。五月三週目の週末。
土曜日は、怒れる怜於がやってきて、許婚との逢瀬を邪魔してくれた。日曜日には宗形夫人が、前触れもなくやってきた。
午後一時。インターフォンの音が鳴った。玄関の扉を開けると、リネンの生成りのシャツにブルージーンズ。ウィングチップの茶色い革靴。彼女はすらりと立っていた。
身長174㎝。記憶よりだいぶ長くなっていた髪を、後ろで束ねていた。美しい素顔の
「ご無沙汰」
力強く艶のある、バコールのような低音。歯切れのよい話し方。私はその声を、懐かしく聞いたが、彼女のご帰還を存じ上げなかったため、かなり驚いていた。
「やあ」
「オミヤゲを渡そうと思って」
渡された袋の中には、二本の
「トスカナ地方で見つけた。無名の逸品だ」
「栓を開けるのが楽しみだ」
はじめて会った時、チカちゃんは中学二年の十三歳。薫の君も通ったお嬢様学校の、中等部の制服を着ていた。少年にも少女にも見える、切れるような美少女だった。
私にとって学生服は窮屈なお仕着せだったが、十代の知毅とこの人の制服姿は、なかなか良かった。どちらも戦前に中流だった良家に育ち、折り目正しい躾を受けた子供だった。その背筋の伸びた凛々しさには、制服がよく似合っていた。
「こいつが
「龍の「タカさん」。あんたの「カズ」。薫さんは「カズタカさん」。俺は姓をとって、ハスミンで行くかな。どうですか」
成長するにつれ、一人称と言葉遣いを、時と場合で変化させるようになったが、当時の彼女の言葉遣いは、まるでやんちゃな少年だった。
「一人称はいつも『俺』?」
「ある日、学校で、トモ兄の真似をしてみたくなって」
「知毅の?」
「そしたら、周りの女子にも受けちゃって。なんか、これで行くしかないなって空気になっちゃって。今に至るって感じ」
「こいつ。誕生日には、紙袋二つくらい、女子から貢物をもらってる」
「薫さんもけっこう貰ってるゾ」
十代の私がときめきを覚えた少女は、二人しかいない。薫の君とこの人だけだ。
「いつ戻ったの」
「一昨日の夕方」
週末なのに知毅が自分の部屋に戻った理由が、やっと飲み込めた。
「薫さんが来ててさ。ハスミンが書いてくれないからって、婚姻届の証人を頼まれた」
知毅もいただろ。そう言いたかったが言えなかった。かわりに訊ねた。
「書いたの?」
「リューチンと俺で、署名しましたよ。明日にはあの二人、入籍をすませるんじゃないかな」
「君、薫くんとは仲良しだろ」
「同じ学校を出た、敬愛する先輩ですヨ」
「相手は、あの久世くんだぞ」
「あんたは反対で。だから証人を断ったわけ?」
「自活している三十代の男女の結婚に、反対を唱えても意味がない。薫くんがきめたことなら仕方ない。しかし署名する気にはなれなかった」
「あんたとクゼッチって。仲良くやってると思ってたんだけど」
「服と映画と女優の趣味が良い。知識が豊かで、頭が切れる。話し相手としては愉快な男だ。だけど女好きで、悪人で、自由すぎる。親しい女性に、結婚すると言われて、心から祝福できる男じゃない」
「薫さんと良い勝負だよな」
「良い勝負?」
「先輩も女好きで、悪人で、自由すぎる人だ」
「・・・」
「あの二人の結婚にも驚いたけどさ。ハスミンと松本信乃さんの婚約にも、驚きましたよ」
「婚約?」
「したんじゃないの?」
「一年くらいつきあって、その後求婚の返事を貰うことにした。婚約まで辿りついていない」
「あんたと彼女は来年結婚する。トモ兄もリューチンもそう言った」
「僕はちゃんと説明した」
「二人とも、ハスミンに彼女を託したいのかな」
「託す?」
「どっちにとっても、彼女はいまだにマドンナだが、あんたもそうだ。あんたなら、許せるのかな」
「僕もマドンナ?」
「あんたが彼女を嫁にしたら、ろくでもない男に彼女を盗られる、その心配がなくなる。あんたが男の恋人をつくる心配もなくなる。二重に望ましい結婚だ。どっちもそう思ってるんじゃないか」
「・・・」
「シノリンには随分会ってない。大人っぽくなって、おしゃれになった。リューチンがそう言ってた。ヒギンズ教授はあんた?」
「みんな昔より大人になった。サンドイッチを作ってたんだ。君も食べる?中身はキュウリとハム、自慢のポテトサラダだ」
「昼飯?」
「うん」
「俺は召し上がったばかりなんだけど。美味そうだな」
「君の分も作ろう」
前日には信乃と怜於が腰かけていたソファに、チカちゃんは腰を下ろした。
テーブルに珈琲とサンドイッチを置き、向かい合って腰を下ろすと、彼女は私の顔を、繁々と見た。
「顔を合わせるのは、一年ぶりくらいかな」
「すれ違いが続いたね」
チカちゃんの趣味は、知毅同様、体を鍛える事だった。剣道は父親に、三歳から叩きこまれた。合気道は小学校二年で習い始めた。どちらも高位の有段者だ。知毅に拳法の指南も受けた。私が通っていたボクシングジムにも、一時通っていた。警察で長く要人警護を勤めた伯父から、警護の訓練まで受けていた。
体育大学に入学した頃から、習い覚えた体術を人に教え、収入を得はじめた。そのあらかたは、旅の資金となるようだ。
大学時代の休暇では、国内を周っていた。大学を出ると、海外を周り始めた。宗形夫人となっても、体を鍛え、体術を教え、金を稼いでいた。資金を作ると、ふらりとどこかに旅立った。
「美味い」
「口に合って良かった」
「ハスミンは良い主夫になる」
「エジプトからモロッコ。モロッコからギリシア。ギリシアからイタリア。今回の旅は長かったね」
「思いがけず長くなった。薫さんとクゼッチの接近。あんたの婚約。トモ兄と怜於の婚約。電話で色々報告があって。早く戻りたかったんだけどね」
「知毅のことは誰から?」
龍明は、知らせていないと言った。
「薫先輩の手紙に書いてあった。リューチンに電話した時に、確認した」
「君からはあまり電話がない。龍明はそう、ぼやいてたぞ」
「あんたは一生独身か、でなきゃ、そのうち、トモ兄かリューチンと結婚する。そう思ってたよ」
「目下この国では、男同士は結婚できない。それに
「だから彼女に求婚?」
「龍明とも知毅とも、結婚したいと思ったことはないよ」
「あんたがセンセイと付き合い始めた頃さ。なんでトモ兄でもなくリューチンでもなく、あの人なんだって。ほんと悩んだなぁ」
「どうして君と知毅は付き合わないのか。僕は昔、ずっとそう思ってた」
「俺たちにそんなムードあったか?」
「昔は知毅とのほうが、親密だっただろ」
幼馴染で、趣味も共通している。猛々しく花やかな獅子の一対。二人の並びが、私は好きだった。信乃が登場するまで、知毅はそのうちチカちゃんと結婚する。私はそう思い込んでいたのだが。この日、チカちゃんは言った。
「俺には女を感じない。トモ兄にはそう言われた」
「いつ?」
「高校二年の夏休みのことだ。俺から告白したわけだ。そしたら、そう言われた」
私は心のなかで呟いた。でもあいつは今、君に恋をしている。
立ち上がって、チカちゃんの前にある、空になったカップを、手にとった。
「お代わりをいれよう」
前年の九月。日本に戻って、ひと月ほどで気づいた。知毅はチカちゃんに、節度正しく距離をおき、彼女との恋を求めず、恋をしていた。
チカちゃんはそんな知毅と、少女時代よりいくらか距離をおいて、親しくしていた。知毅の恋に気づいているのか。知毅を思う気持ちはまだあるのか。私は彼女を、注意深く眺めた。しかし私が結論を出す前に、チカちゃんは旅に出てしまった。
キッチンで二杯目の珈琲を落としながら、私は尋ねた。
「ずっと聞きたかったんだが。龍明と君は、いつから付き合ってたんだろう」
二人の結婚式に参列したのは、信乃と知毅が婚約を解消した春から、二年後の春だった。
「君たちはずっと相思相愛だったし。良いムードだったけど。交際の気配はなかった。それがある日突然、明日結婚すると、龍明から立ち合いを頼まれた。あの時は結構驚いた」
チカちゃんは朗らかに笑った。
「あんたはあの頃、彼女をどっちかにくっつけようと、気を揉んでたよね」
「どちらかといえば、龍明と彼女の結婚を願っていた。知毅はそのうち君とまとまるだろう。あの頃も、そう思っていた」
チカちゃんのほうが似合う。知毅の婚約者として、最初信乃に不満を感じた私は、心の中でそう呟いたものだ。
チカちゃんは淡々と語った。
「トモ兄のことはもうなし。あの頃には、そう考えてたよ。高校時代に振られたわけだし。彼女と婚約された時には、また振られた気分になったしな」
「・・・・」
「男と一回も付き合ったことがないってのもなぁって。そんなことが気になる、お年頃でもあった。しかし、俺が意識した男って、トモ兄とあいつだけでさ。あいつは当時つきあってる人もいなさそうで。だから、酔った勢いで誘ってみたんだ」
「君から?」
「そしたら、求婚された。承諾した三日後に結婚した。二人で両親に報告したときには、両親もびっくりしてた。俺もあの成り行きには、随分驚いた」
テーブルに二杯目の珈琲を置き、腰を下ろすと、私は言った。
「彼を落とせたら譲る。怜於にそう言ったって聞いたぞ」
チカちゃんは珈琲に口をつけてから言った。
「そう。身を退くつもりだったのにさ。あのバカ。トモ兄と婚約しちまって。リューチンはあいつを、俺たちの養子にしたいと言いだしてる」
「君らはちょっと変わった夫婦だが。上手くやっていると思ってた。でも君は、彼との離婚を望んでる?」
「したくはない」
「でも。龍明が望めば、離婚するの?」
「レオレオなら良いかなって思ってる」
「怜於なら?」
「俺はあの坊やが好きだし。あの子とリューチンは相思相愛だし。あいつは俺よりリューチンを幸せにできる。そんな気もするんだよな」
「龍明を幸せに?あの子が?」
「うん」
「龍明が付き合った相手は、みんな大人だった。君もそうだ」
「たまたまそうなっただけだろ。あいつのなかには、溺愛したい、強い欲求がある。その欲求は、あの子を恋人にすれば満たされる。相手も溺愛されたいわけだからな」
「今だって溺愛してる」
「今は保護者だからな。遠慮してるところもある」
「あれで?」
「たぶん」
「彼は面食いだ。彼の相手は、君を筆頭に、みんなかなりの美人だった」
「へぇ。俺のルックスを、あんたは認めてくれてたんだ」
「大いに認めてる。しかし怜於を美人とは認められない」
「女の恰好が板についてくれば、俺より可愛い、型にはまらない美人になると思うぞ」
「君が怜於に譲るって言った話。龍明も聞いてる。ショックを受けてたぞ」
チカちゃんはすました顔で言った。
「あいつは俺が好きだからな」
そしてこう続けた。
「だがあの子はもはや、あいつの宝物だ。うっかり手を出したら。俺とは別れて。坊やを嫁にするはずだ」
私は笑って、彼女を睨んだ。
「龍明はそんなことをしない。君を裏切らない。あの子に、うっかり手を出すなんてことはしない。そう思ってるな。あの子は相手にしてない。だから彼を落とせたら、離婚するなんて。君はあの子をあしらったんだ」
彼女は飄々と言った。
「絶対なんてことは何事においてもない。人の気持ちは日々変わっていく」
私は決めつけた。
「龍明があの子にうっかり手を出したら。彼が望まなくても、君は出ていく」
チカちゃんは苦笑した。「まぁ、許さないな」と言った。
この人は龍明を信じている。彼の愛情を求めている。私はそう感じて、微笑んだ。 そして思った。では知毅は?知毅のことはもう良いのか。
探るつもりで、唐突な質問を放ってみた。
「知毅はどうして、あの子に求婚したんだろうな」
予期していなかった質問に、チカちゃんの目が一瞬光った。顔がわずかに強張ったが、すぐに立て直した。「可愛いからだろ」と、鼻に皺をよせて笑った。
「トモ兄もあいつにメロメロだ」
知毅への思いはまだある。知毅の思いに気づいている。知毅との恋は求めていないようだ。私はそう結論をだしたが。恋を求める気持ちを、すっかり失っているのかどうか。そこには疑問を感じた。
私は言った。
「知毅が昔君を振ったのは、まだ幼かったからだ。自分の気持ちがまだよくわかっていなかったんだ。君は彼のそばにいて。たぶんずっとそのままだと思っていた」
チカちゃんは右手を挙げた。私の言葉を止めて呟いた。
「どっちも好きだって、怜於は堂々と言う。で、あいつは、あの二人と、どうなりたいんだろうな」
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