第10話
知毅に怜於の説得を頼まれた翌日。怜於が私の部屋へと、押しかけてきた。玄関の扉を開けた私に、土産の紙袋を突き出すと、私が訪問を拒む前に、「お邪魔しまあす」と上がり込んでしまった。
この日もその姿は、完璧に腕白小僧だった。大き目の白いTシャツにジーンズ、コンバース。シャツには英語のロゴがあった。頭にキタぜ!今日の気分かと、私はその文字を読んだ。
土曜日の午後で。私の部屋には、ひまわり色のワンピースを着て、休日の信乃が遊びにきていた。リビングで彼女を見つけると、怜於はすぐに詰め寄った。
「聞いてくれよ。信乃」
私は仕方がなくカウンターの中に入り、怜於のために珈琲をいれはじめた。怜於は信乃にむかってい訴えた。
「俺、女の子に交際を申し込まれたんだ。もちろん断ったゾ。なのに知毅は、俺にその子とつきあえって言うんだ。滅茶苦茶だろ」
信乃に知毅を悪く思ってほしくない私は顔を上げ、カウンター越しに言った。
「知毅は君に、よく考える機会を与えたいんだ」
信乃が腰かけている二人掛けのソファに、怜於は並んで腰かけていた。憤懣やるかたないという顔で、私の許婚に言った。
「センセイは知毅に、俺の説得を頼まれたんだ。知毅が龍にそう言ってた」
信乃が尋ねた。
「婚約は解消すると、
「絶対解消しない」。
「その女の子とは、どこで知り合ったの?」
「薫の家だ。中学一年のときは同じクラスで。俺のトモダチだ」
怜於に振られた彼女が、知毅に会いに行った事。彼女の考え。私が知毅から聞いた話を、怜於は私の許婚に、母に訴える顔で、まくしたてていた。
ソファの前のテーブルに、怜於の珈琲と、怜於が持参した土産を運んでゆくと、怜於が信乃を見て言った。
「そのルバーブと苺のケーキ、俺もちょっと手伝った。美味いぞ」
信乃は一口食べて、「おいしい」と微笑んだ。
私は信乃の前にある紅茶のポットを手に取り、お湯を入れてきた。ポットをテーブルに置き、二人の前に腰を下ろすと、怜於と信乃は、私に顔を向けた。
私は再び知毅を庇うべく、信乃に言った。
「自分から婚約を解消することはない。知毅はそう言ってる」
信乃が私に訊ねた。
「兼平さんは蓮實さんに、怜於の説得を、ほんとに頼んだの?」
怜於は私を睨んだ。
「俺は嫌だからな!」
私は言った。
「君を説得する気はない。頼まれたが断った」
怜於は疑わしそうに言った。
「ほんとか?」
私は尋ねた。
「龍明と知毅が話してるのを聞いて。頭にきて、ここまで来たのか。説得に耳を傾ける気はないと宣言するために?」
怜於はむっつりと言った。
「知毅ってあんたと龍には。ほんとに何でも話すよな」
「彼女と慎くんには、君はたいていのことを話してる。知毅がそう言っていたぞ」
「ダチだからな。でも慎は、まだこのことを知らないぞ」
私は言った。
「ナオミちゃんが知毅に、君の説得を頼んだ。君のオトモダチが、まず無茶苦茶だな」
怜於はぶっきら棒に言った。
「ナッチは自由で、押しが強いんだ」
声と顔つきに、優しさと羞恥を感じた。彼女に気がないわけではなさそうだった。
信乃が戸惑った顔で呟いた。
「許婚に他の人との交際を薦めるなんて。兼平さんは何を考えてるのかしら」
怜於は信乃の袖に縋りつかんばかりにして、「そう思うよな」と声を上げた。
怜於が怒るのも尤もだし。信乃の言葉も尤もだと、私はそう思っていた。だが、知毅と龍明を批難されると、私はつい庇ってしまう。そして私の許婚は、知毅との縁を思い切りながら、知毅を慕い続けていた。知毅を疑えば、彼女の心が傷つく。信乃を守るためにも、知毅を庇わないわけにはいかない。私は言った。
「知毅が彼女との交際をこの子に薦めたのは、人としてはまともな行為だ」
しかし、信乃は目を見開いた。
「結婚を申し込んだ相手に、他の人との交際をすすめることがですか?」
「女の子と付き合ってみたら、男のままでいたくなるかもしれない」
「でも、怜於はもう、女になると決めてるんですよ」
「そう。手術を急いでる。だから知毅は考えたんだ。後悔する前に、考えるチャンスを与えるべきだってね」
「でも」
「保護者として、そうすべきだと思った。この子が成人するまでは、まず保護者として、この子にとって良いことを考えるべきだ。その義務があると、あいつは考えている。人として、まともな考え方だろ」
「でも。許婚にそんなことが言われたら。相手が自分をどう思っているのか。誰だって考えてしまうわ」
彼女のためも思って、知毅を庇っているのに、なぜ彼女と言い合いになるのだろう。そう戸惑っている私と信乃を見比べて、怜於が言った。
「結婚するつもりがあるなら、俺と付き合うなんてさ。知毅はどうして、あんなことを言ったんだろう」
私は言った。
「君と結婚する気になったからだろ」
怜於の目が剣呑に光った。
「どうして、そんな気になったんだろうな。知毅はそのへんも、あんたになら、話してるんじゃないか?」
私は言った。
「君に捨て身で迫られた。そこまでするなら応えてやりたいと思った。僕が聞いてるのは、それだけだ」
「俺が何をしたのかは、聞いてないのか」
「訊いても、答えなかった」
「あんたにも話さないことはあるんだ」と、怜於は嬉しそうだった。
「君、一体、何をしたんだ?」と訊けば、「脅したのさ」と、軽く息を吐いた。
「それで知毅は俺と婚約したけど。でも俺は知毅にとって、やっぱり子供なのかな」
信乃は怜於の手を優しくとった。
「兼平さんは人に強いられて、結婚を決めるような人じゃないわ」
甘えた顔で、怜於は言った。
「子供だから。そのうち気が変わるだろうって。そんな考えで、結婚なんて言い出したのかな」
私は知毅の相手として、怜於に不足を感じていた。わざわざ邪魔をする気はなかったが、仲を取り持ちたくもなかった。けれど私は信乃に、知毅を悪く思ってほしくない。だから仕方なく、口を開いた。
「一度婚約を決めたんだ。君がその解消を望まなきゃ、あいつは君と結婚する。そういう男だ。いつまで君を子供扱いするかは。君の成長しだいだな」
教え子は無言で私を睨んだ。教師の義務感から、私は付け加えた。
「男のままでも、君を嫁として扱う。あいつはそう言ったんだろ。ナオミちゃんのことはともかく、性別の変更については、よく考えたほうがいいぞ」
「俺、帰る」
怜於は唐突に立ち上がった。
「もう?」と、信乃が腰を浮かせると、「見送りはいらないぞ」と止めた。
私は言った。
「土産のケーキはとても美味しかった。ご馳走様でしたと、律さんに伝えてくれ」
「お邪魔しました。またね。信乃」
つむじ風が去ると、信乃は呟いた。
「兼平さんはどういうつもりで、怜於と婚約したのかしら」
あの二人の問題に、この人との時間をこれ以上奪われたくない。そう思う私は、気難しい顔で言った。
「あいつは元警察官で、基本的には法を重んじる人間だ。気紛れで結婚なんて言い出したりしない」
「でも」
「さっき言った通り。交際を薦めたのは親心だ。あいつにとってあの子は、基本世話をすべき子供なんだ」
「求婚したのに?」
「五割息子で、三割娘、二割許婚。今はまだ、そんなところじゃないかな」
納得できない顔の信乃に、私は尋ねた。
「薫の君は、知毅か僕と結婚したらいいのに。いつだったかな。君の手紙に、そう書いてあった」
「ああ。書きましたね。そんなこと」と、信乃は首を傾げた。彼女の目の丸い童顔は、首を傾げると、小鳥のようだった。つい微笑みながら、私は言った。
「君は知毅と怜於の婚約に、内心ではがっかりしたんじゃないかと、僕はそう思ってたんだけど」
信乃は言った。
「あの子なら良いわ」
この人にとっても、怜於と知毅の婚約は、納得できることではないはず。そう思い込んでいた私は戸惑った。
「蓮實さんは、兼平さんと怜於の婚約が、気に入らないみたい」
「あの子の気が変わって、知毅との婚約が破談になる未来を、期待してるだけだ」
「薫さんは久世さんを選んだ。ならあの子と、結ばれてほしいな」
「君があの子に。そんなに惚れこんだとはね」
信乃は立ち上がり、窓辺に寄った。その手が窓を開けると、初夏の潮風が、室内に流れ込んできた。海を見て、彼女は言った。
「私、あの子を見てると、どきどきするんです」
「ドキドキ?」
「すごく男の子で。でもスカートでも可愛いし。女の子でもある。私があの子のようだったらどんな気分かしらって、時々考える」
「君が?」
「二人が好きって。あの子私に、堂々とそう言ったでしょ」
「言ったね」
「あの時私とても驚いて、あの子のこと、とても気に入っちゃったの」
ほっそりとして小さな背中を見て、私は呟いた。
「君もそう言えば良かったんだ」
振り返った彼女は大らかに笑った。
「あの子にそう言われるまで、思いつきもしなかった」
その笑い顔に心打たれて、私は思わず言った。
「君は面白いね。それに、きれいだ」
赤くなって固まっている人に歩み寄り、抱きしめて呟いた。
「君を追いかけなかったあの二人は大バカだ」
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