第10話

 五月三週目の金曜日。夕食の支度をしようかと台所に立った夕方、知毅から電話があった。

「今夜は一人か」

「今から東京まで出る気はないぞ」

「俺は今鎌倉だ。晩飯を一緒にどうだ。小町の天ぷらとか」

「七時過ぎてもいいなら」

 鎌倉は食い物屋の営業が難しいようだ。私にとって懐かしい、失われた時につながる店は、今やほとんど残っていない。この日知毅と出向いた天ぷら屋は,まだ消えていない店の一軒だ。 船から何度も足を運んだ。この頃はまだ予約をいれなくとも、ふらりと入ることができた。

「いらっしゃいませ」

「来たな」

 知毅は私より先に到着して、カウンター席に窮屈そうにおさまっていた。サングラスはすでに外していた。女将としゃべりながら、熱燗をやっていた。

 私たちにこの店を教えてくれたのは、龍明の祖父である。着物姿で熱燗を飲んでいた、その粋な様子が、頭に残っていたせいか。私も知毅も、この店では、たいてい熱燗を頼んだ。

 すぐ運ばれてきた私の猪口に、知毅が酒を注いだ。熱い酒を一口飲むと、胃腸が調子づいて、急に空腹を覚えた。

 知毅の盃に酒を注いで、私は訊ねた。

「おまえ、一昨日からずっと鎌倉か」

 前日の木曜日、船に行くと、昼食の席に、知毅がいた。水曜日の夜に来たと言った。龍明が主となってからは、私も知毅も、好きな時に好きなだけ、船で寝泊まりしていたが、平日の連泊は珍しかった。

 知毅は言った。

「横浜に用事があったんだ。怜於に話もあったしな」

「今日は目黒に戻るのか」

「ああ」

 知毅の会社の事務所は、都内の目黒区にあった。事務所の近くに、マンションの一室を借りて、住居としていた。

「明日は土曜日だが。予定があるのか」

 知毅の会社は、土日が休日で、経営者の知毅も、基本土日は休日であった。休日ならば、龍明がいて怜於もいる船のほうが、気晴らしには良いだろう。自炊の必要もないから、体も休まるはずだ。しかし戻ると、知毅は言う。予定がなくて戻るなら、船で何かがあったのだろう。

 知毅は何も言わず、伸びた顎髭を引っ張った。

 私は言った。

「何があった?」

 知毅は私に顔を向け、ぶっきら棒に言った。

「頼みがある」

「頼み?」

「あいつを、説得してほしいんだ」

「あいつ?」

「怜於は、夏には手術をすると言いはってる。その前に、女の子と付き合ってみるべきだ。そう思わないか」

 これが今日呼び出された用件かと、 私は知毅の顔を、暫し見つめた。

 

「あいつは、俺と龍以外の男には、関心がない。だが女には、興味をもってる」

「興味津々だ」

「あれをとっちまって、またつけるのは、できるのかな」

「難しいんじゃないか」

「俺たちばっかり追いかけまわしてないで。女の子とも付き合ってみるべきだ。ずっとそう思っていたんだが。ここにきて、あいつとの交際を望む女子が現れたんだ」

「どこの誰だ?」

「あいつのマブダチで、薫姫お気に入りの美少女だ」

「ナオミちゃんか」

「あいつは実にしげしげと、彼女を見る」

「美人だからな。はじめて会ったときには驚いた」

「なのにあいつは、あの子の求愛を斥けちまった」

「彼女は怜於を、男子だと思ってるのか」

「あいつの体の事は知ってるらしい。まことと彼女には、あいつ、たいていのことを話してるようだ」

「今年の四月一日は、彼女に会えなかったな」

「身内の葬式があったらしい」

「おまえとの婚約については知ってるのか」

「交際を断った時に話したそうだ」


 最初に出てきたのは海老だった。知毅は即座に天つゆをつけ、口に放り込んだ。咀嚼して、熱燗で喉に流し込むと、こうぼやいた。

「付き合ってみたらどうだ。そう言ったら、あいつ、信楽焼の菓子皿を叩き割りやがった」

「いつ話したんだ」

「昨日の夜。それからずっと睨まれてる」

 今日戻るのは、さてそのせいか。

 この店の天ぷらは胡麻油の江戸前だ。天つゆで食べるのが本道だろうが、塩でもいける。この日の私は、最初の海老とインゲンを、塩で楽しんだ。それから尋ねた。

「今まで聞きそびれてたが。おまえ、どうしてあの子に求婚した」

 知毅はキスを塩につけて、むしゃむしゃやった。前を向いたまま、照れくさそうに言った。

「何度も迫られて。断るたび、傷ついた顔をされた。かわいそうでなぁ。最後に捨て身でこられて。そこまでするなら応えてやりたい。そう思っちまった」

そんなところだろうなと内心で呟き、私は尋ねた。

「あの子は捨て身で、何をしたんだ?」

 知毅は答えなかった。顔を覗きこんでみたが、笑ってかわされた。

 茄子を天つゆで食べると、私は尋ねた。

「許婚に、女の子との交際をすすめるのか」

 知毅は顔を顰めた。

「おかしなことをしてる自覚はある。だが俺は、九歳のあいつを引き取った。その責任がある。あいつが成人するまでは、保護者でいるべきだろ。まず、あいつにとって何が一番良いのかを、考えるべきだ」

 ここで生ウニの磯辺揚げが出てきた。私も知毅も、無言で熱いうちに堪能した。

 食べ終わると、私は尋ねた。

「婚約したと聞いたのは先月だが。もう解消するつもりか」

 知毅は言った。

「婚約は解消しないと怒鳴られた。俺から破談にする気はない」

 少し意地悪い声で、私は言った。

「婚約を解消したいと、あっちがそう言ったら、どうするんだ」

「解消だな」と、知毅は苦笑した。 

「あの子は、ナオミちゃんを振ったんだろ」

「あいつに振られた翌日、彼女は俺を、銀座に呼び出した。資生堂パーラーのテーブルで、俺に言った。俺は男。彼女は女。怜於は女になって結婚する前に、どっちとも付き合って、もっとよく考えるべきだ。男になりたいか、女になりたいかを」

 この尊大な大男が、女子高生に呼びだされて、許婚への恋心を訴えられる。おそらくはサングラスの下で、目を白黒させていただろう。想像すると、なかなか愉快な一場だった。

「僕はあの子とは、あまり話したことがない。なかなかの度胸だな」


 酒を飲み、目の前に出された天ぷらを、熱いうちに次々頬張りながら、私と知毅は話し続けた。

「俺は彼女に答えた。君とあいつの交際を邪魔する気はない。君の意見には賛成だ。すると彼女は言った。ありがとう。怜於にそう言ってくれませんか」

「あの子と良い勝負の、押しの強さだ」

「中学であの二人を抱えてた慎は、さぞ大変だったろう」

「龍明はもう知ってるのか」

「俺が話した」

「彼の意見は?」

「俺のしたことは保護者としては正しい。だが許婚としては酷い。俺はあいつに謝るべきだと」

「同感だ」

 私の言葉に、知毅は不平そうな顔をした。

「放っておいたら、彼女に惹かれる気持ちには蓋をしちまうさ。あいつはなかなか律儀だからな。だが実際付き合ったら、女のほうが良いって、そうなるかもしれないだろ。なぁ、おまえなら説得できるだろ」

「あの子の説得は、僕の手にはあまる」

 あちらの恋慕に絆され言い交したのに、まだまだ保護者だなと、私は安堵した。もう少し大人になれば、怜於の気持ちが冷めて、二人の婚約は、笑い話になるかもしれない。稚鮎の天ぷらを味わいながら、そんなふうに考えた。龍明と怜於のやりとりをふと思い出して、知毅に教えた。

「龍明はあの子を、自分の養子にしたいと言った。あの子はその案を嫌がってる」

 知毅は言った。

「養子縁組をしたら、龍との結婚はないからかな」

「そのこと。あの子は知ってるのか」

「あいつが結婚を承諾した時、おまえを無理に養子にしなくてよかったって、俺は言ったんだ。理由を聞かれたから、そのへんの法律を、少しばかり講義した」

 ほたての天ぷらを美味そうに食べている知毅に、私は言った。

「あの子は、龍明のことも諦めていない」

 ほたてを酒で流し込むと、知毅は面白そうに言った。

「俺に求婚されて頷いた手前。龍には迫らなくなった。どうすればいいのか、ずっと困ってる」

「やっぱり龍明のほうが良い。あの子がそう言いだしたら、どうするつもりだ?」

 私がそう尋ねると、知毅は私を見て、苦笑した。

「一凛とあいつの戦いは困る」

 私は知毅の目を覗きこみ、言ってみた。

「龍明があの子を選ぶのなら、離婚してもいい。チカちゃんはあの子にそう言ったらしい」

 知毅は数秒固まった。

「何だよ、それ」と笑った。

 私は平然と言った。

「龍明がチカちゃんと離婚して、おまえの許婚の手をとる。そんなことが起きるとは思えないがな」

 前を向いて、知毅は呟いた。

「一凛が身を退くなら。まぁ、俺も身を退くがな」

 今度は冗談めかして言ってみた。

「まぁ、龍明があの子の手をとったら、おまえはチカちゃんと結婚すればいいさ」

 知毅はまた笑って言った。

「チカは妹みたいなもんだ。龍とチカはうまくやってる。そんなことはありえないがな」

 少しばかり声が堅かった。そして口を閉じると、顎鬚を引っ張った。珍しく動揺していた。

 私は思った。彼女を思い切りたい。彼女と龍明の結婚を守りたい。怜於に求婚したのは、そんな心理も働いての結果かと。


 締めの天丼を食べ終えて箸をおくと、私は前を見たまま言った。

「まぁ、おまえでも龍明でもなくナオミちゃんでもなく、別の男を、あの子が選ぶ可能性もある」

 知毅は箸をおいて、私を見た。

「あいつは、俺たち以外の男に関心がない」

 私も彼に顔を向けた。

「あの子は若い。日毎に体が成長する。日々心が揺れ動く。そんな年頃だ」

 知毅は潔く言った。

「まぁ、振られたら、婚約は解消するさ」

 ただしそんな事態を思い描くだけで、面白くないという顔だった。

 振られたときの引き際は良かったが、独占欲は強い男だった。戦うことも好きだった。お気に入りに近づいてくる男を、知毅はすぐ威嚇した。

 ただ龍明のことは、睨まなかった。婚約を解消すると、信乃と龍明を、結び付けようとさえした。

 その頃聞きたかったことを、私はこの日尋ねた。

「龍明なら良いのか?」

 私の質問に戸惑った様子で、知毅は言った。

「龍のことも好きだと、あいつはずっとそう言ってる。龍なら、仕方がないだろ?」

「仕方がない?」

「俺が女なら、あいつと付き合いたい」

 私は呆れて言った。

「おまえはほんとに、彼が好きだな」

 知毅は照れ臭そうに言った。それから何かを言いかけて、黙った。私が顔を見ると、ごまかすように言った。

「なぁ。俺と龍。おまえが女だったら、どっちを選んだ?」

「どっちもごめんだな」と突き放すと、拗ねた顔で横を向いた。

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