第9話

 1984年の三月、私の父は、腹を開く手術をした。夏まで家で、寝たり起きたりの生活を送っていた。

 父の傍には、かつのさんという、よくできた人がいた。私はこの人に父の世話を任せ、月に二、三度、世田谷にあった実家まで、父の様子を見に行った。

 五月最初の訪問は、二週目の週末となった。午後二時に、実家の戸を開けて、傘をたたむと、迎えてくれたかつのさんが、私に言った。

「お帰りなさいませ。少し前に宗形様と怜於さんがいらっしゃって。まだお父様のお部屋に」

 かつのさんは、いつも粋な着物を着ていた。この日は白い宮古上布だったか。私より一回り年上だから、この頃はもう四十代半ばか。その洗練された姿を見るたび、女の趣味だけは良いなと、父についてそう感心した。

 父の部屋を覗くと、ベッドの傍らに、龍明たつあきらと怜於が、腰を下ろしていた。上半身を起こした父は灰色のパジャマ姿で、二人を前に上機嫌だった。

 知毅と龍明は、我が父親のお気に入りだった。二人も父を、私よりよほど気にかけてくれた。

 二十代半ばに実家を出てから、私は父のことを、ほとんど忘れて生きていた。一度も顔を見ない年もあった。一方二人は、正月と盆には、我が実家も訪問。月に一度は、父に誘われ、酒場やゴルフに、付き合っていたようだ。いつの間にか怜於も、二人が育てている子供として、父に紹介されていた。

 私は部屋の隅にある椅子を運び、腰を下ろした。ベッドで上半身を起こしている父を挟み、怜於と龍明に向かい合った。

 怜於が私に、むくれた顔を見せた。

「おじさん。今日はりゅうに、あんたのイトコを押し付けてるんだ」

 父は怜於を、男と思い込んでいた。その頭を混乱させてはと気遣ったのか。白いTシャツに、紺色の麻のシャツを羽織り、ジーンズに白いコンバース。怜於は完璧なまでに、やんちゃな少年だった。

「外務省を出てから、おまえはまるでフーテンだ。たまには、龍くんみたいな、まともな格好で帰ってこい」

 父は顔を顰めて、私にそう言った。

 この日の龍明は、ベージュのシャツを着て、生成りの麻のスーツに、茶色いタイを締め、実に押し出しが良かった。

 私はたしかピンクベージュのシャツに、着古したジーンズ。家に入る時、かつのさんに渡したレインコートと靴は、グレージュだった。どれもお気に入りの品だったが、父はお気に召さないようだった。

 龍明は私に微笑みを見せた。

「タカさんはいつも決まってる」

 私は父に言った。

「こいつのことは、諦めたと思ってました」

 我が従姉妹たちの写真を、父が二人に押し付け始めたのは、私と知毅が大学を卒業した頃からだ。しかし龍明のことは、結婚した日から、口説かなくなっていた。

 父は龍明に言った。

「亭主をほっぽり出して、外国に行く嫁さんなんて。もう離婚しちまえよ」

 私は龍明に訊ねた。

「誰を薦められた」

 引きのばされ、美々しい台紙におさめられた写真を、龍明から受け取れば、一番年下の従妹が、桜色の加賀友禅を着て微笑んでいた。

「朝ちゃんは随分きれいになったな」

「成人式の写真ですか」

「なぁ、どうだ。色気はないが、良い女房になるぞ」

 身を乗り出す父を、怜於が睨んだ。

「龍と結婚するには、その子は若すぎる」

 私は呆れて言った。

「朝子は君より四つ年上だ」

 怜於は、知毅と龍明が後見する『子供』。そう思い込んでる様子で、父が言った。

「龍くんの家にいるおまえさんに、つらくあたるような、そんな娘じゃないぞ。もしそんなことをしたら、俺が叱ってやる」

 龍明が言った。

「朝ちゃんにとって俺は、従兄の友人のおじさん。そんなところでしょうね」

 駄々っ子じみた顔と声で、父は龍明にせがんだ。

「年増が良いなら、るり子がまだ独身だ。なぁ、俺の身内になれよ」

 龍明は父を宥めた。

「タカさんもおじさまも身内だ。俺はそう思ってる。おじさまもそう思ってくれてる。そうでしょう」

 二人との結びつきを、もっと確かなものにしたい。そう願う父は、私を睨み、無念そうに言った。

「こいつが娘だったらなぁ。おまえさんたちのどっちかに押し付けるんだが」

 龍明は私を見て言った。

「タカさんが娘さんだったら、俺のほうから求婚した」

 私は言った。

「どっちの嫁も僕は御免だ」

 龍明は笑い、父は真面目腐った顔で私を叱った。

「こんな良い男のどこが不満だ。タカコ」

 そして怜於を見て言った。

「おい。ボウズ。そこの引き出しを開けて、財布をとってくれ」

「これ?」と、怜於が財布を手渡すと、中から紙幣を取り出して、怜於の右手に握らせた。

「ほれ。小遣いをやる。何を怒っとるのかしらんが、機嫌を直せ」

 怜於はむくれた顔のまま、龍明を見た。龍明が頷くと、「サンキュー。おじさん」と、一万円札を三枚受け取った。

 他人の子供を育てるより、早く嫁をもらって、自分の子供をつくれ。父は知毅にそう言ったらしいが。怜於という坊やは、気に入ったらしい。

 札びらを切る、奢るというのが、我が父の、なけなしの愛情表現だった。十代の知毅と龍明にも、父はたびたび小遣いを与えた。私はそんな父が成金臭く見えて嫌だったが、二人は育ちの良さを見せて、ありがとうと、いつも大らかに受け取った。そんな昔をふと思い出した。


 午後四時半、二人と共に、私も実家を後にした。雨は止み、曇り空から光が差しこんでいた。かつのさんに挨拶をして門を出ると、怜於が私に言った。

「おじさんに、まだ信乃を紹介してないんだな」

 龍明が言った。

「いつ紹介するつもりだ」

 私は言った。

「彼女に結婚を承諾してもらえたら紹介するさ。あちらのご両親にご挨拶をして。その後だな」

 怜於が気を引くように、龍明の左腕をとった。龍明は怜於に、甘やかすような微笑みを見せた。

 怜於が求愛ダンスを始めたとき、知毅と龍明は、怜於に少しばかり距離をおいた。その距離が再び近くなっていたことに、私はこの時気づいた。四月から、時々感じていた違和感はこれかと、合点した。


「おじさまは、あんたの見合いも色々計画してるようだ。あまり顔を見せないのは、そのせいか」

「今年は顔を出してるぞ」

「ずっとほったらかしだったんだ。病気の時ぐらい、もう少しまめに顔を出せ。淋しそうだぞ」

「僕が一人で顔を出しても、たいして喜ばないさ」

「あんたがいると、嬉しそうだ」

 私と龍明だけの会話に、怜於が龍明の腕を引く。龍明はなだめるように、腕組みを深くした。

 怜於は知毅と婚約。龍明は怜於の父になる。そう定まったことに安心して、また怜於を可愛がりたくなったのか。だがと、私は怜於を見た。私と龍明の間に立ち、龍明の腕にしがみつく怜於もまた、私を見た。その目はぎらぎらと光り、私は恋敵の気分を味わった。

「センセイって、お母さんに似てないな」

 龍明が私に説明した。

「あんたが来る前に御焼香を。その時遺影を見たんだ」

 私は怜於に言った。

「僕には二人母がいる。あの方は僕の養母だ。血の繋がりはない」

 怜於は目を丸くした。

「なんか、ヨコミゾっぽいな。旧家のドロドロの事情か」

 たしなめるように、龍明の手が怜於の頭を、軽く抑えた。私は笑った。

「僕の父方の祖父は博打打ちだ。親父殿は戦後の混乱に乗じて、水商売で儲けた成金だ。うちは旧家なんてもんじゃない」

 怜於は言った。

「おじさんは、なるほどだけどさ。センセイって、そんな感じに見えない。センセイとオジサンも全然似てない。血の繋がったお母さんとは似てるのか」

 その人を知る龍明が、私を見て「いや」と言った。

「似てないな」

 私は言った。

「僕は生母の父に似てるらしい」

 怜於が言った。

「会ってみたいな。あんたが老けるとどんな感じになるのか、見てみたい」

「紹介は難しいな。戦時中に亡くなっている」

 興味津々の相手に応えて、私は少しばかり、我が遺伝子の歴史を語ることにした。

「教師だったと聞いている。僕の生母は、だから堅実な家庭で育った人で、戦前は父にとって、無縁の存在だった。しかし戦後、生活に困って、父の経営していたキャバレーに勤める。すでに新劇の女優だったが、まだ駆け出しで、時代が時代だから、ろくな仕事もなかった。親父殿は彼女に一目惚れ。猛攻撃をして、首尾よく付き合い始めたんだが。なにしろ、見栄っ張りの成金だ。自分の店で絶対働かないような、良家の娘との婚姻を望んでいた。そんなあの人を、僕の生母は見限った。別れた後に、僕を孕んでいることに気づいた」

 龍明がこう付け加えた。

「認知を求められたおじさまは、随分慌てたようだ。彼女にはまだ惚れてたし、自分の最初の子供に、不自由な思いをさせたくない。だがその時はもう結婚していた」

 私も付け加えた。

「生母への腹いせに、狙っていた御令嬢を、急いで妻にもらい受けたんだ。頼み込んで頂いた大家たいかのお姫様を、早々に離縁するわけにもいかない」

「おじさまは奥方と話し合い、かつての恋人とも話し合った」

「結果、僕は生まれるとすぐ、親父殿の家に引き取られた」

 何を思ったか。私と龍明の顔を見比べ、怜於が言った。

「センセイの生みのハハは、納得して、おじさんにセンセイを渡したのか」

 私は言った。

「烈しい人だ。納得しなきゃ、渡さなかっただろう。納得してくれて、僕にとっては良かった。僕の養母はすばらしい人だった」

「センセイはその人に可愛がられたんだ」

「生涯少女のような人だった。楽しそうに、僕と遊んでくれて、パイやらクッキーやらを作ってくれた。虚弱児の僕を丈夫に育て上げた、聡明な母親でもあった。僕は幸福な子供時代を送った」

 

「写真の人も綺麗だったけど。女優なら、センセイを生んだ人も美人だな」

「タカさんには似ていないが、やはり美しい方だ」

 私に微笑む龍明をみて、怜於は龍明の腕を引っ張った。

「どっちにしろ、美女と野獣だったわけだ」

 龍明が怜於に言った。

「おじさまは男前じゃないか」

 私は戸惑った。

「男前?」

 龍明は私の顔を見た。

「若山富三郎に似てる」

 怜於が嬉しそうに言った。

「悪魔の手毬唄で、刑事やってた俳優だろ。似てる!」

「あなたはこのところ、市川横溝ブームだな」と龍明が笑い、私は否定した。

「若山富三郎は良い男だが。親父殿に似てるのは、顔の大きさくらいだ。あの人はもっと不細工だ」

 龍明は私に、優しく言った。

「あんたはおじさまに、気難しすぎるぞ」

「君と知毅は、あの人と昔からうまくやってるが」

「俺はあの人が好きだ。知毅だって、嫌いな奴とは付き合わない」

「いつもどんな話をしてるんだ?」

「色々な話をする」

「良く付き合える」

「野蛮人だが、弱いものには優しい。女子供には甘い。抜け目のない人なのに、損得なしで人を助けることもある。良い人だし、どこかカワイらしい。時々俺にはわからない話をするが、一緒にいると楽しい」

「僕はあの人とは、何を話せばいいかわからない」

「大学時代、あんたがボクシング部にいたことを教えたら、会話が盛り上がるかもじれないぞ」

「ボクシング?」と、私と龍明の会話に、怜於が割り込んだ。

 私は怜於に注意した。

「言うなよ。あの人と、ボクシングの話をしたくない」

「動きの切れが良くてさ。鍛えてるとは思ってたんだ。でもボクシングって。ちょっと意外だ」

 そう言って、怜於は一度放した龍明の腕に、再び右手を置いた。龍明は甘やかすように微笑み、怜於の手をとった。怜於の顔が喜びで輝いた。

 知毅と婚約したと聞いた日から、二人が好きだと、怜於は言わなくなった。龍明のことは諦めたのかと。私は疑問に思っていた。

 怜於を自分の子供にすると、龍明は私に言った。だがその願いを、怜於は拒んでいた。

 養父と養子は、養子縁組を解消しても、結婚できない。怜於はそのことを知っているのではないか。私は二人を眺めて、そんなことを考えた。

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