第8話
1984年の三月、私の父は、腹を開く手術をした。夏まで家で、寝たり起きたりの生活を送っていた。
父の傍には、かつのさんという、よくできた人がいた。私はこの人に父の世話を任せ、月に二、三度、世田谷にあった実家まで、父の様子を見に行った。
五月最初の訪問は、二週目の週末となった。午後二時に、実家の戸を開けて、傘をたたむと、迎えてくれたかつのさんが、私に言った。
「お帰りなさいませ。少し前に宗形様と怜於さんがいらっしゃって。まだお父様のお部屋に」
かつのさんは、いつも粋な着物を着ていた。この日は白い宮古上布だったか。私より一回り年上だから、この頃はもう四十代半ばか。その洗練された姿を見るたび、女の趣味だけは良いなと、父についてそう感心した。
父の部屋を覗くと、ベッドの傍らに、
知毅と龍明は、我が父親のお気に入りだった。二人も父を、私よりよほど気にかけてくれた。
二十代半ばに実家を出てから、私は父のことを、ほとんど忘れて生きていた。一度も顔を見ない年もあった。一方二人は、正月と盆には、我が実家も訪問。月に一度は、父に誘われ、酒場やゴルフに、付き合っていたようだ。いつの間にか怜於も、二人が育てている子供として、父に紹介されていた。
私は部屋の隅にある椅子を運び、腰を下ろした。ベッドで上半身を起こしている父を挟み、怜於と龍明に向かい合った。
怜於が私に、むくれた顔を見せた。
「おじさん。今日は
父は怜於を、男と思い込んでいた。その頭を混乱させてはと気遣ったのか。白いTシャツに、紺色の麻のシャツを羽織り、ジーンズに白いコンバース。怜於は完璧なまでに、やんちゃな少年だった。
「外務省を出てから、おまえはまるでフーテンだ。たまには、龍くんみたいな、まともな格好で帰ってこい」
父は顔を顰めて、私にそう言った。
この日の龍明は、ベージュのシャツを着て、生成りの麻のスーツに、茶色いタイを締め、実に押し出しが良かった。
私はたしかピンクベージュのシャツに、着古したジーンズ。家に入る時、かつのさんに渡したレインコートと靴は、グレージュだった。どれもお気に入りの品だったが、父はお気に召さないようだった。
龍明は私に微笑みを見せた。
「タカさんはいつも決まってる」
私は父に言った。
「こいつのことは、諦めたと思ってました」
我が従姉妹たちの写真を、父が二人に押し付け始めたのは、私と知毅が大学を卒業した頃からだ。しかし龍明のことは、結婚した日から、口説かなくなっていた。
父は龍明に言った。
「亭主をほっぽり出して、外国に行く嫁さんなんて。もう離婚しちまえよ」
私は龍明に訊ねた。
「誰を薦められた」
引きのばされ、美々しい台紙におさめられた写真を、龍明から受け取れば、一番年下の従妹が、桜色の加賀友禅を着て微笑んでいた。
「朝ちゃんは随分きれいになったな」
「成人式の写真ですか」
「なぁ、どうだ。色気はないが、良い女房になるぞ」
身を乗り出す父を、怜於が睨んだ。
「龍と結婚するには、その子は若すぎる」
私は呆れて言った。
「朝子は君より四つ年上だ」
怜於は、知毅と龍明が後見する『子供』。そう思い込んでる様子で、父が言った。
「龍くんの家にいるおまえさんに、つらくあたるような、そんな娘じゃないぞ。もしそんなことをしたら、俺が叱ってやる」
龍明が言った。
「朝ちゃんにとって俺は、従兄の友人のおじさん。そんなところでしょうね」
駄々っ子じみた顔と声で、父は龍明にせがんだ。
「年増が良いなら、るり子がまだ独身だ。なぁ、俺の身内になれよ」
龍明は父を宥めた。
「タカさんもおじさまも身内だ。俺はそう思ってる。おじさまもそう思ってくれてる。そうでしょう」
二人との結びつきを、もっと確かなものにしたい。そう願う父は、私を睨み、無念そうに言った。
「こいつが娘だったらなぁ。おまえさんたちのどっちかに押し付けるんだが」
龍明は私を見て言った。
「タカさんが娘さんだったら、俺のほうから求婚した」
私は言った。
「どっちの嫁も僕は御免だ」
龍明は笑い、父は真面目腐った顔で私を叱った。
「こんな良い男のどこが不満だ。タカコ」
そして怜於を見て言った。
「おい。ボウズ。そこの引き出しを開けて、財布をとってくれ」
「これ?」と、怜於が財布を手渡すと、中から紙幣を取り出して、怜於の右手に握らせた。
「ほれ。小遣いをやる。何を怒っとるのかしらんが、機嫌を直せ」
怜於はむくれた顔のまま、龍明を見た。龍明が頷くと、「サンキュー。おじさん」と、一万円札を三枚受け取った。
他人の子供を育てるより、早く嫁をもらって、自分の子供をつくれ。父は知毅にそう言ったらしいが。怜於という坊やは、気に入ったらしい。
札びらを切る、奢るというのが、我が父の、なけなしの愛情表現だった。十代の知毅と龍明にも、父はたびたび小遣いを与えた。私はそんな父が成金臭く見えて嫌だったが、二人は育ちの良さを見せて、ありがとうと、いつも大らかに受け取った。そんな昔をふと思い出した。
午後四時半、二人と共に、私も実家を後にした。雨は止み、曇り空から光が差しこんでいた。かつのさんに挨拶をして門を出ると、怜於が私に言った。
「おじさんに、まだ信乃を紹介してないんだな」
龍明が言った。
「いつ紹介するつもりだ」
私は言った。
「彼女に結婚を承諾してもらえたら紹介するさ。あちらのご両親にご挨拶をして。その後だな」
怜於が気を引くように、龍明の左腕をとった。龍明は怜於に、甘やかすような微笑みを見せた。
怜於が求愛ダンスを始めたとき、知毅と龍明は、怜於に少しばかり距離をおいた。その距離が再び近くなっていたことに、私はこの時気づいた。四月から、時々感じていた違和感はこれかと、合点した。
「おじさまは、あんたの見合いも色々計画してるようだ。あまり顔を見せないのは、そのせいか」
「今年は顔を出してるぞ」
「ずっとほったらかしだったんだ。病気の時ぐらい、もう少しまめに顔を出せ。淋しそうだぞ」
「僕が一人で顔を出しても、たいして喜ばないさ」
「あんたがいると、嬉しそうだ」
私と龍明だけの会話に、怜於が龍明の腕を引く。龍明は
怜於は知毅と婚約。龍明は怜於の父になる。そう定まったことに安心して、また怜於を可愛がりたくなったのか。だがと、私は怜於を見た。私と龍明の間に立ち、龍明の腕にしがみつく怜於もまた、私を見た。その目はぎらぎらと光り、私は恋敵の気分を味わった。
「センセイって、お母さんに似てないな」
龍明が私に説明した。
「あんたが来る前に御焼香を。その時遺影を見たんだ」
私は怜於に言った。
「僕には二人母がいる。あの方は僕の養母だ。血の繋がりはない」
怜於は目を丸くした。
「なんか、ヨコミゾっぽいな。旧家のドロドロの事情か」
「僕の父方の祖父は博打打ちだ。親父殿は戦後の混乱に乗じて、水商売で儲けた成金だ。うちは旧家なんてもんじゃない」
怜於は言った。
「おじさんは、なるほどだけどさ。センセイって、そんな感じに見えない。センセイとオジサンも全然似てない。血の繋がったお母さんとは似てるのか」
その人を知る龍明が、私を見て「いや」と言った。
「似てないな」
私は言った。
「僕は生母の父に似てるらしい」
怜於が言った。
「会ってみたいな。あんたが老けるとどんな感じになるのか、見てみたい」
「紹介は難しいな。戦時中に亡くなっている」
興味津々の相手に応えて、私は少しばかり、我が遺伝子の歴史を語ることにした。
「教師だったと聞いている。僕の生母は、だから堅実な家庭で育った人で、戦前は父にとって、無縁の存在だった。しかし戦後、生活に困って、父の経営していたキャバレーに勤める。すでに新劇の女優だったが、まだ駆け出しで、時代が時代だから、ろくな仕事もなかった。親父殿は彼女に一目惚れ。猛攻撃をして、首尾よく付き合い始めたんだが。なにしろ、見栄っ張りの成金だ。自分の店で絶対働かないような、良家の娘との婚姻を望んでいた。そんなあの人を、僕の生母は見限った。別れた後に、僕を孕んでいることに気づいた」
龍明がこう付け加えた。
「認知を求められたおじさまは、随分慌てたようだ。彼女にはまだ惚れてたし、自分の最初の子供に、不自由な思いをさせたくない。だがその時はもう結婚していた」
私も付け加えた。
「生母への腹いせに、狙っていた御令嬢を、急いで妻にもらい受けたんだ。頼み込んで頂いた
「おじさまは奥方と話し合い、かつての恋人とも話し合った」
「結果、僕は生まれるとすぐ、親父殿の家に引き取られた」
何を思ったか。私と龍明の顔を見比べ、怜於が言った。
「センセイの生みのハハは、納得して、おじさんにセンセイを渡したのか」
私は言った。
「烈しい人だ。納得しなきゃ、渡さなかっただろう。納得してくれて、僕にとっては良かった。僕の養母はすばらしい人だった」
「センセイはその人に可愛がられたんだ」
「生涯少女のような人だった。楽しそうに、僕と遊んでくれて、パイやらクッキーやらを作ってくれた。虚弱児の僕を丈夫に育て上げた、聡明な母親でもあった。僕は幸福な子供時代を送った」
「写真の人も綺麗だったけど。女優なら、センセイを生んだ人も美人だな」
「タカさんには似ていないが、やはり美しい方だ」
私に微笑む龍明をみて、怜於は龍明の腕を引っ張った。
「どっちにしろ、美女と野獣だったわけだ」
龍明が怜於に言った。
「おじさまは男前じゃないか」
私は戸惑った。
「男前?」
龍明は私の顔を見た。
「若山富三郎に似てる」
怜於が嬉しそうに言った。
「悪魔の手毬唄で、刑事やってた俳優だろ。似てる!」
「あなたはこのところ、市川横溝ブームだな」と龍明が笑い、私は否定した。
「若山富三郎は良い男だが。親父殿に似てるのは、顔の大きさくらいだ。あの人はもっと不細工だ」
龍明は私に、優しく言った。
「あんたはおじさまに、気難しすぎるぞ」
「君と知毅は、あの人と昔からうまくやってるが」
「俺はあの人が好きだ。知毅だって、嫌いな奴とは付き合わない」
「いつもどんな話をしてるんだ?」
「色々な話をする」
「良く付き合える」
「野蛮人だが、弱いものには優しい。女子供には甘い。抜け目のない人なのに、損得なしで人を助けることもある。良い人だし、どこかカワイらしい。時々俺にはわからない話をするが、一緒にいると楽しい」
「僕はあの人とは、何を話せばいいかわからない」
「大学時代、あんたがボクシング部にいたことを教えたら、会話が盛り上がるかもじれないぞ」
「ボクシング?」と、私と龍明の会話に、怜於が割り込んだ。
私は怜於に注意した。
「言うなよ。あの人と、ボクシングの話をしたくない」
「動きの切れが良くてさ。鍛えてるとは思ってたんだ。でもボクシングって。ちょっと意外だ」
そう言って、怜於は一度放した龍明の腕に、再び右手を置いた。龍明は甘やかすように微笑み、怜於の手をとった。怜於の顔が喜びで輝いた。
知毅と婚約したと聞いた日から、二人が好きだと、怜於は言わなくなった。龍明のことは諦めたのかと。私は疑問に思っていた。
怜於を自分の子供にすると、龍明は私に言った。だがその願いを、怜於は拒んでいた。
養父と養子は、養子縁組を解消しても、結婚できない。怜於はそのことを知っているのではないか。私は二人を眺めて、そんなことを考えた。
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