第8話
「知毅と怜於が婚約。そして君は彼と結婚する。僕は今年、驚いてばかりいる」
「知毅さんと怜於の婚約には、私も驚いた」
「どうして突然結婚する気に?」
「一度は結婚しなさい。離婚しても、未婚より体裁が良い。去年の夏、その子おばさまにそう云われた」
「あの方はなんにもわかってない俗物だって、君もわかってるだろ」
「あの人にどう思われようと、どうでもいいけど。その時ふと思った。世界のほとんどの場所で、男がいない女は、おかしな目で見られる。男の同伴が必要な席も結構ある。一人くらい、夫を持っていてもいいんじゃないかって」
テラスに座っているのは、私と薫の君。二人だけだった。
南の庭には焼いた肉と野菜の匂いが漂っていた。三十分ほど前まで、バーベキューの道具で、律さんと善さんが、肉と野菜を焼いていた。
臨時に雇われた二人の給仕が、食事の皿を片付け、食後の飲み物と菓子を運んできたとき、私は薫の君を、テラスへと誘った。
テラスの前に広がる芝生では、知毅がグラスを片手に、怜於と
慎くんは久世くんの長男で、怜於と同学年、同じ中学校に通った。以前見た時は、怜於と同じような体格と背丈だったが、この日はもう、怜於より長身で、男らしい体格になっていた。
白いパーカーに黒いデニムとスニーカー。そんな恰好でも、輝くような少年だった。冴えすぎた顔が、隣に立つ怜於の顔を、些か面白く見せていた。だが、並び立って影にならない、怜於の花やかさにも、改めて気づかされた。
龍明は慎くんを、よく家に呼んだ。怜於についで、彼が気にかけた子供だった。その父親を嫌う知毅も、慎くんのことは可愛がっていた。知毅にとっては、龍明の子供だったのかもしれない。
「あの子は君の、義理の息子になるわけだ」
「今日、彼にも報告した。この人は結婚相手には向いていないと思う。ほんとに結婚するんですか。真顔でそう言われた」
「僕も同じことを言いたいね」と言えば、薫の君は、全く気にしない顔で、うふふと笑った。
南の庭の中央に広がる、薔薇の花壇に目をやれば、龍明が椅子に腰かけ、慎父の耳元に何か囁いていた。
知毅が二人を見て、顔を顰めた。久世くんが知毅の視線に振り向き、片手を上げた。知毅は眉をひそめ、二人から視線を外した。
「
「
「あの二人は、龍明を挟んで、昔から睨み合ってる」
「二人とも、相手を龍くんに近づけたくないみたい」
「どうして彼なんだ」
「話し相手としては面白い」
「龍明と僕より?」
「へぇ。焼いてくれるんだ」
「僕は期待してたんだ」
「私と知毅さんの結婚を?」
この日から二年前の春。薫の君が知毅に接近した。龍明からの電話で、そのことを知った私は、二人の結婚を期待しはじめた。
「君は知毅が好きだろ」
「私はたいていの男が嫌い。一寸いいなって思っても、だいたいすぐ嫌いになる。でも龍くんと知毅さんとあなたのことは、ずっと好きだな」
「なら、どうして彼と、結婚するんだろう?」
律さんお手製の苺のパイを食べて、ミントティーを飲むと、薫の君は仰った。
「私が一番好きな男は、たぶんずっと宗形龍明。この事実を認められないと、私の夫は務まらない」
私は息を吐いた。
「君は彼を、式場に引っ張っていくべきだった。チカちゃんにさらわれる前にね」
「龍くんは私を好きだけど。私と結婚したがっていたとは思えないな」
「君が押せば良かったんだ。知毅も彼も、色恋にさほど熱心じゃないが。寄ってくる相手は少なくない。そういう男は、早い者勝ちだ」
「龍くんとチカの結婚も、チカが押した結果なのかな」
「君は子供の頃から、彼に愛されている。君が押せば、君と結婚したさ」
「結婚ねぇ」
「君が交際を求めれば、彼は必ず結婚を考えた。君はただ、あいつをデートに誘えばよかったんだ」
「彼に誘われたら、たぶん、喜んでツマにもなったけど」
「君は彼に、何を求めているんだろう」
「私は彼が好きで、ずっとそばに居たいだけ。あなたもそうでしょ」
「・・・・・」
「知毅さん。あなた。久世くん。結婚を考えたとき、三人の顔を思い浮かべた」
「僕のことも思い浮かべてくれたんだ」
「もちろん。シノコのためにすぐ諦めたけど」
「どうして僕たちなのかな」
「三人とも龍くんに、私と良い勝負で参ってる。私の一番が彼でも、ずっとそうでも、三人とも気にしない気がした」.
「一昨年、知毅は絶対、君との結婚を考えていた」
「はじめて二人だけで、何度かデートをした」
「面白くなかった?」
「楽しかった」
「君は途中で逃げた。どうしてだろう」
「なぜかな」
彼女のことが気になったのだろうかと思った。そう聞きたかったが、聞くことはできなかった。
「退いた私を、あっちも追いかけてこなかった」
「あいつが逃げた相手を追ったことはない。君が逃げなければ、結婚を申し込んださ」
「あっちは、私が逃げると追ってきた」
「女性との付き合いには、全くマメな男だからね」
「人としてどちらが好きかと言えば、知毅さんだ。でもあっちのほうが、刺激的ではある。なんだか、わくわくするんだよね。一緒にいると」
あの男はどんなふうにこの人を誑かしたのか。そう考えて不快になった。苦々しい気分で、私は言った。
「龍明以外の人間には、かなり自分本位な男だ」
「うん。あれは私と良い勝負のエゴイストだと思う」
「彼が良い夫になると思うか」
「元妻たちは、彼を嫌ってない。今も頼ってる。良い夫じゃなくても、悪くない夫だったのかも」
「二人とも、妻としては彼を見限った。当然だ。あの男のこれまでの行状を、君も色々知ってるはずだ」
薫の君は微笑みを浮かべた。
「同居はなし。君の世話を焼く気もない。私は私の家で、私の生活を続ける。愛人の存在は認めるけど、紹介してほしい。私の好みに合わない人を連れてきたら、離婚したいって言いだすかも。以上の条件を承知してくれるなら、君と結婚する。彼の求婚に、私はそう答えた」
家のなかから毬子さんが出てきた。足元に寄ってきた毬子さんを膝に抱き上げ、私は尋ねた。
「久世くんは、それで承諾したのか」
薫の君は仰った。
「笑って承諾した。君とセックスをしたいとも思えない。そう付け加えたら、こう言った。そこは一度試してみてほしい。試して嫌なら、白い結婚で行こう」
「試すの?」
「同じことを言ったら、知毅さんは承諾したかな」
「たいていの男は、承諾しないと思うよ」
薫の君は私に訊ねた。
「
私は戸惑って答えた。
「結婚したら、普通同居するだろ」
薫の君は立ち上がり、私の膝から毬子さんを抱き上げた。
「いろんな人間がいるんだから、いろんな家庭生活があると思う」
「いろんな?」
「人がどんな家庭生活を送っているのか。みんな、身近なところしか知らない。身近の人のことでも、全部知っているわけじゃない」
毬子さんが、薫の君の腕のなかで体を伸ばした。その小さな顔を、薫の君の喉にに摺り寄せ、私を見た。そうね。ほんとにそう。緑の目がそう囁いているようだった。
薫の君は毬子さんを下ろすと、手持ちの小さな籠から、婚姻届と万年筆を取り出した。
「証人は二名。知毅さんには頼みにくい。だから龍くんとあなたに頼みたい」
私は受け取らなかった。
「頼まれたのは嬉しい。だがその役は辞退する」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます