第6話
1984年。宗形薫の名は、女性を滅法美しく撮る写真家として、世に広まり始めていた。一緒に働く人の多くも女性で、私生活で親しくしている人間も、私と知毅と龍明を除けば、
信乃が薫の君に訊ねた。
「久世さんって、久世さん?宗形さんのお友達の?薫さん、あの方と結婚するんですか?」
薫の君は言った。
「昨日、婚姻届を二人で書いた。証人二人に記入してもらって、役所に提出すれば、婚姻成立」
「結婚式は?」
「しないつもりだったけど。両親がうるさくて。めんどくさいから、そのうちするかもね」
私は尋ねた。
「ご両親は反対されなかったのか」
「株屋かって、父は渋い顔をしてた。でも、良家の次男坊で、元大蔵省の官僚だし。行き遅れの娘の婿としては、悪くないと思ってるみたい。母は彼がけっこう気に入ってる」
信乃が尋ねた。
「久世さんも、もういらしてるんですか?」
「庭で知毅さんと睨み合ってる。庭に出て二人を煽ろうか」
薫の君はそう言って、信乃と怜於の背を押した。
「薫はいつからトッキーと付き合ってたんだ」
「いつからだろうな」
三人は庭に出て行った。
その後ろに続こうとした龍明の腕を、私は捕まえた。
外観は洋館の船だが、中身はあちらこちら、日本式になっている。まず靴のままでは上がれない。玄関の正面には硝子の壁がある。扉とその壁の間は、幾何学模様のタイルが張られた土間、壁には大きな靴の棚という空間で、そこで靴を脱ぎ、硝子の壁の両側にある二段の階段を上がって、玄関ホールへ入り込むように出来上がっている。
私は扉を開けて龍明を押し込み、タイルの上で靴を脱ぎ、家のなかへと、龍明を引っ張っていった。公爵も静かに、主人にについてきた。
玄関ホールから奥に進み、宗形邸の一階で、一番大きな部屋を覗けば、誰もいない。私は龍明を、その部屋に連れ込んだ。
「どうした?内緒話か。ときめくな」
「彼女と久世くんが結婚!どうしてそんなことになったんだ?」
この部屋は、居間と呼ばれていた。客をもてなす部屋であり、家人が寛ぐ場所であり、図書室であり、音楽室でもあった。
四十人ほど客を入れて、演奏会ができそうな広さで、窓からは西北の庭が見えた。二面の壁にはめ込まれた棚には、美しい装丁の本が並んでいた。ピアノとチェンバロが窓際に置かれ、様々な楽器が、部屋のあちこちにあった。
チェロにリュート。琵琶に月琴。世界各地の笛に太鼓。
龍明は様々な楽器に堪能で、よく楽器に恋をした。集めた楽器は、この部屋か龍明の部屋か、蔵におさめられていた。
部屋の中央には暖炉があった。暖炉の前には黄土色のペルシア絨毯が敷かれ、緑色のソファセットが置かれていた。一人掛けのソファが三、小柄な人なら四人が悠々腰をおろせそうな長椅子が一、オットマンが四。
私たちは向かい合って、一人掛けのソファに腰を下ろした。公爵も龍明の足元に腰を下ろした。
「珍しく興奮してるようだ」
「彼女は君以外の男に関心がない」
「あんたも好かれてるだろ」
「久世くんには距離をとっていた」
「面白い男だと言ってたが、少し遠巻きだったな」
「彼は彼女も口説いてたが。格別ご執心には見えなかった」
私も知毅も、船で薫の君に出会った。はじめて見た彼女は浴衣姿で、龍明と、庭で蝉をとっていた。私と知毅はまだ十三歳だったが、彼女はすでに十四歳の夏。その風情と涼しい顔立ちと姿に、私は一目で心惹かれた。知毅もまた、彼女と会えば、眩しそうに目を細めたものだ。
龍明に惚れこむ男を、怜於はリュウマニアと呼んでいた。私も相当なリュウマニアだと、そう言われた。否定はできないが、この久世くんと知毅には、かなわない。私はそう思っていた。龍明の腹心の一人でもあり、まぁ、龍明とは、相思相愛の仲である。
この久世くんは、どんな女にも親切な男だった。薫の君にも親切だった。どんな女も口説く口で、時々口説いた。つまり彼女のことを、特別気にしているようには見えなかった。
薫の君は彼が近づいてゆくと、さりげなく身をかわした。
久世くんと彼女の結婚の可能性など、この日まで私は、一度も考えたことがなかった。
「四月一日に会った時。あの二人の様子が、少し変わったとは思ったんだ」
「去年の秋ぐらいからかな、少しずつ距離が縮まってる」
「いつ入籍するような仲になった?」
「いつだろうな」
「君はこの結婚を許すのか?」
「俺は彼女の親じゃないぞ」
「久世くんは、彼女のご両親より、君のお許しを気にするさ」
「どちらも自活している成人だ。結婚に身内の許可は必要ない」
「君は彼女を、もっと大切にしていると思っていた」
「タカさんは二人の結婚に反対なのか」
「当たり前だ」
「久世とは仲良くやってるじゃないか」
「面白い男だ。だが距離をとるべき男だ。彼が君の恋人だったら、君らの仲を、僕も邪魔してたかもしれない」
「だそうだ」
扉に向かって、龍明はそう声を上げた。扉は少し開いていた。その向こうから、快活な笑い声が聴こえた。扉の影からひょっこり顔を見せた久世くんに、私は顔を顰めた。
「君、いつからいたんだ」
公爵は彼に顔を向け、挨拶のように、立派な尻尾を振った。
久世くんは足早に、我々へと近づいてきた。公爵の体を一撫ぜして、龍明の隣に腰を下した。「驚きましたか?」と、いたずらな目で私を見た。
久世くんの身長は、たぶん、170㎝に届かない。龍明の隣に立つと、かなりの小男に見えた。しかしその態度と存在感は、十代の頃からやけに大きかった。活火山が迫ってくるようなあの目は、ずっと変わらない。
高校生の頃はなかなか可愛い顔をしていたが、成人した頃には強烈な顔となった。ハンサムだという人もいたが、そんな甘い顔かと私は思う。
この日は黒いパンツに黒いシャツ。大きめの黒いジャケットを着て、黒い皮のタイを締め、白いバスケットシューズを履いていた。いつもより、さらにタフで自由な魔王に見えた。
私は彼に尋ねた。
「求婚は君から?」
久世くんはにこやかに言った。
「生まれてはじめて、膝をついて申し込みました」
「僕はすでに二回、君の結婚式に呼ばれてる」
「俺から結婚を申し込んだのは、今回がはじめてですよ」
「いつそんな気になったんだろう」
「玲子と離婚した頃から、いつか求婚しようと思ってたかも」
「大学を卒業した頃?」
「久世は薫ちゃんについては。やけに慎重だった」
龍明がそう言うと、久世くんは龍明に顔を向け、優しい声で言った。
「おまえの御気に入りの従姉だからな。そりゃあ、慎重になる」
久世くんは大学を出ると、大蔵省に入ったが、五年勤めて辞職した。そして俗にいうところの、相場師となった。
1984年の羽振りは良さそうだったが、怜於が船にやってきた頃、とんでもない負債を背負い、一時中国に逃げていた。戻ってきたのは怜於が中学一年だった冬。
帰国初日に、まず船にやってきた。私もたまたまその日帰国して、船を訪れていた。久世くんは、土産だと蝶の標本を、龍明の前に置いた。見たことのない、実に美しい蝶だった。
(良い女がいて。結構楽しくやってたよ。あっちでやっていこうかとも思ったんだが。そいつが飛んでいるのを見つけて、おまえに見せたいと思った。だから戻ってきちまった)
その言葉を聞いた時、私は思ったものだ。この男は、少なくとも、龍明にたいしては、純な愛情を持っているらしいと。
「君は、彼女が龍明の身内だから。それで彼女と結婚したいんじゃないか」
「それもあります」と、久世くんは臆面もなく言った。
「おまけにあの人は、実に俺好みときてる」
「君は女性なら誰でも口説く。好みがあるとは知らなかった」
「一番心惹かれるのは、ああいう女性ですよ」
「ああいう?」
「背が高くて、美人で、頭が良くて。男なんて眼中になく、好きに生きてる。うん。女主人、女王様型ですね」
「君が結婚した人は、どちらも君より背は高かったが、そういうタイプだったかな」
「ええ。二人とも、結婚すると、尽くし型の女房になっちまった」
「そこがご不満で、家に居つかなかったのか」
「彼女は俺にずっと冷たくてね。なかなか近づけなかった。で、一度は諦めた。だから、まどかと二度目の結婚に踏み切った」
「あの頃も彼女を狙ってたのか」
「そう。でも、二人目の妻にも捨てられた」
「君は自由すぎる」
「捨てられてよかった。どういうわけか。去年、突然彼女は俺を見た。押してみたら、結婚まで辿りついた」
私は天を仰いだ。どうしてそんなことに。
久世くんは言った。
「彼女と龍のことは、身内扱いなさってる。彼女と結婚したら、俺も身内と思ってくれますか」
私が彼を睨むと、龍明が笑った。
「おまえは俺以外の人間には、あまり努めない。だからいざというとき、味方に恵まれないんだ」
久世くんは私の顔を覗きこんだ。
「蓮實さんには、結構努めてきたつもりだったんだけどなぁ」
私は腕を組んで言った。
「君と彼女が、どんな夫婦になるのか。僕には全く想像がつかない」
久世くんは嬉しそうな顔で両手を広げた。
「どうなるでしょうね。今までとはかなりちがったものになりそうだと、僕の胸は今期待でいっぱいです」
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