第6話
休日が多い、四月二十九日から五月の一週目。怜於と教師を授業から解放する。龍明はそう決めた。しかし結局この週も、私は三度、船へと通った。
一度は用事があって、私が自ら出向いた。一度は知毅に呼ばれて、囲碁を打ちに行った。一度は龍明に、信乃と共に食事に呼ばれた。
「庭でバーベキューをするらしい。君と僕も呼ばれた。どうしようか?」
電話で龍明の招待を伝えると、信乃は呟いた。
「何を着て行けば良いかしら」
「内輪の集まりだ。普段着でいいよ」
「この前も、蓮實さん、そう言ったけど」
この年の四月一日、信乃は十三年ぶりに、船へと乗り込んだ。龍明と知毅は髪を撫で付け、白いピケ・フロントのシャツに黒い絹のべスト、タキシードという出で立ちで彼女を迎えた。その日のことを、気にしているようだった。私は笑って言った。
「あの日は君との久しぶりの再会で、二人とも張りきったんだ。二度目の再会では肩の力を抜くさ」
五月のあの日は、鎌倉駅西口、地元民言うところの、裏駅に近い喫茶店で、彼女と待ち合わせた。私より五分遅く、時刻ちょうどに現れた彼女は、余所行きの薄化粧をしていた。丈の長い、白い綿のスカートに、白いブラウス。クラークスの踵の低い、焦げ茶の革靴を履いていた。ブラウスと靴は、以前彼女の買い物に付き添い、私が選んだものだった。すてきだと褒めると、はにかんだ顔で笑った。
喫茶店を出た時、私を見上げて、彼女は言った。
「蓮實さんが着ると。穴の開いたジーンズでも、おしゃれに見えますね」
着古したデニム、青灰色のシャツ、紺色のジャケットに白い革靴。この日の私は、たしか、そんな恰好だった。
「褒めてくれてるの?」
「もちろん」
「ありがとう」
「蓮實さんに選んでもらった服を着てると、必ず褒められるわ」
門の前で船を見上げたとき、信乃は一度、肩で息をした。門をくぐるには、まだ覚悟が必要。そんな顔つきだった。私はその小さな手を握った。彼女の手を握ったのは、この時がはじめてだった。信乃はおずおずと、私の手を握り返してきた。
船の私道を、二人でゆっくりと歩いた。五月の光に輝く青葉、風の心地よさ、鳥の囀り。彼女は菫の匂いがした。
龍明は公爵とともに、ポーチで私たちを迎えてくれた。白いシャツに、綿麻のベージュのセーターを重ね、白い綿のパンツと白い革靴。気楽な服装だったが、立派な紳士に見えた。私たちを見比べて言った。
「みんなもう来てる。君たちを待ってる」
「お邪魔する」
「お邪魔いたします」
この時信乃はもう三十四歳になっていたはずで、日頃は教え子に慕われる女先生の顔をしていたが、二人を前にすると、不器用な少女となった。この時もそうだ。眩しげな顔で挨拶をすると、狼狽えた様子で、公爵の前に屈みこんだ。
「公爵様。ごきげんよう」
そんな信乃を助けるように、彼女は扉を開けて、ポーチに現れた。信乃は立ち上がって、嬉しそうにその名を呼んだ。
「薫さん」
宗形薫の君は、龍明の従姉である。私と知毅が生まれた年の六月に、この人は生まれた。背丈は175㎝くらいだろうが、この日は、180㎝の私を超えていた。踵のあるミュールを、履いていたのだ。向かい合った信乃が、かなり小さく見えた。
「やっと会えた。この頃シノコは、私にちょっと冷たいな」
落ち着いた、よく響く声。涼しげで、落ち着き払った話し方は、どんな時にも変わらない。
男の理知と女の聡明が同居する白皙。この日は、ショートヘアの前髪をうねらせた、二十年代風の髪型をしていた。凝った薄化粧に、グレーの夏物のスーツ。上着は脱いでいた。ベストとパンツに、白いシャツと紺のタイ。凛々しくも艶めかしかった。
薫の君に少し遅れて、怜於もポーチに出てきた。ベージュのミリタリージャケットを着て、フレアースカートを履いていた。誰かに世話を焼かれたようで、顔立ちがいつもより整って見えた。
信乃の前に立った時、怜於の背が伸びていることに気づいた。少し前まで、信乃と同じくらいの背丈だった。だがこの日は生意気な顔で、162㎝の信乃を、3㎝ほど見下ろしていた。足元はマニッシュな革靴で、踵の高さは、信乃の靴と同じくらい。靴のせいではなさそうだった。
「信乃と薫は、仲良しなんだな」
怜於と信乃を見下ろして、薫の君が信乃に尋ねた。
「最近、
信乃は怜於に笑いかけてから、薫の君に答えた。
「今日で三度目です」
信乃と怜於の出会いは、私が信乃に求婚して、我々の交際が改めてはじまった日の三日後だ。
信乃が私の部屋にいた時、怜於が突然訪ねてきた。知毅と龍明が親代わりになっていること、怜於が船で暮らしていることは、私が信乃に教えた。
「俺、龍の部屋で、あなたの写真を見たよ」
信乃と二人の過去を、怜於は幾らか知っている様子だった。鋭い目で信乃を値踏みしていた。
「はじめまして。レオって、素敵な名前ね」
二人が後見する子供に、信乃は無邪気な好奇心を表した。そんな信乃に、怜於は挑むように言った。
「おれ、あの二人が大好きなんだ。恋人になりたいんだ」
「どちらの?」
「二人のさ!」
「二人の?」
「うん」
彼女にとってこの怜於の発言は、とんでもないものなのではないか。私はそう思い、ぎょっとしたものだが、信乃はわずかに目を見開くと、怜於に微笑みかけた。 すると怜於の目から、猛々しい光が消えた。珍しいものを見る目で、微笑む信乃の目を覗きこんだ。
三十分過ぎた頃には、姉に甘える弟の顔で、怜於は信乃に話しかけていた。一時間が過ぎた頃、自分の性別のことまで打ち明けていた。
二人が怜於を甘やかす様子を聞いて、信乃を嬉しそうだった。二人が怜於に振り回されている様子を聞いて、朗らかに笑っていた。その様子に私は戸惑った。
「今気づいたんですけど。怜於って、ちょっと
五月のあの日、信乃は薫の君にそう言った。
ハスキーな声。イルカのように引き締まった身体。顔にみなぎる精悍の気。似ていると言えば似ているかと、私も怜於を眺めた。いやと思い直して言った。
「この子は、知毅とチカちゃんの真似ばかりしてる。だからそんなふうに見えるのかもしれないな」
怜於が信乃に言った。
「一凛は男前の兄貴だが、美人だ。似てるなら嬉しい」
信乃が首を傾げた。
「一凛さんは兄貴なの?」
「この家にきて、俺の女のイメージは変わった。薫も一凛も律さんも、デカイし、クールだ。姉貴っていうより兄貴だよ」
龍明が言った。
「薫ちゃんと律さんは、あなたの変身を助けてくれてるだろ。女性ならではだと思うぞ」
薫の君が龍明に訴えた。
「この子も磨けば、なかなかのものになると思う。でも変身は遠い道のりになりそうだ。もう少し私の言うことを聞くように言って」
怜於は信乃に訴えた。
「この頃薫はほんとうるさいんだ。日焼け止めを塗れとか、化粧水をつけろとか。今日は色々塗りたくられて、眉毛まで抜かれた」
薫の君は怜於の鼻を抓んだ。
「こうだからな」
「また美人になったわ」
信乃は目を細めて、怜於をそう褒めた。怜於はちらりと私を見て、信乃に言った。
「信乃は良い人だ。センセイとの結婚は、よく考えたほうがいいぞ」
信乃の肩を抱き寄せて、薫の君は言った。
「
信乃の肩に置かれた、薫の君の長い指に、指輪を見つけた。結婚指輪をはめる指に、ダイヤモンドが光っていた。私の疑問を見抜いたように、怜於が言った。
「薫はトッキーと結婚するんだってさ」
私は薫の君の顔を見て、龍明の顔を見た。
龍明が言った。
「俺も昨日聞いたばかりなんだ」
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