第15話

 私と怜於が言い合いをして、怜於がどこかに飛び出した日。ナオミちゃんも怜於の後を追って飛び出して、私と龍明とチカちゃんで昼食をとった日。デザートを食べ終える頃に、自由すぎる男女の一対が、船へと到着した。

 薫の君は白いワンピース。久世くんは黒いスーツ。たしかワンピースはカール・ラガーフェルドがデザインしたもので、久世くんのスーツはコム・デ・ギャルソンの商品だった。優れたデザイナーの服は世界を創る。二人が身に纏う世界は異質で、良い勝負で張り合っていた。

 龍明は、二人に微笑み尋ねた。

「突然どうした?」

 薫「迷惑だった?」

「まさか。ただ俺は今、出かけなきゃならない」

 久世くんは薫の君のために、チカちゃんの隣の席の、椅子を退いた。薫の君が腰を下ろすと、その隣に腰を下ろした。

 久世「急に来たこっちが悪い。気にせず行けよ。あの話、頼もうと思ってきたんだが。おまえが忙しいなら、また来るさ」

 龍明「泊っていけるのか」

 久世「二人ともそのつもりで来た」

「すまないが、待っていてくれ。あとでゆっくり話そう」と、龍明は立ち上がった。

「二人に飲み物を出したら、休憩にして食事を」

 そう善さんに言い置いて、食堂を出ていった。

 残された女主人が二人に訊ねた。

「食事は?」

 薫「すませてきた。チャイをお願い」

 久世「俺はアイスコーヒー」

「かしこまりました」と頭を下げ、善さんも食堂から出ていった。

 久世「レオッチがいない」

 一凛「そこの先生にいじめられて飛び出していった。リューチンは、その怜於を探しにいったんだ」

 久世「あの子が飛び出していくたび、龍はあちこち探しまわるが。心配しなくても、あの坊やをねじ伏せられる奴は、そういないよな」

 チカちゃんは口元で微笑み、私と二人を見まわして言った。

「悪いんだが、俺も出かけなきゃならないんだ。母と約束がある」

 薫の君が尋ねた。

「遅くなる?」

「たぶん」

「戻ってきた日に会ったけど。あの時はすぐ帰らなきゃならなかった。聞きたいことも話したい事も、いろいろあるんだけどな」

「近いうちに、御宅に伺いますよ。先輩」と流して、立ち上がったチカちゃんに、私は少しほっとした。この二人の客と彼女は、今同席すべきではない。そんな気がしたのだ。

 彼女が去ると、薫の君がおっとり言った。

「追及の気配を感じとったのかな。逃げられた」

 私の予感は当たっていたらしい。

 私「追及って?」

 薫「怜於は知毅さんと婚約した。今後彼女はどうするのか。どうしたいのか。確認しておきたい。四月一日から、彼女が帰ってくるのを待ってた」

 私「確認してどうするの」

 薫「私は怜於を応援してるけど。一凛の敵にはなりたくない。彼女の考えによっては、色々考えなきゃいけない」

 久世「レオッチも彼女も、君のお気に入りだもんあ」

 一凛「彼女のハンサムな目元が好きだな。腰つきもセクシーだな」

 久世「少年みたいに引き締まってるが、男の腰じゃない。ジーンズ姿がたまらん」


「しばらくの間失礼して、律と昼食をとらせていただきます。台所におりますので、御用があればお呼びください」

 我々の前にそれぞれの飲み物と取り皿を、真ん中にチョコレートやクッキーを乗せた大皿を置くと、善さんはそう挨拶をして、食堂から下がった。

 アイスコーヒーを一口飲むと、薔薇の花咲く庭を眺めて、久世くんは言った。

「チカちゃんは、どういうわけか、ずっと兼平さんが好きだよなぁ。兼平さんも今は、王妃様をお慕い申し上げている」

 私は思わず口をへの字に曲げた。二杯目の珈琲に口をつけてから言った。

「二人とも、恋に走る気はない。思っているだけだ」

 薫の君は言った。

「そうね。だから怜於と婚約した。踏ん切りをつけるには、良い時期だと思ったのかも」

 二人とも目がきく。気づいているだろうとは思っていたが、さて、いつ気づいたのか。私は二人の顔を見比べて尋ねた。

 私「知毅にとってチカちゃんは、幼馴染の妹分だった。松本さんと婚約していた頃も、龍明とチカちゃんが結婚した頃もそうだった。いつから今みたいな様子に?」

 薫「龍くんとチカが結婚して、三年くらいたった頃かな。ある日、チカを見る目に、おやっと思った。それからしばらくの間、二人をついつい眺めてしまった。彼女に接する態度が、前とはずいぶん違っているように感じた」

 久世「そんな頃からだったとは。俺があれって思ったのは、レオッチがこの家で暮らすようになって、しばらくしてからです」

 薫「あなたはあの頃、中国に逃げ込んでた。そう。知毅さんも、あの年の春、香港の領事館務めになったんだ。翌年の夏には戻ってきたけど、しばらくの間、やけに忙しそうにしていて、ずっと会えなかった。二人を見ることがなかった。だから私、そんな印象を、しばらく忘れてたんだな」

 私「香港から戻った年、あいつは警察を辞めて、会社を立ちあげた。あの頃はかなり忙しかったはずだ」

 久世「レオッチがこの家で暮らし始めたのもその年でしたね」

 薫「次の年の後半は、知毅さんにもチカにも、この家でよく会った。怜於がきてから、知毅さんは休日を、この家で過ごすようになって。チカもあの頃は家によく居た。そしてある日私は、二年前の印象を思い出した」

 久世「あの頃はまだ、兼平さん、自覚してなかったと思うけどな。彼女連れでこの家に来てたし」

 薫「二人が好きだと、怜於が騒ぎ出した頃だったよね。鏡子さんに振られたのは。あの頃はもう自覚してたのかな。チカがいるときには、この家で知毅さんに会う回数が少ない。私がそう気づいたのは、ここで鏡子さんを見なくなってからだ。チカはいつ気づいたのかな」

 久世「去年はもうわかってた。今回の旅がやけに長かったのも、そのせいだろ」

 薫「どうかな」

 私は息を吐いた。

「去年帰国するまで、僕はまったく気づかなかった」

 薫の君が言った。

「あなたの外国暮らしがはじまったのは、龍くんたちの結婚式の、三か月後くらいだった。でも一天さんなら、勘づいてるかもって思ってたのに」

 久世「去年まで、会うのは一、二年に一度。この人が気づいていたら、あの三人の関係、今頃もっと噂になってるよ」

 私「結構噂になってるのかな」

 薫「この家の人間関係については、色々と噂がある。おかしな家。そう仰る人は少なくない。噂の一つに、知毅さんとチカの、ランスロットとギネヴィア説もあるらしいけど。うちの女の子たちは、あなたが帰国してから、あの三人の三角関係より、あなたとあの二人の三角関係を、気にしてる」

 私「僕とあの二人の、

 久世「三人とも、隠し事は下手じゃない。俺たちはあの三人とは長い付き合いだ。三人を知り過ぎてて、三人とよく話もする。それに勘が良すぎる」


 青空高く、良く晴れた日だったが、この時急に空が曇ってきた。空を見上げて、私は言った。

 私「怜於を養子にしたい。龍明はチカちゃんにそう言ったらしい」

 薫「チカを試す発言かも」

 私「ああ。そのつもりも、あるかもしれないな」

 久世「龍はレオッチにメロメロだ。嫁にできないなら、我が子にしたいだろうとは思いますよ」

 私「僕は龍明のほうが、怜於の手をとるんじゃないかと心配していた」

 薫「チカと別れたくはなさそうだけど。知毅さんの心境の変化も。チカが彼を思い続けていることも、たぶんだいぶ前から、わかってる。チカと別れて、怜於の手をとるかもしれない。私もそう思ってた」

 久世「そっちに進む可能性は、三月までは大だったと思いますね。松本さんと兼平さんの婚約が破談になったことに、あいつは負い目を感じてる。今度は自分が譲る気か。俺もそう見てた」

 薫「でも知毅さんは怜於と婚約しちゃった。悠然とかまえてるけど。龍くんは今、結構戸惑っているかも」

 久世「三人に気兼ねなしの底音そこねだと。チカちゃんと怜於。あいつはどっちが良いんだろうな」

 私「それは、チカちゃんだろう。彼は彼女を愛してるし。怜於はまだ子供だ」

 久世「どっちも愛してますよ。あんただって俺だって、深く深く愛されてる。俺が気になるのは、俗にいう、アイヨクの問題です。俺は長年あいつを見つめ続けておりますがね。あいつのそういう好みって、今一つわからないんですよね」

 私「あんな子供が、彼の好みだと?」 

 久世「じゃあ教えてくださいよ。あいつのタイプについて」

 薫「龍くんはほんとに幸せそうな顔で、怜於を可愛がる。あの顔を見てるから、あなたも心配したんでしょう」

 怜於を抱き寄せる龍明の顔を思い出した。チカちゃんの言葉も思い出した。あいつは俺よりリューチンを幸せにできる。そんな気もするんだよな。しかしそんな可能性について考えたくない私は、薫の君の顔を見て思った。彼の第一の女が彼女だと認めたくない。この人にも、そんな思いがあるのかもしれないと。


 オレンジピールを包んだチョコレートを一つ大皿からとって齧ると、薫の君が言った。

「三人に気兼ねなしの底音だと、チカはどちらを選びたいのかな」

 私「どちらも選びたくないのかもしれない。そんな気もする」

 薫「彼女も今は、二人が同率で好き?」

 私は忠告した。

「怜於のように、滅茶苦茶を言う人じゃない。あんまり追及すると、また旅に出るかもしれない。帰ってこなくなる可能性もあるよ」

 久世くんが顔を顰めて、腕組みをした。

「兼平さんはどうして、龍と彼女が結婚してから、彼女の魅力に気づいたんだろうなな」

 薫「知毅さんが十代にお付き合いした女性って、二人とも、二十代後半くらいだったな」

 私「日本で一人、アメリカで一人、ガールフレンドをつくったが。どちらもそのくらいの年頃だった」

 薫「そのくらいの年頃にあるお姉さまが、一番好きなのかも。チカがその年頃になって、ようやく自分の好みだって気づいたのかも」

 久世「松本さんは年下だ。今でも大人のお姉さんってタイプじゃない」

 薫「シノコは私のお姫様でお姉様。可愛い人だけど、絹に包まれた鋼でもある。早熟で、十八歳の頃でも十分に、貴婦人でお姉様だった」

 私「あいつの女性の好みは、そうだな。しっかりしてて人柄が良いお嬢さんで、あいつの世話が焼けるお姉さんって人だ。十代のチカちゃんは、前者ではあったが、後者にはあてはまらなかった。今の彼女ならぴったりだ」

 薫「デコルテと脚がきれいなら、なお可。チカは少し撫で肩だけど、脚はきれい。私もその点はまぁ及第。でも男の世話を焼く女じゃない。だから、深追いしなかった」

 久世「偉そうにしてるが、あの人はわりと凡庸な男だ。君には勿体ない。それと君のデコルテと脚のラインは、及第なんてもんじゃない。目も眩む美しさだ」

 私「怜於は完全に例外だな。まぁあいつがあの子と婚約したのは、何かのはずみの結果だろう」

 薫「結婚なんて、何かのはずみでするものだし。怜於は上手く女に育てば、わりとトモ兄好みの女になると思う。多少野性的すぎるかもしれないが、デコルテのラインは、チカよりイケてる。あの人、抜け目なく、そのへんは見てとってると思うけどな」

 久世「蓮實さんは認めたくないかもしれないが。あの人、龍以上に、レオッチには噛んで振り回されてますよ」


 空が暗くなって、風が木々を揺らした。

「降り出しそうだ。中に入らないか」

 私の誘いに二人は腰を上げ、私も立ち上がった。菓子皿を手に取ると、私は久世くんに訊ねた。

「君たちはもう、入籍をすませたのか」

 薫の君のカップと、自分のグラスを手に取り、久世くんは答えた。

「ええ。俺はもう宗形時億ときやすなんです」

 私「君が宗形の籍に入ったのか」

 久世「俺は次男坊ですから」

 薫「私も跡取りじゃないけど、この人の希望でそうなった」

 久世「戦後施行された民法では、婚姻届を出すと、結婚した二人の戸籍がつくられる。どちらも親の戸籍から抜ける。つまり新しく家ができあがる。なのに、結婚してどっちかの姓しか名乗れないというのは、中途半端だ。新に姓を作っても良いはずだ。龍はそんなことを言ってましたが。俺は、龍の姓を名乗れて嬉しい」

 薫「この人、もう実印も、新しく作っちゃったの」

 テラスの食卓にあったものを、すべて室内の食卓へと運び、麻のクロスを畳んだ時、雨が降り出した。 

 室内の食卓でも二人は並び、私は二人の前に腰を落ち着けた。二人の顔を見比べて、私は尋ねた。

「結婚式はしないことに?」

 薫「ここで披露宴をしないかって、龍くんが言ってくれてる。今日はその打ち合わせにきた」

 久世「親しい人だけ招いて、気楽な集まりにするつもりです。蓮實さんと松本さんには参加してほしい。日取りが決まったら、招待状を送ります」

 夫を一人持つのもいいんじゃないかと思って。同居はなし。世話を焼く気もない。私は私の家で、私の生活を続ける。薫の君はそう言った。彼女が久世くんの求婚に応えたのは、女王様タイターニアの気まぐれか。

 私は久世くんに訊ねた。

「君がこの人に好意を寄せていて、ずっと狙っていたことは聞いたけど。結婚を申し込んだのはどうしてかな。君にとっては三度目の結婚だが。結婚という制度を、君はどう考えてるんだ」

 久世くんはいたずらな目で、細君の手をとった。

「子供ができたからと望まれて、二度結婚した。俺、惚れた相手には、なんでも差し出したくなる質なんです。子供を私生児にするのは悪い気もしたし。結婚という制度については、まだ意味があるのかと、ずっとそう思ってました。だがこの人が相手なら、結婚も面白いかもしれない。そう思って申し込んだ」

 久世くんに微笑みかけて、薫の君は言った。

「あなたは龍くんの身内になりたかったんだ」

 久世くんは彼女に言った。

「あいつの身内にはなりたかった。でも君だから申し込んだ」

 私は苦笑した。

「君らは結婚という制度を、おもちゃにしたいようだ」

 薫の君の瞳が輝いた。

「そうかも」

 久世くんは彼女に囁いた。

「二人でおもちゃにしよう」

 この時、二人が結婚した理由については、何となくわかった気がした。その具体的ヴィジョンが、一致しているのかもしれない。そしてそのヴィジョンを共有できる相手は、あまりいないだろう。その一点において、お互いを得難い相手と思い、結婚に踏み切ったのではなかろうか。

 薫の君はとんでもない男と結婚した。この意見を変える気にはなれなかったが、二人の調子は、意外なほどよく合っていた。入籍してしまった以上、反対を唱えても意味がないしと。その様子に諦めを覚えた。

 「三人とも濡れないといいけど」

 雨脚が強くなってきて、薫の君がそう呟いた。

 仲良く窓の外を見る二人を、私は眺めた。とんでもない夫婦ができあがったもんだと、そう思った。

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