第3話
「お茶をいれる。何が良い」
「プーアル茶ありますか」
「あるよ。翠香園の胡麻団子もある」
「中華街に行ったんですか」
「昼間ね」
「兼平さん。なんだか、この前お目にかかった時より、髭が濃いみたい。忙しいのかしら」
「あの日はあれで、久しぶりにめかしこんでたんだ」
「ずいぶんワイルドになられたんですね」
「二十代の頃より、かなりむさくるしくなったな」
「昔と随分変わられたけど。かっこいいです」
「ほんとにそう思う?」
「わたし、お邪魔しましたか」
「あいつが突然来たんだ」
「バイト代って、あの探偵ごっこのお給料?」
「うん」
「社長さんが自ら届けにきたんですか?」
「こっちに来たついでかな」
「兼平さんの会社は、あんな仕事も引き受けるんですね」
「メインの事業は、ボディガードの派遣。それにオフィスや家の警備だろうな」
「身辺調査って、どんな人が依頼するのかしら」
「あやしい社員の調査。見合い相手の調査。浮気の調査。他にはどんな依頼があるのかな。手間がかかる割にはリスクが高い。割に合わない仕事だ。あまり引き受けたくないと言ってたが」
「リスク?」
「調べる相手から、訴えられる可能性もある。警察に届けなければならない事態が判明して、届けるかどうかで、依頼主と揉めるなんてこともあるそうだ」
「あまり引き受けたくないなら、どうして引き受けるのかしら」
「好きなんだろうな」
「調査が?」
「時々自分で調べてるようだ」
「社長さんなのに?」
「あいつの会社経営は、たぶん、仕方なく、やってることだな」
「
「今回のバイト?」
「そう」
「ちょっと、面白かったな」
「元警察官に頼まれて、元外交官が探偵の真似事」
「何?」
「実は二人して、元職場と切れてなくて。影でこっそり仕事をしてたりして」
「いいね。それ。今度そういう小説を書こうかな」
「面白そう」
「ところで、買ってきてくれたものは、今日中に食べなきゃならないもの?」
「本日中にお召し上がりくださいもありますけど。明日なら、まだ美味しいと思うわ」
「外食は嫌?買ってきてくれたものは冷蔵庫に入れて、後で分け合おう」
「行きたいお店があるんですか?」
「君は今日、素敵な服を着てる。せっかくだから、どこかに行かないか。僕もたまには、良い服が着たい」
「デートみたい」
「うん。デートだ」
私と信乃が婚約したのは、1984年の三月十三日である。
この日私は神田の蕎麦屋で、来週見合いをすると、信乃から聞いた。見合いについて、私は思いつくまま、色々と尋ねた。そして質問が尽きたとき、私の口が、こんな言葉を口にした。
「僕じゃあ、だめかな」
信乃は目を見開いた。私も驚いた。しかし私の口は、なおも勝手に動いた。
「仕事は続けても良いと、その男はそう言っているようだが、僕は続けてくれとお願いする。君のような教師を、子供たちから奪いたくないからね」
私の顔を繁々と見て、信乃は私に尋ねた。
「蓮實さんは、私と結婚したいんですか?」
私は言った。
「妻子が欲しいと思ったことはないが、君となら、結婚したい」
ほんとに?私は私自身にそう尋ねた。そして感動した。自分の気持ちが、やっとわかった気がした。
信乃は熱燗に口をつけてから、生真面目な顔で言った。
「ずっとお目にかかってませんが。私にとってあのお二人は、今でも特別な方たちです。たぶん、ずっとそうだと思う」
「わかってる。でも君は、どこかの誰かと見合いをする」
「ずっとそうだと思うけど。お二人とのことは、終わったことなんです。こっそり誰かを思っていて、家庭を持ちたいと思うのは、悪いことでしょうか」
熱燗を一口煽って勢いをつけ、私は彼女に言った。
「僕は悪いこととは思わないけど。君のなかには、罪悪感があるようだ」
「・・・・・」
「僕は君の気持ちを知っている。僕と結婚すれば、夫に秘密を抱えているという罪悪感は、抱かずにすむ」
信乃は私の顔を、澄んだ瞳で見つめた。
「うん。あなたは私の気持ちを知っている。ツマが他の男を、トモダチを思っていることを、認めると?」
どう言おうかと悩みながら私は言った。
「君は、あの二人にふさわしい。あの二人も君にふさわしい。だから認める。あの二人以外の男が君の夫になるのは、我慢ならない。それなら僕と結婚してほしい」
数年間、手紙をやりとりするだけの交際だった。帰国して、やっと少し、彼女に近づけたところだった。ここで見ず知らずの男に登場されるのは、かなわない。そう焦る私の顔に、信乃は首を傾げた。よくわからないわ。そんな顔だった。
「僕のことも、あの二人は兄弟と呼ぶ。僕と結婚すれば、君もあの二人の身内になる。身内として、君はあの二人のもとに、戻ることができる」
「身内」と、信乃は呟いた。
私は失敗したと思い、もうそれ以上何を言えば良いのか、わからなくなってしまった。
けれど信乃が言った。
「わたし、かなり不器用で。裁縫もアイロンも苦手なんですよ」
なぜそんなことを言うのだろう。かすかに希望を感じて、私は言った。
「アイロンは僕が受け持つ。二人とも苦手な事は、プロに頼めばいいと思う」
信乃は生真面目な顔で呟いた。
「私、男の人にとって、けっこう、かわいくない女かも」
どう答えるべきか悩みながら、私は正直に言った。
「僕は君を、可憐な人だと思ってるけど。その、可愛いと思ったことは、ない気がする。君は十八歳の頃でも大人だった」
信乃は戸惑った顔で私を見た。掌に汗を感じながら、私は言った。
「君に断られたら、僕は独身で生涯を終える。そんな気がする」
穴子の天ぷらと蕎麦を、店員が運んできた。
蕎麦と天ぷらを見て、彼女は言った。
「一年くらい、お付き合いをしてみませんか」
私は身を乗り出した。
「返事はその後で?」
彼女は私を見て、微笑んだ。
「来年の三月、蓮實さんが、もう一度申し込んでくださるなら」
「期待していいのかな」
「来年の三月。蓮實さんにその気がなくなっていたとしても。お友達ではいられますよね」
「結婚してもらえなくても、僕は君に、友人とは思ってもらえる。そう思っていいのかな」
右隣の席にいた和装の老人が、小声で言った。
「結果が気になるな」
そちらに顔を向けた私たちに、彼は言った。
「来年のこの日に、この店でもう一度求婚してほしいもんだ」
左隣の席にいた、職人風の若い男が、そう言った。
「俺も気になる。ぜひそうしてくれよ」
賛同のつもりか。拍手が数人からおこった。皆聞いていたらしい。聞こえなかったはずの、遠い席の客も、釣られて拍手をしていた。
私と信乃は立ち上がり、店内を騒がせた詫びに、一礼をした。これが私たちの、最初の共同作業となった。
見守っていたい。力になりたい。何かあれば駆け付けよう。私は知毅と龍明に対して、ずっとそんな思いを抱いていた。信乃にたいしても、いつからか、そんな思いを抱くようになっていた。けれど求婚したこの日まで、信乃との結婚を考えたことはない。知毅か龍明か。どちらかのもとに帰るべき人だと、そう思っていた気がする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます