第4話

 龍明と話したい。四月最後の木曜日。朝起きるとそう思った。知毅と怜於の婚約を、彼がどう思っているのかが、確かめたくなった。

 前日は怜於の授業の日だった。授業が終わると、龍明はすでに出かけていた。怜於は言った。

(明日は一日うちにいるから、二人でピアノを弾いて、海に行く)

 怜於が授業を受けている午前中ならば、二人で話ができる。そう思って、午前十時に船へと押しかけた。

「おはようございます。蓮實様」

「おはよう。善さん。龍明は部屋かな?」

「はい」

「お邪魔する」

 竹本善さんとその配偶者の律さんは、知毅と龍明の祖父に雇われたという。私がはじめて訪れた時には、船に住み込み、働いていた。1984年には、どちらもすでに六十代だったが、まだまだ壮健に見えた。臨時の雇い人を使いながら、船を隅々まで磨き上げ、毎日の食事を用意していた。

 どちらも礼儀にうるさい門番だったが、私の訪問は、何時でも受け入れてくれた。勝手に上がり込んでも笑っていた。この日も私は一人で階段を上がり、三階の龍明の部屋に向かった。扉を叩いても答えがないので、無断で開けた。

 船の建物は三階建ての本館と、平屋の別棟に分かれていた。別棟には檜造の大きな浴室があったけれど、本館のいくつかの部屋にも、小さな浴室がついていた。龍明の部屋にもあった。そこから水音が聞こえたので、またも勝手に扉を開けた。

 浴室のなかは、白檀に似た香気が籠っていた。龍明の奇妙な体臭だ。体温が上がると、匂いも強くなった。だから浴室では、特に強く匂った。龍明と、ハンサムなブラックシェパードと、美しい雉猫が、湯気のなかで私を見た。

 犬の名は公爵。猫の名は毬子さん。どちらも知毅が、船へと連れてきた。

 龍明と公爵は湯のなかにいた。毬子さんは、浴槽の端に置かれた蓋の上に、ちんまり座っておられた。

「みんなで入るには、ここじゃあ狭いだろう」

 龍明は微笑んだ。

「ここは朝陽が良く入るし、窓から海が見えるんだ」

 なんて立派な男だろう。宗形龍明に会った人間はみな、まずそんな顔で彼を見た。

 はじめて会ったときは十一歳。その年頃にしては大柄だったが、私より小さかった。高校に入学した頃、背丈と逞しさで私を追い抜いた。高校を卒業した頃には、どちらも知毅と並んでいた。

 体も見事だったが、顔も見事だった。医学博士でありながら、医者として働きもせず。祖父が興した製薬会社の役員でありながら、ろくに出社もせず。父祖より相続した富で生活する、高等遊民の「のらくら者」のくせに。紙幣に刷り込みたいような、気韻高い顔をしていた。

 威風堂々が過ぎる顔と姿の近寄りがたさを、いつも上機嫌な顔付きが和らげていた。深い眼差しには、人の心を引き寄せる何かがあり、力強い声には、人の心を落ち着かせる、不思議な優しさがあった。

 彼を美しいと認めない人間も、彼が魅力的であることは認めた。一部の人間は彼に強い反感を抱いたが、一部の人間は彼にぞっこん入れあげていた。どちらもリュウマニアだと、怜於は言った。

「何かあったのか?」

「別に何もないが。話がしたくなった」

「話?」

「君とはなかなか、二人きりになれない」

「そうかな」

「君にはいつもあの子がへばりついてる。でなきゃ知毅か、久世くんか、薫の君か。君のシンパがだいたい傍にいる」

「あんたも忙しい」

「怜於の授業が終わるまでなら、今日は二人になれそうだと思った」

「あんたが呼べば、俺はいつでもどこにでも行くのに」

 湯のなかに沈みきらない、逞しい肩が美しかった。胸元の濡れた体毛が好ましかった。知毅の体も龍明の体も、大型の肉食獣のように見事だった。眺めていると、男とはなんと立派な生き物かと思えた。

「さて。あっちで待っていてくれないか」

「あがるのか。遠慮するな。僕が来なきゃ、あと一時間くらいここで遊んでただろ。君は幾つになっても水遊びが好きだな」

「ここであんたとは話しにくい」

「毬子さん。おいで。ご主人さまは僕の為に、水遊びを中断してくれるようだ」

 知毅も龍明も、私に裸を見せると、羞恥を感じるようだった。無礼なこととも思っているようだった。そんな二人の反応に、子供の頃は結構狼狽えた。この頃はただおかしくて、時々そんな二人をからかった。


 湯気に濡れた猫の体を、タオルで拭いていると、律さんが部屋に入ってきた。

「失礼いたします」 

 テーブルの上に、紅茶と胡桃のケーキが置かれた。毬子さんを乾いたバスタオルに包み、私は椅子に腰を下ろした。タオル巻きの毬子さんは膝の上に置いて、逃げないように手で押さえた。毬子嬢は、ドライヤーがお嫌いだった。入浴後は水気をよくとり、タオルでくるんでおくしかなかった。

「旦那様はまだ浴室ですか」

「すぐに上がってくるはずだ」

「蓮實様は、その子のお気に入りですね」

「そうかな」

「そんなに大人しく抱かれているのは、蓮實様と旦那様だけです」

 ご主人の善さんはいつも温顔だが、奥方の律さんは、いつも難しい顔をしていた。善さんよりかなり長身で、いつも黒い服を着ていた。幾つになっても、背筋が伸びて優雅だった。

 律さんが去るとすぐ、龍明が公爵を従え、浴室から出てきた。ベージュのチノパンツに、カカオ色のシャツ。そんな恰好だったか。彼は茶系の服を好んだ。そして家のなかでは、たいてい裸足だった。

 公爵は龍明から離れ、窓際に体を伸ばした。タオルで十分に水気をとられた、濡れた黒い体が、午前の光に輝いていた。

 龍明は私に、目元で笑いかけた。「待たせた」と、声なく囁いた。私が彼のカップに紅茶を注ぐと、立ったままで、ミルクを入れて一口飲んだ。毬子さんの喉を指で擽ると、ドライヤーを取りに行き、公爵の体を乾かし始めた。

「チカちゃんはまだ戻らないのか?」

「五月の中頃には、戻るそうだ。昨日電話があった」

「知毅と怜於が婚約したことは」

「もう知ってる」

「君が知らせたのか」

「いや」

 二十四歳の秋、龍明は細君を迎えた。細君の名は一凛いちか

 彼女は、龍明が生まれた年の、八月に生まれた。知毅にとっては剣道の師匠の娘で、幼馴染の道場仲間だ。私も龍明も、知毅の紹介で、彼女と知り合った。知毅は彼女をチカと呼び、龍明と私は、チカちゃんと呼んだ。

 結婚した龍明とチカちゃんは、私が身近に知る、どの夫婦とも違っていた。チカちゃんはよく旅に出た。長い不在も珍しくなかった。家に居るときも、夫を放り出して、自分の仕事に忙しそうだった。龍明は時々淋しそうにしていたが、仲間と遊んでいれば、妻の不在は気にならないようだった。たいていのことは器用にこなせる男だし、船には律さんと善さんがいる。日々の暮らしに不自由もなさそうだった。ともにいるときは仲睦まじく見えたが、それぞれ自分の世界を持ち、それぞれの世界で暮らしていた。

 おかしな夫婦だと、私はそう思っていたが、二人の結婚がなければ、私は信乃に、求婚しなかったかもしれない。

 二十代の私は、結婚という制度に疑念を持ち、息苦しさを感じていた。龍明とチカちゃんが、私をそんな感覚から解放してくれた。そんな気がする。


 ドライヤーを止めると、龍明は私の前に腰を下ろした。公爵も彼の足元に落ち着いた。

 毬子さんの眉間を指で楽しみながら、私は言った。

「知毅はあの子を子供扱いして、あの子の求愛を斥けていた。一体何があって、婚約なんてことになったんだ?あいつに聞いても、何も言わない」

「俺が婚約の報告を受けたのは、三月二十九日だ。同じことを聞いたが、だんまりだった」

「君にも?」

「二人の秘密のようだな」

 さてどう尋ねるかと考えながら、私は言った。

「君はこの婚約を、どう思う」

 龍明が言った。

「あの二人が結婚するなら、あの子を俺の養子にしたい」

 私は驚いて言った。

「知毅を君の婿にするつもりか」

 龍明は「うん」と笑った。その顔を見て、私は言った。

「君はあいつが好きだな」

「知毅はずっとあんたが大好きだ。あんたは俺の心の恋人で、恋敵だった」

 龍明を睨んで、私は言った。

「あの子はずっと、君たち二人を追いかけまわしてた」

「知毅が選ばれ、俺は振られた」

「どちらかといえば君のほうが危ない。僕はそう思っていた」

 龍明はいたずらな目で私を見つめた。

「今、昔の恋人に、今の恋を責められている。そんな気分になったな」


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